自走小屋の旅人

:DAI

【山梨】天下茶屋とほったらかし温泉

 年号が変わった。

 新しい年号は令和。冷たい春が過ぎ行く中、祝福されながらの改元で国中が祝いの空気に満たされていた頃、僕は病気を患い、仕事を辞めた。いわゆるメンタル系と言われる心の病。今となっては珍しくもない病気だ。

 奇しくも、僕は平成元年生まれ。令和元年に病に倒れ、全てを失うとは。

 特に親しい友人も恋人もいない僕は、ひっそりと一人暮らしをしていたアパートを引き払い、実家に帰って療養しているものの、迫り来る焦燥と際限の無い罪悪感に押し潰されそうになり苦悶の日々を過ごしていた。しかし、何もする事が無い日々という物は却って心苦しく、己の無力感や劣等感に激しく身悶えするばかり。いよいよ堪らなくなった私は、気付いたら当ての無い旅をしていた。

 なぜそのような行動に走ったかは、未だに自分でも分からない。いや、逃げたかった。そう、このどうしようもない現実から逃げたかったのだろう。

 逃げたところで何が解決するわけでもない。逃げた先で何かが見つかるわけでもないだろうに。

 だが、私は旅を始めた。

 幸か不幸か、私は基本的に無欲な性格で、将来の為に収入の殆どを貯蓄に回していた上、借金の類いもしていない。口座の残高を見るに、男一人慎ましく生活すれば2〜3年程度は蓄えだけでも十分生活ができそうだった。

 そこで私はまず中古で車を購入した。移動の為のみならず、寝泊まりするためでもある。

 私にとっての「旅」とは、ズバリ「車中泊」だ。アウトドアや車が好きな両親と子供の頃はよく車中泊をしながら色んな場所へ出掛けたものだ。なぜだかそんな子供の頃の記憶が蘇り、車中泊をしながら旅をするというアイデアが頭に浮かんだのだ。

 大人になってからはほとんど旅行もしなければ車中泊もしていないが、なぜだか無性に懐かしい思いに駆られ、車中泊の旅をする事にしたのだ。

 そして、私は今、山梨の御坂峠を目指している。

 理由は富士山を見たくなったからだ。

 この茶屋は井伏鱒二や太宰治が逗留し、執筆にあたったという歴史ある茶屋であり、建物もさることながら、店内の様子もとても古めかしい雰囲気に私は取込まれた。

 何より、太宰治の著、富嶽百景の舞台でもあるが、当の太宰本人はここから見える富士山は気に入らなかったそうな。

 だが、私はここから見える富士が大層気に入ったのだ。元が静岡の生まれで富士は飽きるほど眺めている。もはや日常風景の一つとして埋没してしまう景色のとして富士を見ていたのだが、ここから見える富士は一味違う。

 太宰は風呂屋のペンキ画と評したが、いかにもな富士というものを私は見た事が無かったのだ。私は今まで見た事の無い富士の表情を拝めて静かに一人喜んでいた。

 どれほど眺めていただろうか。

 こんな時間を気にせず過ごした昼下がりは久しぶりな気がする。

 仕事をしていた時は、いつも何かに追われていた。仕事の時も、帰宅してからも、まるで泳ぐのを止めたら死んでしまうマグロのように。あの時は忙しく過ぎしていたはずなのに、時間が進んでいる感覚が失われていた。だが、今はゆっくりと着実に時間が過ぎて行くのを感じる。

 止まっていた自分の人生の時計が今、緩やかに熱を取り戻し動き出そうとしている様な気さえした。

 眺めていたら、とうに昼下がりを過ぎた事を空腹感が教えてくれる。

 私は、せっかく茶屋に来た事だしと店内に入る。

 目当ては、ほうとうだ。

 山梨の郷土料理ということで、数多くのほうとう料理屋が存在するのだが、鍋料理という事もあってか、店ごとに具材や麺の違いがあるのが面白く飽きがこない。普通に家庭でも食されるので、山梨の人はむしろ外食でほうとうを食べないという噂も聞いた事があるが、真偽は定かではない。

 そんなとりとめも無い事を思いつつ注文したほうとうを食し、次の目的地へ思いを馳せる。

 実は天下茶屋の他にもう一つ、行きたいと狙いを付けた場所がある。

 それは、ほったらかし温泉だ。

 この温泉は、御坂峠から北の方角にある露天風呂で、景色が綺麗な事で有名だ。夜景スポットとしても有名という事で、ならば是非一度は眺めておきたいところ。

 時刻を確認すると、まだ日没には少々早いが、せっかくだ。

 夕焼けから日没、そして夜になるまでじっくり湯につかりながら景色を堪能してやろう。

 この時、私はどこかワクワクしている自分を発見した。

 これはしばらく感じたことの無かった感情だ。思えば、社会人はこんなもの、私だけではなくみんなもがんばって耐えている、だから私も自分のことは顧みずもっと身を粉にしてがんばらなければと、どれだけ疲れようと具合が悪かろうと、仕事に邁進していた。日に日に感情が死滅していくのを感じながら、それでも、みんな我慢しているのだからと、自分も我慢してがんばらねばと己に鞭打ち、いつしか心は凍え、感情のなんたるかを忘れてしまっていたのだ。

 だが、今は、違う。私は胸にじんわり熱いものを感じつつ、目的地へと車を走らせる。

 天下茶屋から車で1時間もせず、目的のほったらかし温泉に着いた。この場所も御坂峠と同じくらいの高さに位置していた。

 御坂峠から温泉までは、果樹園が広がる景色を堪能しながら運転を楽しむ。山梨といえば、桃やぶどうが有名らしいが、今は丁度どちらの季節ではなかったのが惜しまれる。花が咲き乱れる果樹園はそれは見事と聞いているのだ、これはまた時期を改めてもう一度来たいものだ。

 駐車場に車を停め、いそいそと風呂道具を準備し、温泉へと向かう。

 そこで目に飛び込んで来たのは思わず息を呑む光景。

 眼下には甲府盆地が広がり、視界の端から端まで山々と町並みが見える。そしてここから見える富士も悪くない。いやが応にも期待が高まる。これだけの景色が見下ろせるのであれば、夜景もさぞ綺麗だろう。

 私は早々に温泉へと足早に向かう。

 どうやらこの温泉は、「あっちの湯」と「こっちの湯」で見える景色が違うらしい。ありがたい事に丁寧な案内看板が温泉の入口近くに置いてある。

 どうやら、「こっちの湯」は富士がよく見えるらしく、「あっちの湯」は盆地がよく見えるようだ。

 御坂峠で富士は堪能したし、目的は夜景だ。

 私は「あっちの湯」へと足を運ぶ。「こっちの湯」はまたの機会としよう。

 料金を払い、脱衣所で服を脱ぎ、いよいよ温泉である。

 扉を開ければすぐそこには絶景があった。

 日没までまだ時間があるが、既に日は傾き、眼下の街には山の影が覆いつつあった。

 私は温泉に浸かりながら、伸びて行く夕日の影と、少しずつ光りだす街灯を眺める。空も次第と薄暗くなり、深く碧い空が広がりつつある。

 私はすっかり景色に見蕩れていた。

 気付けば他の温泉客も湯を浴びながら、皆一様に眼下の景色を見据えている。日が落ち、夜へと変わる瞬間に魅入られている。

「お兄さん、なんか悩んでるの?」

 声がした方へ振り向くと、そこには白い髭を蓄えたご老体が隣にちょこんと座っていた。

 元来、人見知りなので、こうした状況は苦手だ。しかし、ご老体は気さくに話しかけてくる。

「何か、悩んでるように見えたでしょうか?」

 私はご老体に答える。

 別に邪見に思ったわけではない。ただ、不思議と聞いてみたくなった。なぜ、悩んでいるように見えたのか。そんなに陰気な顔をしていただろうか。

 ご老体は、にっと笑い、顔を見れば分かりますよ、とそう言った。

「若いのに悩みがあるなんて大変だね」

 なぜだか、ご老体は黙って親身に僕の話を聞いてくれた。

 人柄がそうさせるのか、私はたまたま温泉で隣に居合わせたご老体と打ち解け、思いの内を吐露していた。

 決して良い労働環境で働いていなかった事、夢を一旦諦めて、いつか生活や時間にゆとりをできたらもう一度夢を見てみようとしていた事、それで一生懸命働いた結果、病気になり仕事を辞めた事。

 聞けば、このご老体も旅の途中のようだ。夜景が綺麗な温泉があると聞きつけてここへ来たらしい。

「実はね僕も逃げるために旅をはじめたんだよ」

 ご老体は僕が胸襟を開いたお礼として、身の上話をしてくれた。

「僕はね、妻を亡くしたの。半年前に。子供もいなかったから、僕はひとりぼっちになっちゃったの」

 あっけらかんと重い話をし始めた。僕は反応に困ってしまった。だが、ご老体は気にせず滔々と話を続ける。

「僕は昔、がんばって働いて働いて家庭も顧みず仕事に打ち込んでたの。いつか来る豊かで幸せな家庭を夢見てね。でも定年退職を迎える頃に、妻が突然 大病を患ってね。妻はいつも言っていたんだ。あなたと旅したい、美味しい物を食べに行きたい。近くの公園でも良い、一緒に二人で散歩したって。でも、僕は いつももうちょっと待ってねと、今を我慢して将来もっと大きな幸せがくると思って妻に我慢してもらってたの。でも、病気になってからは、あっという間だった。旅も、食事も、散歩も、何もできずに妻は逝ってしまった。家にいても辛いだけだから、とにかく外に出たくて、できるだけ家より遠くに行く事にしたの。それが最初の旅だった」

 ご老体は滔々と話しつつも、その声に陰りを感じた。

「今を犠牲にしていつか来る幸せな将来を夢見て必死にがんばった結果、残ったのはやりたい事を我慢して我慢して、今から目を背け何もしてこなかった、何もできなかったおじいちゃんが一人残ったの。だからね・・・」

 ご老体は一呼吸置く。

「今を生きなさい」

 僕はその言葉にハッとした。このご老体も僕と一緒だったのだ。今を犠牲にすることで、来るかもわからない幸せな未来を夢見たはいいが、今が疎かになり取り返しのつかない後悔を経験していた。

 どうやらご老体はそんな自分と何か近しい物を僕に感じ声をかけたと言った。とんでもない慧眼の持ち主だ。

 曰く、ご老体はいつか奥さんの元へ行くまでに、奥さんとできなかった事や一緒に行きたかった土地に旅をし、お土産話を持って行く為に旅をしているということだった。

 たいして、僕はまだ旅の目的が決まっていない。当ての無い逃避行だ。

 そう告げると、ご老体は愛くるしく笑いながら、それもいいんじゃない?と軽く答えた。なぜだか私は、そのご老体の軽さに救われる心地だった。

 温泉からの帰り、グッドラックと言いながら、親指を立て、ご老体はにっこりと笑みを残し、温泉を後にした。

 今を生きる、か。

 なんだか悪くない気がした。

 僕も温泉を後にしようとした時、香ばしい薫りが漂っていることに気づき、足を止める。

 薫りの方へ目をやると、見るからにおいしそうな揚げたゆで卵。

「減った腹を旨い食べ物で満たすのも、今を生きる事になるのかな?」

 私は、その揚げ卵を頬張り、夜空を見上げる。

 頭上には満点の星、手には絶品の料理。

 おいしさが漂う薫りに包まれながら、少し心が解れた気がした。

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