第10話 『I Want It All』


――深夜2時。ピコン、と通知音が鳴った。


「……ん?」


 ノートを広げたままちゃぶ台に突っ伏して眠っていた相澤は、深夜の寒さに指先を悴ませながらスマートフォンを掴む。居間の和室に人の気配は無く、父親は既に床に就いたようだ。肩に掛けられた毛布から父親の優しさを感じつつ、相澤はあくびをする。


「誰だよこんな時間に……」


 長い間放って置かれていた金属板は、指先よりも冷たかった。相澤は日焼けした畳の上で、痺れた脚を伸ばす。煌々と照りつける蛍光灯の純白が真夜中に不釣り合いだ。皺の寄った教科書は、うまく直せるだろうか。


「……」


 試験期間中によくある夢見心地な焦燥感と不安感の中で、相澤は液晶画面を弄る。半ば作業のような気持ちで赤丸の通知が出ている緑色のアイコンに触れると、見慣れた名前の一覧が広がった。


 10年前はプリクラ帳に入っている写真の数が、そのひとの友達の数だった。今はそれが、SNSの相互登録人数になった。それが全てではないと人は言うし、相澤もそうは思っていない。だが、それもひとつの指標というのは理解している。それはあまりに無機質で、寂しいけれど。


 しかしまあ、全員が全員好きなロックスターの顔をアイコンにしているこの「友達一覧」は壮観でもある。並んだ顔の中から緑の通知で存在を主張するロジャー・ダルトリーをタップして、相澤は日焼けした畳の上に寝転がった。


「……服部先輩だ」


 それは、珍しいひとからの連絡だった。醤油を零したとか、家の前で蝉が死んでたとか、そういうことでもしょっちゅう送ってくる尾津とは違い、家業が忙しい服部は滅多にスマートフォンを触らない。何かあったのかと、心がざわめく。しかし、黒く大きな瞳に飛び込んだ文字列は、想像とは違うものだった。


『よう相澤』

『ちょっと頼みとゆーか、』

『やりたいことがあるんだけど』

『遅い時間にごめんね!』

『相澤のバンド貸してくれない?』


「……は?」


***


 勉強会なんていうのは、勉強を教え合う会ではない。相手が勉強をサボっていないか監視しつつ、勉強した気分を味わうためのものだ。そういうものなのだ。そう。そう、わかってはいるけれど。


「うああダメだ! 世界史まじ無理! ローマ人名前似すぎ! ありえねえ!」

「落ち着け阿久津! 適当な文字列に『ウス』か『ヌス』ってつけときゃ億分の1で当たるぜ!」

「そ、そうだな! 空欄なら億分の1もねえもんな! おまえ天才じゃね?」

「おうおう、宝くじも買わなきゃ当選確率はゼロなんだよ! ところでこのメロスってやつぁ何でこんなに走ってんだ? タクシーとか電車とかねえの?」

「馬鹿おめえ作品の根本を揺るがすなよ! そーゆーところは流せ! 確かにおれもバスとか使わないのは変だなーって思ったけどよォ、今は作者の気持ちだけ考えろ!」

「そうだな、あんま考えすぎんのはよくねえよな!」

「んでよォ、世界史の話なんだけどよォ、貴族はどーやっていろんな役職を独占したんだよ? 貴族ってひとりだろ?」

「おめーは馬鹿か? メンバーいっぱいいんだろ! Wikipediaにも書いてあるぜ?」

「あ、そっか!」


――そっかじゃねえよ。


 黙って伊藤と阿久津の話を聞いていた加藤は、ツッコミを入れる気力するなく、ただため息をつく。試験最終日前日の午後4時。やたらと広くて壁にはイングヴェイ・マルムスティーンのポスターがべたべた貼られた伊藤の部屋は、いつだって加藤ら3人の溜まり場だ。日没を前にしたいまの心情は、どちらかといえば「焦り」というより「諦め」で、加藤は傷んだ髪を指先に絡め、机の上の教科書を睨む。


「赤点回避の加藤先生、さっきからお静かですが今回のご勝算は」

「うーん、そうですねえ。相手の出方次第といったところでしょうか」

「……と、いいますと?」


 我ながら気の利いた答えだ。しかし馬鹿には通じなかった。怪訝そうな阿久津の額をパチンと弾き、加藤は漢字の書き取りを再開する。


 こんなことやっても焼け石に水だとわかっているが、こちらが焼け石でも水は水。やっておいたほうが良いに越したことはない。それに、当日勝負な現代文は比較的勉強しやすいから、やっておいたほうが得だ。なお、暗記勝負の世界史はハナから諦めている。


「というかおまえら、さっきから現文と世界史ばっかりやってるけど、明日数学もあるよね。自信あんの?」


 ふと気になって、やいのやいの言いながら教科書を捲る伊藤と阿久津に問いかけてみると、ふたりは言葉を止めて顔を見合わせた。加藤は鉛筆を耳に挟んで、目の前の馬鹿面を交互に眺める。窓枠が落とす影が僅かに角度を変えるまでの沈黙が続いた後、先に口を開いたのは伊藤のほうだった。


「ふっふっふ……毎度お馴染み数学赤点トリオのひとりとして有名なおれだが、今回ばかりはおまえらと違って勉強してるんだぜェ? おまえらと違って、な」

「ふーん」

「はーん」


 これ以上ないしたり顔の伊藤にこれ以上ない生返事をして、阿久津と加藤は揃って頬杖をつく。伊藤が勉強しているのは癪だが、焦りを感じないわけでもない。勉強した証拠を見せろと阿久津が迫ると、伊藤のしたり顔レベルがもう一段階上がった。


「おまえら耳かっぽじってよく聞けよ? いいか! 今回の数学のポイントは『サイン・コサイン・タウンゼント』だ!」

「……えっごめんよく聞き取れなかった。もういっかい言って」

「『サイン・コサイン・タウンゼント』」

「あーもうだめだ。おまえ赤点だわ」


 何故だと喚く伊藤を無視して、阿久津と加藤は再び教科書を捲り始める。馬鹿に構っている時間は無いのだ。温くなったホットココアの溶け残りを煽ると、喉の奥がざらざらして不快だった。


 間も無く日没で、この無為な勉強会も終わる。15分ほど真面目に漢字練習をしていた加藤は、やがて疲れてうんと伸びをした。絵を描くことならば2晩でも3晩でもぶっ通しでできるのに、まったく、情けないことである。ウンウン言いながら毛の短いラグの上に倒れた加藤は、何の意図もなく机の上のスマートフォンを手に取る。


「あーもうヤマ張るしかねえな。確実に出るとこは確実に押さえて……ってできんのか? ヤマがどこにあんのか全くわかんねえんだけど」

「今までそれすらできなかったのに無理だろ……よし、勉強やめようぜ! 仲良く3人で居残りだ!」

「いやおれと加藤はおめーと仲良く居残りしたくなんかねえから」

「はあ? ほんっとお前さあ、そーゆーとこだぞ!」

「どーゆーとこだよ! どーゆー!」

「……ナ、ナンダッテー?!」


 突如として上がった加藤の素っ頓狂な声に、教科書の上に唾を飛ばして怒鳴りあっていた阿久津と伊藤がびくりと静止する。だが、加藤はそれどころではない。慌てて起き上がり、スマートフォンの画面を弄る加藤の形相に、阿久津と伊藤は顔を見合わせた。


「おめーら、おい、これ、これ見ろ」


 跳ね起きたさいで腰が痛いが、構ってなんていられない。不審げに加藤のスマートフォンを覗き込んだ阿久津と伊藤が加藤と同じような悲鳴を上げたのは、そのすぐ後のことだった。


***


「……馬鹿バズりしてる……」


 華陽軒にはいつも閑古鳥が鳴いているが、今日ばかりはその鳥もどこかへ飛んで行ってしまったようだ。とはいえ、いるのは重音楽部の面々はじめ、365日中360日は華陽軒にいる木津や、いつものように胸元全開な葦原、塾をサボった染井、そしてたまたま通りかかった吉良くらいなのだが。


「……ちょっとこれは予想外というか」

「いや、予想外っていうより……何つーか」

「いやあ、キッカケっていうのはどこに転がってるかわかんないものだねえ」


 カウンターで青くなる相澤と芽衣子の背後のテーブルでは、呑気にワンタン麺を啜る吉良が呑気なことを言っている。しかし相澤としてはそれどころではない。スマートフォンの通知はとうに切っている。が、完全に見ないわけにも行かず。カウンターの向こうから聞こえる湯切りの音はいつも通りで安心できるけれど、無闇矢鱈と回数の多いそれからは、服部の困惑も伝わってきた。


 深夜に服部から提案されたのは、実にシンプルかつ彼らしい企画だった。


――『フレディ・マーキュリー追悼コンサートの「I Want It All」の完全再現がしたい』


 フレディ・マーキュリー追悼コンサートの「I Want It All」といったら、ロジャー・ダルトリーがヴォーカルを務め、サブギターにトニー・アイオミを置いたとんでもない演奏である。場所は既にテスト期間中の放課後を押さえ済み、撮影には染井の協力を仰ぎ、ヴォーカルは自分がやる。謝礼はバンド全員にラーメン1杯。トッピングは2倍。まあ、断る理由は無かった。


 そうして今日の正午過ぎ、会場の体育館に行ってみたら、驚いた。三脚の台数がやたらと多い。涼しい顔をしてセッティング作業をする染井に訊けば、折角頼まれたのだからこれくらいやって当然だと言う。撮影などスマートフォンのカメラで撮る程度だと思っていた相澤は、その時点でちょっと嫌な予感を感じた。


 演奏は、いつも通りにやった。そこにいた誰もが数え切れないほど見返した映像だから、特別に何かを打ち合わせる必要なんて無かった。ガムテープで補強されたマイクを縦横無尽に振り回す服部の姿を眺め、芽衣子の音になんとなく身を任せ、がらんとした体育館で、3~4回ほど通して演奏して。


 そうして尾津だけを観客席に置いた「I Want It All」は、何という事もなしに完成した。3時間くらいして染井から送られてきた動画の出来は非常に良かった。非常に、というより、めちゃめちゃ良かった。その動画を、相澤は何の気なしに自分のTwitterアカウントに載せた。


――そしたら、バズった。


「おお、4万リツイートを超えたぞ」

「マジっすか。やべえな」


 バリバリと唐揚げを貪る木津の報告に、和田が苦い顔をする。相澤は複雑な思いでツイートを見返して、複雑な思いでスマートフォンの画面を暗くした。芽衣子が不安そうにしているから背中を撫でてやると、尾津が「おれもおれも」と寄ってくる。おまえは壁にでも擦り付けてろ。


 いや、別に、何かあるわけではないのだ。元々顔と名前と学校名を出してギター動画ばかりを上げていたアカウントだし、炎上するような事も書いていない。顔が写っている全員にはSNSへの掲載許可を取っていて、動画内容的にもコンプライアンス的な問題は皆無だ。


 だが、ここまでバズってしまうとは思わなかった。通知欄には国内外からのコメントが殺到しているし、Twitterトレンドまとめブログみたいなものにもツイートが転載されている。海外にまでも拡散されているらしく、ひっきりなしに英語でや、見た事もない言語でDMが来る。そうなると、何も落ち度はないのに恐ろしくなってしまうのは当然で。


「……先生、怒るかな」

「その辺りは大丈夫じゃね? さっきハゲから『次はおれが「War Pigs」を歌う』ってメール来たし」

「ハル先生は良くても、校長先生とかは?」

「校長は世界で3番目にリツイートしてるな」

「えっリーダー校長のアカウント知ってるんだ」

「つーか相互。教頭も然り」

「なんでこんなバズんのぉ? いや、みんなの演奏とかはすごいと思うんだけどさぁ」

「まあボラプ効果じゃね? あ、ギターの女子が可愛すぎるみたいなリプもあるな」

「すげえ! 高校のTwitterアカウントのフォロワが400人増えてる!」

「住川第5のTwitterアカウントってアレか? 『HR/HM総合情報bot』って呼ばれてるやつ」

「それ」

「なあおれ前から不思議だったんだけど、うちの高校のアカウントってたまに公式サイトより先に情報出てない?」

「やっぱそうだよな! おればかだけどそれ気づいてたぜ!」

「待て待て。この際うちの高校の巨大な闇は一旦置いとこうではないか。いずれ解明される闇だそれは」


 なんだかいつもより頼れそうな木津に宥められ、和田たちは脱線しかけた会話をやめる。相澤はため息をついて、カウンターの上に置かれた塩ラーメンを受け取った。自分が食べるより先に芽衣子の前に置いてやると、ほの白い芽衣子の頬が静かに微笑む。


「つかさちゃんも食べてね。お昼、しっかり食べてないでしょ」

「……大丈夫だよ」

「だいじょぶじゃない。セッティングが忙しかったんだから、いっぱい疲れたでしょ。ね?」

「……ん」


 正直、感情が複雑すぎて食欲が沸かない。しかし胡麻油を使わない透明なスープは、一口啜れば胃が鳴いた。なんだか非日常的な事が起こっている中で、素朴な鶏ガラの味はどこまでも日常的で。


「そういえば、染井さんはさっきから何をしているんだい?」

「YouTube用の動画の編集。フルバージョンよ。もうすぐできるから、すぐにアップロードする」

「オゥ、がんばってネ。おなかがすいたら――」

「葦原くん、うるさい」

「オゥ……」


 やっと全員分の料理を出し終えた服部が、手を洗ってため息をつく。情報収集目的でしかSNSを使わない服部にとって、自分の動画が話題になるということは少々の恐怖でもあるのだろう。その心情を察しながら、相澤は服部に声をかけようとする。そうしたら、相澤が麺を飲み込むより先に、ぼうっと換気扇を見上げた服部が口を開いた。


「……なあ相澤」

「なんっスか」

「バズったツイートにさ、ウチの店の宣伝ツイート、ぶら下げてくんね?」

「……ウッス」


――杞憂だったか。


 コリコリしたメンマを噛みながら華陽軒の宣伝ツイートを作っていると、店の戸口の外で、カタンと音がした。曇りガラスの張られた戸越しに見れば、暖簾棒の片側が落ちている。すぐに直しに行った木津は、数分後に怪訝な顔をして戻ってきた。

 聞けば、華陽軒の暖簾は以前に風で飛ばされ、近隣へ迷惑をかけたことがあるらしく、今は台風でも落ちないようにボルト留めされているらしい。であるにもかかわらず、片側が落ちるというのは奇妙なことだ。怖がりの和田が震え上がる横で、芽衣子が眉を顰める。


「金属の老朽化でボルトが外れたとかじゃないんですか?」

「いや。暖簾のボルトはおれが毎朝脚立使って締めてるし、木津も確認してくれるぜ」

「うーん……緩かったとか」

「それもねーな。レンチで締めるし」

「……というより、ボルトは締まってた」

「えっ? 締まってないから外れたんじゃなくて?」

「ああ。ボルトだけ締まってて、暖簾だけが落ちてた」

「へー、おもしろいなぁ。イタズラですかねぇ?」

「イタズラも無理あんだろ。180㎝あるおれでも届かないボルトだぞ。脚立使ってボルト外して、暖簾落として、またボルト締めて、脚立撤去するとか無理だろ。おっと、180㎝っつーのはペニスのサイズじゃあないからな」

「ものすごーく背が高くて、ものすごーく力が強い人ならできるかもネ? おっと、ペニスの話じゃありませんよ」

「いるわけなかろうそんなやつ。いたら化け物だ」


 それを聞いていた服部が、ふと腕を押さえて首を傾げる。相澤はその仕草が気になったが、静聴する寺嶋が何か言いたげにこちらを見つめているのに気付いて、考えるのをやめた。

 寺嶋は何か言いたい時、相澤か和田に圧力をかけて喋らせようとしてくるのだ。しかし、それでは彼の自立に繋がらない。この現代社会の荒波の中でも十分生きていける社会不適合者を育むのも、重音楽部の役割のひとつだ。ツイートを送信して、相澤はレンゲでスープを掬う。


「まあ――ひとまずそのことはいいだろ。バズっちまった。こっからどーするよ」

「ンー? 音はオリジナルから引っ張ってきて合成したんだろってコメントがついてるネ」

「合成だとォ? いや芽衣子ちゃんとか相澤とかはまだしもさ、おれの声ちっともロジャー・ダルトリーに似てないだろ」

「ムカつくわね。つかさちゃん、失敗カット送るからアップして反論しなさい」

「ウッス」

「なあなあ、今度やる時はおれボンゴ叩いていい?」

「ダメに決まってんだろ。ボンゴいらねえよボンゴ。紐もキャスターもダメだかんな」

「んもー、けちんぼ!」


 ぶーぶー言う吉良、絶えずそわそわする尾津、こちらを見つめ続ける寺嶋。そういうのは置いておいて、相澤は染井の送ってきた動画をダウンロードし、再びTwitterを起動する。動画を投稿する際、ちらりと見えた過去の重音楽部の演奏動画も、気持ち悪いほど再生回数が伸びていた。怖い。


「まあ、バズったもんはしょーがねーよ。相澤のフォロワもめでたく2000人超えたことだ」

「えっリーダーってそんなフォロワいたの?」

「つかさちゃんのアカウントは元々900人くらいフォロワさんいたもんね」

「なんで知ってんの? フォローしてる? 芽衣子のアカウントどれ? えっ芽衣子って鍵アカなの? 申請するよ?」

「これで相澤たちも、染井の編集技術も、おれの服部の歌もちゃんと世に出た。この時流には乗って行きたいぜ」

「待てやてめー。さりげにおれを私物化すんなし」

「ボンゴ叩けないのォ? おれボンゴ叩きたいボンゴ」

「……」

「テリー、何が言いたいんだ? え? 次はステージにストーンヘンジを置きたい? サイズが肝心だかんな? 間違えんなよ?」

「染井さんは作業が早いネ」

「手持ちカメラでメインのワンカット映像を作って、転換時に固定カメラの映像を使ってるの。元々カメラ割りは提示されてるし、楽なものよ」


 フォロワー欄から芽衣子のアカウントを探し出し、フォロー申請を送っている間に、会話の流れはめちゃめちゃになりだした。相澤は伸びかけたラーメンを口いっぱいに頬張り、むしゃむしゃやる。スマートフォンの画面を眺める芽衣子の横顔の緊張感が、よくわからない。芽衣子には不思議なところがいっぱいだ。だが、そんなミステリアスなところも面白いと思っている。


 相澤は油でべたついた胡椒の缶を取り、何の気なしに芽衣子へ手渡した。芽衣子はラーメンを食べるとき、半分まで食べてから胡椒を振る。そろそろその頃合いだなと思っての行為だったけれど、芽衣子は渡された胡椒缶をしばらく見つめ、不思議そうに瞼を瞬かせていた。


「つーかよぉ! おれおもったんだけどね! べつにさ、なんかさ、バズったからってなんかするわけでもないんじゃね?」


 華陽軒の閉店時間が近づき、ラーメンのスープをいくらかき回しても麺の欠片が出てこなくなった頃、尾津が上げたその大声に、そこにいた誰もが閉口した。相澤は芽衣子の長い睫毛を数えるのをやめて顔を上げる。カウンターに大人しく座っていられないから店内をウロウロしていた尾津は、やがてテーブル席の丸椅子に胡坐をかき、まん丸な眼でみんなの顔をぐるりと見回した。


「だってさ、バズっただけじゃん。何か起こるわけでもないじゃん。バズったのはさ、すげえことだし、これからいろんなことしてみんなのこと楽しませよーとか、そう思うけどさ。でも、毎日はふつーに過ぎていくわけでしょ?」

「……まあ確かにな。尾津もたまにはいいこと言うわな」


 始めにため息をついたのは和田だった。頬杖をついた和田の柔らかい視線に、相澤も頷く。ココナツシロップのタピオカに酢と辣油をかけて食べていた葦原も、尾津の意見に同意した。


「そうですネ。オーディションで優勝したとか、デビューが決まったとか、そういうことはないわけですし」

「引き続き前身あるのみってヤツだよな、こういうのって」

「完全同意。完全同意」

「それにさ、あたしたちって名前が売れてナンボってやつでしょ? 何日かはスマホが大忙しだけど、落ち着いたら大丈夫だよ。きっと日常生活は何も変わんないまま、良い方向に行くよ。きっと」


 芽衣子の柔らかい声に、相澤はただ頷く。そうだ、何かが変わるわけではない。相変わらず重音楽部は廃部の危機を抱えたままだし、自分たちは明日も赤点の恐怖を感じながらテストを受けることだし、それが終わったら練習をするだけだし。芽衣子の白い頬を眺めながら「そうだね」と微笑めば、不安そうだった芽衣子も笑う。


「さ、閉店だ。帰った帰った。おめーら明日もテストだろ? 進路に関わるんだから、帰って教科書読んで寝ろ! 片付けはおれがするからよ!」


 服部の鶴の一声で、皆が立ち上がる。何だか妙な気分だが、明日はテスト最終日だ。しっかりこなして、しっかり点数を取らないと霜山に詰られる。

 不安は多い。今この瞬間も拡散され続けている動画にも、テストにも、将来のことにも。しかし、芽衣子がいるならきっと大丈夫だ。芽衣子がいるなら、自分たちはやっていける。華奢な肩に上着を羽織る芽衣子を盗み見ていると、それに気づいた芽衣子がちょっと首を傾げた。何でもないこんなやりとりが、今日は嬉しい。


「じゃ、ごちそーさまでした! おつかれさまです!」

「はいはーい! 夜道気を付けてなー!」


 服部の明るい声と木津の視線に見送られて引き戸を開けると、寒い風が一気に胸へ入り込んで来た。わいわいやりながら収穫の終わった畦道を歩き、相澤たちは帰路を急ぐ。いつもの風景、いつもの土の匂い、いつもの帰り道。そう、自分の生活は、何も変わらない。何も、何もだ。

 きっと、何も――。


***


「――おっす相澤! いきなりで悪いんだがよ、今週の日曜の学校説明会で3曲くらい演奏してくんね?」


 テスト最終日の朝。生あくびを繰り返しながら登校した相澤は、昇降口で待ち構えていた担任の春藤が浮かべる満面の笑みに凍り付く。何言ってんだこのハゲ。いや、マジで何言ってんだこのハゲ。今日木曜だぞハゲ。


「……な、何故……いきなり……」

「いやー、おめーさんがバズったおかげで日曜の説明会の申し込み人数が6倍に増えてな! 校長が大喜びしててさー! ハハハ!」

「え、でも、日曜ってまた……」

「やってくれたらテスト全教科赤点回避させてやるぜ?」

「……ウッ」

「もちろん重音全員だぜ?」

「ウッウッ」

「だが断ったら……わかってんな?」

「ウウウウ」


 両手で作ったメロイックサインを胸の前で交差させ、豪快に笑う春藤に、相澤は思いっきり中指を立てたい気分になる。よく見れば昇降口の角には重音の男どもと芽衣子がいて、めちゃめちゃ渋い顔でこっちを見ていた。このクソ担任、人質取ってやがる。人道的ではない。


――何が「何も変わらない」だ。めちゃめちゃ変わったじゃねーか。


 自分にはどうしようもない所で動き出した何かに困惑しながら、相澤は引き攣った笑顔で頷いた。

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