ある技術者の善意

 僕が産まれるよりも前の時代では、海にはたくさんの生き物が棲んでいたらしい。

 らしいというのは、もう、海から生き物は姿を消していたからだ。過去二百年の間に何度か起きた原発事故による放射性物質の拡散、工業廃水の垂れ流し、乱獲、プラスチックゴミの大量投棄……深海すら、生態系の破壊が進んでいる。

 僕にとって、これはエゴなんだ。本当に、ただ綺麗な海が見たいというだけの。

 でも、僕の頭の中……ううん、全身には、それを可能にする力があった。


「凄い……凄いです! 海底の植生が回復しています!」


 助手である『普通』の女の子が、はしゃぐように声を出した。

 僕達の前には、日を浴びてキラキラと輝く青い海が広がっている。

 いや、青いというのはちょっと正確じゃない。少し緑色だ……浅瀬に、たくさんの海藻が生えているから。それは百年か二百年前の人々にとっては有り触れた光景かも知れないけど、僕と彼女にとっては初めての景色だ。いや、この地に住む人々にとっても初じゃなかろうか。

 何しろほんの半年前まで、この辺りの海はドブのような悪臭が漂う、立ち入り禁止の汚染地域だったのだから。


「見た目の上では理論通りだね。でも、実際の水質がどうかはまだ分からないから、あまり口に海水が入らないようにしなよ?」


「大丈夫ですよ! こんなに海藻が生えているんだから、きっと綺麗です!」


 君の肉体の代謝機能は植物のそれなのか……とツッコミを入れてやりたいところだが、彼女には多分伝わらないだろう。割とアホだから。

 まぁ、そのアホさが可愛いとは思うけどね。

 ……実験は、九割方成功だ。

 汚染の原因となる物質を吸着後、太陽光により化学反応を起こし無毒化。海洋生物には影響を与えない、夢の環境浄化剤……僕が開発したそれは、僕が期待した通りの性能を発揮してくれた。理論通りなら、この海水は口に含んでも安全だ。特に汚染に強くない生物も生息出来るだろう。


「水質でも確証が得られれば、いよいよ量産だ。世界中の海を綺麗に出来る」


「そうなったら、美味しい魚、たくさん食べられますね!」


「……花より団子とはこの事か」


 だけど、僕としても楽しみだ。美味しいものを食べたいと思うのは、遺伝子操作の有無に関係ない本能である。そしてその夢は比較的早く叶うかも知れない。

 実を言えば、僕の開発した浄化剤に植物を生やすような効果はない。この海に生えている海藻は、ドブのような汚染の中でも種子や胞子の状態で耐えていたのだろう。それが海水が綺麗になったのを感知して芽吹いた、といったところか。

 自然の生命は、本当に逞しい。

 僕の得た知能も、自然から得られたものと聞く。この数千年で何万種も生き物を絶滅させ、数多の環境を散々破壊してきた人類の身で、この程度で『恩返し』と言うのは不遜にもほどがあるとは思うけど……

 だけど、この青い海をみんなで見られるようになるのは、きっと素敵な事だと思うから。

 これからも頑張っていこうと決意するには、この景色は十分なものだった。

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