マリーナ:急
合理的な判断だ、と自分に言い聞かせる。ムカムカする胸の内を少しでも落ち着かせようと、もう数えるのも面倒になったため息を吐き出した。少しも気分は上向かない。憂鬱を振り払うには何が足りないのだろうか。
「お嬢さま」
「大丈夫よアニー。やるべきことはわかってるわ、あとはやるだけ」
そのやるだけが一番、いちばん……なんだろ。難しい、わけではないけれど容易でもなく、言うなれば重いというのが適当か。
複雑なことは何もなく難しいことではないけれど、その重量を持ち上げるにはそれに見合ったエネルギーが必要になる。出来るか出来ないかで言うなら出来るはずなのに、酷く億劫な、そんな感じだ。
いつも学院へ向かうより一時間以上早く家を出た私は、学院の内門前でじっとある人物を待っていた。昨日の今日だから事前に約束を取り付けていない、というのもあるが、そもそも私は彼女と個人的な交流がほとんどない。かといって人目を引く場所で会うのは好ましくなかったし、なるべくならクレアの耳にも入って欲しくない案件だ。
それらを総合して、昼間の教室以外に確実に二人で会えると確信できるのが朝早く、多くの学院生が登校するよりも数十分は早い時間帯の校門だった。
具体的な時間まで掴んでいるわけではないが、その人物がかなり早い時間に登校していることには確信があった。だから私は生徒向けに門が開かれる前からこの場所に待機しているのである。……外門を守る衛兵や内門を開けに来た教員には妙な顔をされたが、笑顔で誤魔化した。こういう時、美少女はなぜかあまり怪しまれないので得である。人間見た目は大事だ。
「お嬢さま、あれを」
「――来たわね」
到着からさほど待たされることもなく、待ち人を乗せた馬車が外門をくぐってこちらへ向かってくるのが見えた。外門から内門へは緩やかな上り坂になっているので、それなりに距離があるとは言えこちらからは馬車の様子がよく見えた。
ゆっくりと、確実にこちらへ向かってくる馬車を見据えて、私も最後の覚悟を決める。ただでさえ無茶を口にしなければならないのだ。せめてそれが情けない形にならないようにしなくては。
相手に誇示するためではなく自分を奮わせるために、プライドは守らなくては。
「……エルザベラ、様?」
馬車の窓から見えていたのだろう。馬車の扉が開くなり驚いた顔を覗かせた人物に、私は微笑みかけた。
「おはようございます、マリーナ王女殿下。少し、お時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
* * *
「……驚きました、エルザベラ様がお料理できるなんて」
「嫌味にしか聞こえないのですけれど……」
学院の食堂に隣接した厨房の端に並んで立つ私とマリーの前にはそれぞれが用意したサンドウィッチが並べられていた。無論、包丁の重さに苦戦した私のものは異様に不格好であり、包丁だけでなく持参した食事用のナイフも器用に使ったマリーのものは前世ならカフェのメニュー写真に載っていそうな小奇麗な三角形である。
この世界のサンドウィッチはイギリス風にパンの内側、白い部分だけを使うものだった。切り取った耳の部分をなんとなく片手間にパクついていたらマリーにひどくびっくりされた。聞けばパンの耳を食べるのは庶民の発想らしい。美味しいのにもったいない話だ。
「いえ、本当に驚いているんです。貴族の皆さんはお料理をされないと聞いていましたから」
「まぁ、私もほんの少し経験があるだけですけれどね」
「十分にご立派です、お嬢さま」
……アニーの侍女ばかっぷりはともかく。
マリーの口ぶりからもわかるけれど、料理の上手い下手以前に厨房に入って自ら手を動かす貴族自体が珍しいのは事実だ。マリーの驚きもサンドウィッチの出来よりは私が何の躊躇いもなく包丁に手を伸ばしたことに対するものかもしれない。
マリーが早朝に登校するのはお弁当を用意するためだ。最近はもっぱらユベルと一緒に食べるばかりらしいが、それでも料理好きの彼女は自分の分は自分で用意しているらしい。時々はユベルの分も作っていたのだが、最近はとある理由からそれはしていないという。……まぁ、その理由も予想はできる。
とにかく、一方的に話があると押しかけた身で彼女の本来の目的を邪魔するわけにもいかないので一緒に厨房を訪れ、マリーが料理をする間は手持ち無沙汰ということで、アニーの手を借りながらサンドウィッチ作りに挑戦していたのだった。
結果はまぁ、うん。食べられなくはないわよ、見た目が悪いだけで。まぁ食べられないサンドウィッチなんて作ったらそれこそ漫画やアニメレベルの料理音痴だからちっとも誇れるものじゃないのだけど。
「クレアならもう少し上手く出来るのかしらね」
「クレアラート様もお料理なさるんですか!?」
ふと漏らした私の呟きに、マリーが目をまんまるにして驚く。今日は朝から驚いてばかりだなこの子、と思いながら頷いた。
「さすがはクレアラート様ですね。どんなことでもこなしてしまうというか、出来ないことなんて、無さそうですよね」
私なんかとは大違いです、と落ち込むマリーに少しだけ真実を漏らした。
「……クレアにも出来ないことはあります。ただ彼女は、何でも出来るまでやるだけですよ」
「え?」
「彼女は出来ないなんて絶対に言わないのですわ。出来ないのは努力が足りないから。だったら出来るまで努力すればいい。そういう方、なのですよ」
「それは……ご立派、ですね」
「ええ、私の憧れですわ」
私がそう言うと、今日はじめてマリーからも微笑みが返ってきた。
「――よし、と。お待たせして申し訳ありません」
「いえ、アポも取らずに押しかけたのはこちらですから」
マリーの手際がよかったこともあり、多くの学生達が登校してくるにはまだ少し時間があった。場所を変えましょうか、というマリーの提案に従い、私達は食堂の建物を離れて近場の休憩所に腰を落ち着けた。貴族学院らしくあちこちにちょっとした休憩スペースが配されているのは、こういう時にも便利だなと思った。
「お話は……クレアラート様のことですか?」
「ええ」
予想を肯定されて、マリーは曖昧に笑った。私が彼女に持ちかける話といえばそれくらいだろう、という想像はしていたらしい。
「率直に申し上げても?」
「はい、お願いします」
遠回りは無意味だ。事前の説得より事後の説得、こちらの意図を伝えた上で交渉する方がマリーも応じやすいだろう。
一度言葉を区切って息を吸い、吐き出す勢いに乗せて言葉を放つ。
「クレアを助けたいのです。そのために、力をお貸し頂けませんか?」
「!」
バッと、勢い任せに頭を下げる。
すぐに反応があるかと思ったが、予想に反してマリーはしばしの間沈黙していた。私も、マリーの発言を待つ形でテーブルの天板を睨みつけたまま待つ。背後でアニーが身じろぎする気配がした。
「……お顔を、上げてください」
やがて、躊躇いがちにそう声をかけられる。私が言われるまま頭を上げると、マリーは笑っているような怒っているような、複雑な様子でこちらを見ていた。
「…………」
顔を上げ、目を合わせてもマリーはすぐに話し出そうとはしない。無礼も無作法も非常識も承知の上だが、正直この反応は想定外だった。マリーに限ってこちらの振る舞いに怒るようなことはないと思ってはいたが、こうもリアクションが無いと何を言われるのかと不安にもなる。
「……それは、私が置かれた状況を知っていて、その上での頼みと、そう受け取ってもいいのでしょうか?」
「はい。クレアが貴女にしたこと、全てとは言いませんが把握しています。その上で、貴女の力をお借りしたいのです。お怒りのこととは存じますが、どうか、どうか力をお貸し願えませんでしょうか」
まずは真摯に頼み込むしか無い。
もちろんすぐに色よい返事がもらえるとは期待していない。いくら彼女が主人公基質、博愛主義だと知っていても、クレアに攻撃されている当事者だし、ゲームでは最終的にクレアを蹴落とすことになる人物だ。クレアに対して悪意や敵意こそ無いにしても、好意はもちろん助力するだけの『情』だって無いはずである。
必要なら私に差し出せるものは何だって差し出す覚悟だが、せめて私のこの嘆願に何の裏もないことだけは信じてもらわなければいけない。誰にでも優しい彼女が許せないことがあるとしたら、本心を偽って他者を貶めるというのはまさにストライクだろう。
「……わかりました。私は何をすればよろしいですか?」
「すぐにはご納得頂けないと――え?」
思わず私が目をしばたかせると、マリーはふわりと柔らかく微笑んだ。
「微力を尽くさせて頂きます。どうぞ、何でも仰ってください」
「え、と……いいんですか?」
「はい」
私があんまり驚いているのが可笑しかったのか、マリーはくすくすと堪えきれない笑いをこぼした。
「どうしてそんなに驚いているんですか。力を貸して欲しいと言ったのはエルザベラ様ですよ」
「いや、あー、その、そんなにあっさり了解がもらえるとは思わなくて……」
「そうですね。ちょっとだけ、お断りしようかとも思ったんですけど」
思ったのか。いやでも断られて当然のお願いだったと思えばそれでもちょっとというのは人が良いのかもしれない。
「でも、エルザベラ様がそこまで仰るんですから」
「私ですか」
「はい。クレアラート様がご立派なのは存じていますけれど……だからこそ、と言いますか。私でお力になれることなんて無いと思ったのですが」
謙遜では、ないのだろう。ゲームでの彼女も、どのルートに於いても最終局面に至るまでは自分の力を卑下するような言動が目立っていた。
「エルザベラ様がそうまで仰るだけの何かが、私とあの方の間にはあるのでしょう?」
断罪、対立、因縁。そういうものが確かに二人の間にはある。その大部分はゲームを知る私にしかわからないことのはずだけれど。
「それに」
「それに?」
「……私にとっても、大事なことだと思うのです」
「マリーナ様……?」
決意を秘めたその表情に、私はゲームでの彼女について、もう一度思い出さなくてはいけないような気がしていた。
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