メモ書きのようなもの

陽花紫

噛み癖噛まれ癖(事務員の女と女)

 がじがじ、そう言いながらこの女は私の肩を噛む。時計を見ると夜の11時、はだけたブラウスに冷たいベッド、少し埃っぽいホテル。私はさっきまで、何をしていたんだろう。

「きもちいい?」

 私の耳に入るその声を、私は知らない。

「わからない。」


 そう、私は自分がわからなくてあのバーに立ち寄ってみたんだった。いつもなら絶対に近寄らないはずのどぎついピンク色の看板。地下にあるそのバーは魔の巣窟と呼ばれていて、夜な夜な派手な色の髪をした男女が消えていく。時にはがたいのいい男性ばかりが、時にはこんがりと日焼けをしたギャルたちが、時には黒光りした全身タイツを着用した男女が、そして今日はなぜだか自分と同じような事務服を着た女性たちが群れをなしてその地下へと消えていく。

 今日で会社も六勤目、休み返上に言われのないミスに問われその後始末に無駄な時間を費やして、息抜きに行こうとしたランチのお店で目撃したのは可愛がっていた後輩が私の上司と白昼堂々乳繰り合っているその姿。吐き気を催しながらも仕事に戻るとコピーの山、資料作り、さらにそんなクソ課長からセクハラされて、挙句の果てには心底どうでもいい年下の男から飲みに誘われた。疲れた頭には断る案なんか浮かばなくて、誘われるままに行ってみたら酒を飲まされホテルに連れていかれようとした。

 ありったけの力を込めて鞄でその男を殴り、逃げるように電車に飛び乗った。そしていつもなら絶対に近寄らないはずの駅に降りて、いつの間にかこのピンク色の前までたどり着いてしまった。ショックにショックを重ねれば、何もかもどうでもよくなるのかもしれない。そう思いながら横にある魔の巣窟への階段を眺める。先は暗くて見えないけれど、次から次へと吸い込まれるように同じような事務服を着た女たちが階段を降りていく。

 まるで昼休みのオフィス街のように、次から次へときゃっきゃきゃっきゃと楽しそうに女たちが消えていく。そんなに楽しいことがこの先に待っているのか。

 いつもなら絶対におりることのないその階段に足をのばして、そこから先の記憶はあまりない。やけに落ち着いたそのバーの中に大量の事務服を着た女たちが笑い、嘲り、罵り合う。時には愛を囁いて、時にはスカートの中、ブラウスの中に手を入れて笑っている。

「何か飲む?」

カウンターから声をかけられ、私はそこに近寄って言う。

「飲みたい。」

その女は真っ赤な唇を吊り上げて、さくらんぼが入ったグラスを私に差し出す。私はそれを受け取って、しばらくぼんやりと眺めていた。記憶の中で声がする。

「ねえ、噛んでもいい?」

「なに?」

「あなたのこと。」

「なんで?」

「くたびれていて、おいしそうだから。」

 鈍い痛みが肩に広がる。私は何かに肩を噛まれている。犬でも、猫でもない何かに。それは黒くて長い髪をした女で、時折つけ睫毛が肌に触ってくすぐったい。吸い付く唇の色は落ちかけていて、私の手を握るその指は細く華奢だ。くぐもった声でがじがじと言うこの女は何者だろう。

「ねえ、どう?」

「どうって…。」

 これまで他人に肩を噛まれたことがない私には、なんて答えればいいかわからない。むしろ痛い。意外に人の歯の感触ってわかるんだなって思った。

「気持ちよくないの?」

「よくない。」

「おかしいなあ…。」

 よっ、と私の腕を引いて向き合う。この女は案外可愛らしい顔立ちをしていた。恐らく私よりも年下で、いかにもきらきらとした日々をおくっていそうだ。くりくりとした目が私の目の奥をのぞき込む。

「噛まれるの、きらい?」

 急に頬にその華奢な手が伸びてきた。すべすべ、と言いながら女が目を細める。なんだか猫みたい。

「だからよくわからない。」

 名前も知らないその女は、もう片方の手を伸ばして私の顔を包み込む。そして顔が近づいてきた。初めて触れた女の唇は、男と同じで柔らかかった。


 時計を見ると深夜1時だった。肩だけでなく首、顔、耳、鼻、胸、腹、尻、脚、ひとしきり私の体中を齧り続けた女は、今もまだ私の指を噛んでいる。一際強く噛まれたお腹の鈍い痛みに耐えながら、私はなぜだか女の髪を撫でている。

「よく飽きないね。」

 まるで犬の齧り棒にでもなった気分、そう考えながら訪ねると女は指に吸い付いた。

「飽きないよ。私、女の人の体が大好きなの。」

 ぞっとするような言葉に、鳥肌がたつ。女もそれを感じたのか慌てて私を布団でくるみ、強く抱きしめる。

「そんな意味じゃないからね?とって食おうとか、殺したりはしないから!」

 じゃあなんなんだよ、変態。ちらりと顔を伺うと、女はしまりのない顔で笑う。

「ほんとに、女の人の体を齧って味わうのが好きなだけなの。」


 世の中は、わからないことだらけだ。そう結論付けた私は、ふいに襲ってきた睡魔に大人しく身を委ねることにした。

「って、きいてる?おーい。」

 これもわからない世界、私の知らない世界。なおも私の指に吸い付く女にも、きっといろいろあるんだろう。日々の暮らしの中では発散できないなにかが。


 朝になり、私はベッドを抜け出した。女はすうすうと寝息をたてて夢の中。とりあえずバスルームに行くと鏡の中の青痣だらけの女と目が合った。

「やば。」

 暴力沙汰の騒ぎじゃないのか、これは。くっきりと歯型が残っている横っぱら、いつの間につけられたのか胸のあたりに広がる鬱血、いたずらにつけられた唇型の赤色、鎖骨にぷくりとできたかさぶた。それ以上は見たくなくて、シャワーで体を洗い流す。体中がひりひりと痛むものの、不思議と嫌な気分にはならなかった。

 一晩中あの女の相手をしていたのかと思うと、なんだか自分の体を誉めたくなった。泡立てたボディーソープの香りが心地いい。入念に体を洗っていると、断りもなく女が入ってきた。

「わたしも、いーい?」

 何も言わなくても勝手に入その女に、昨日の面影はなかった。明るいところでよく見ると、その顔にはそばかすがあり、睫毛も決して長くはなかった。髪はところどころ痛んでいて、華奢な指先は少し荒れている。

「夢がさめちゃった?」

 互いの髪を洗い合ったところで、口を開いた。私は横に首を振り、女の手を引いて浴槽へと誘う。

「こっちのほうがいい。」

 女の首に腕を回して、自分のない胸を押し付ける。お湯の中でもわかる女の体温に、なめらかな肌、しなやかな腰つきに甘い唇。たまには、こういうのもいいかもしれない。

 がじりと女が肩を噛む。口づけをするように歯を立てて、首から喉へと昇っていく、唇はさすがに痛いけれど、鼻は少しくすぐったい。瞼までいき、ざらりとした舌が額を舐める。

「きもちいい?」

 女が私の目の奥をのぞき込む。

 私は首を縦に振り、もっと噛んでと声にした。


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メモ書きのようなもの 陽花紫 @youka_murasaki

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