夏火が這う

葵ねむる

夏火が這う

 いつも彼からの連絡は唐突だ。そしてそれは今回も例外ではなかった。



「明日の夜って、長岡ヒマ?」



 海外にいるはずの石川慎也がそんな連絡をしてきたのは、5月とは思えぬほどのうだるような暑さが続いた3日目のことだった。風こそ吹くものの、団扇のゆらゆらとした微風程度のそれはほとんど意味を成さない。終業直後の私は、まだクーラーの効かない会社の更衣室で、突然そんな連絡を受け取った。特になにも考えることなく、返事を入力する。


【特に予定はないけど。なんで?】


 すぐに付く既読の通知が珍しい。どうしたのだろう。いつもならこの時間はまだ寝ているだろうに。ちいさく首を傾げつつまた携帯をロックしようとして、




「明日の夜、会わない?」


「おれ今さ、羽田にいるんだよな」


「日本にいる間しか出来ないなって思うと、なんか急に花火したくなっちゃって。付き合ってよ」




 ぽ、ぽ、ぽ。と送られてきた辻褄の合わない、というより全くもって理解しがたい3つのそれらに、ひとり変な声が出た。



 *



「いやー、唐突にごめんな。元気だった?」


「え、あー、うん。元気だけど。それどころじゃないよびっくりしたよ。いやもう、ほんと唐突すぎるよあなたは。2年ぶりだっていうのにさ」


「だって、急に決まったもんだから。誰と会うかなんて決めずに飛行機乗り込んだんだよ。ごめんごめん」


 待ち合わせていた河川敷に着くなり、隣に並んで話し始めた彼がちいさく笑う。本当はいっしょに夕食でも食べてから当初の希望通り花火をするつもりだった。けれど急遽会食が入ってしまったということもあり、待ち合わせた頃にはもう21時前だ。

 すでに買っておいた花火やらバケツやらをスルリと私の手から抜き取った彼の姿は、最後に会った時からちっとも変わっていない。急な帰国だったから慌ててユニクロで買ったのだと話してくれたTシャツにスキニージーンズの格好が、より一層それを際立たせているような気がする。まるで実はずっと日本にいて、ただ会っていなかっただけみたい。だって私たちは理由なしに会う関係ではもう無かったから。





 さて、始めますかあ。と、少年みたいにわらう彼がライターで火種にするロウソクに火を付ける。まずは1本、それぞれ目に付いたものを抜き取って火に近づけた。ぱちぱちぱち、と勢いよく鮮やかな蛍光ピンクが暗闇に灯る。



「もう花火って売られてるんだね、無かったらどうしようかと思った」


「一応連絡する前に調べたんだよ、長岡が住んでるって言ってたとこで花火できるとこあんのかなとか、もう売られてんのかなとか。空港で。」


「さっすがー、仕事ができる男はちがいますな」


 からかうなよそうやって、と笑いながらまた彼が新しい花火に手を伸ばした。2本目。今度は鮮やかな緑。


「長岡も仕事、順調そうじゃん」


「そうだね、もうさすがに新人って年でもないし。なんとかやってる。誰かさんみたいに海外に辞令が出るほどの働きではないけど」


「めっちゃ言うやん」


 ぱちぱちぱち、私と彼の間に変わるばんこに鮮やかな光が瞬く。「これこれ、この感じ、やっぱいいよな。学生の頃に戻ったみたい」そう顔を綻ばせる彼と私が大学を卒業してからもう片手ほどの年月が経った。大学を卒業し、就職して、彼にアメリカ行きの辞令が出てもう季節が巡ったのだからそれだけの月日も流れるわけである。なかなか慌ただしい日々で日本に一時帰国するのもままならず、急にやってきた一時帰国のチャンスでやりたいと思ったことは花火だったのだとさっき聞いた。


「おっきいやつ買っててくれてよかったわ」


「これしかまだ無かったんだよ」


 私が買っておいたのはドンキホーテにあったわりと大きな花火セットだった。2人でやるには大きすぎるような気もしたけれど、こうやってふたりで並んでぱちぱちと花火を灯しながら言葉をかわすのも、案外悪くないなと思う。連絡こそ取っていたものの、2年ぶりに会うのに話題は尽きない。お互いの近況、仕事のこと、プライベートのこと、学生時代の共通の思い出、なんでも話した。まるで昔に戻ったみたいに。


「じゃあ最後、開けますか。1番日本帰ってきてやりたかったやつ!あっちに無くてさ」


「あ、そうなの?」


 線香花火の封を切りながら彼が頷く。手持ち花火自体そう日本ほどポピュラーではなく、そのうえ線香花火はアメリカにはないらしい。勝負しよ、と火に手を伸ばしながら、すこし私との距離が近付く。


 ジュッ、と音がして、線香花火に火がつく。そのあとは音もせずに、ただ儚い火花が散った。なにも言わない。彼も私も、お互い黙ってそれを見ている。



 あのさ、と沈黙を破ったのは、私だった。



「なんで私に声かけてくれたの?

 _____もう別れて2年経つのに」





 ぽたん、と線香花火の火が地面に落ちる。東京とは思えない河川敷の静けさに包まれて、辺りが暗闇に染まる。



 沈黙が重くて次の線香花火に手を伸ばそうとして、彼の手がそれを阻んだ。どきりとする。息が、急に苦しくなる。



「会っておきたかったんだよ、彩未に」


「…ずる、くない?そういうの」


「ごめん」



 ぽたりと落ちたのは、涙なんかじゃなくて私の持っていた線香花火の火だった。小説ならきっとここできっと私は泣くし、きっと彼は私のことを抱きしめるのに。こんなふうになっても最後はきっと結ばれるのに。私たちの関係はそんなふうにドラマチックに出来ていない。


「ねえ、ずるいよ」


「……。」


「そういう時だけ私のこと、名前で呼ぶのも。そんなこと言うくせに、____もうすぐ結婚するっていうのも」


「………ごめん。でもお前にだけは直接報告したかった。花火なんてほんとは二の次だった。嘘吐いた。アルコールのせいにせずに話がしたかったんだよ、ちゃんと」


 彼の手を払って線香花火に手を伸ばす。火をつけたそれは相変わらず憎たらしいほど美しくて華々しくて儚い。火が落ちるとまたすぐに私は次へと手を伸ばした。こんなの、こんなの。さっきちがう花火に火をつけながらしたやりとりが蘇る。「会社に気になってる人がいる」と話した自分の声も、「付き合ってる彼女にプロポーズした、あっちで結婚する」と話した彼の声も。



 未練なんかそこになかった。ハナからそんなものはない。海外転勤の話が出る前にもともと終わっていた関係だった。お互い大事にしたいものが違った。それだけの話だ。別れてからお互い恋人だって出来たし違う人とセックスだってした。それでも大学時代に長く付き合っていた彼なら相談できることが別れてからもあった。もう交わることのない関係なのだとお互い理解していても、恋人とはまったくちがう特別なところに彼も私もいた。でももう会ったとしても、手だって繋がないしセックスだってしない。だってそこに好意はないから。私たちはもう恋人なんかではないから。



「……ほら、」


 はやく、と強引に彼へ最後の1本を手渡す。暗闇にまたふたつ、線香花火の火が灯る。




「苗字が欲しいって初めて思った人だったよ」


 彼が顔を上げる。ゆらりと揺れる暗闇のなかではよく表情は伺えない。それをいいことに続ける。


「でも別れてしばらくして、やっとわかった。運命の人だったんだなって。人生にはタイミングがあるって教えてくれる、運命の人だったんだってこと。」


 ぽたりと、彼の持つ花火の火が先に落ちる。


「私もさっき嘘吐いた。ほんとはもっと沢山並んでたの、花火。でも長く話してたくていちばん大きいやつ買った。これでおあいこね。だから慎也、幸せになって」



 そこまで言いきったのと同時に、私の持つ花火の火が落ちた。周囲がまた暗くなる。それでも私と彼はお互い、相手の表情がありありと見えるような気がする。

初夏とも呼び難いような暑い5月、新しい夏がはじまろうとしていた。



 Fin.

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