ある科学者の善意

 生物の進化とは、実に興味深いものだ。

 ランダムな変異により生じる性質は、人の常識なんてものを一切考慮しない。生存上有利であれば、どのような変異も許容する。

 例えば、知性のあるクラゲを生み出す、というような事も。


「……結果は出ているが、未だに信じられんな」


 自分で行った実験データに対する感想に、思わず失笑してしまう。

 今より五年前、カンボジアにて発見されたとある洞窟で、我々は一種のクラゲを発見した。洞窟といっても完全な閉鎖環境ではなく、日が射し込む穴の空いた、塩湖に近いものだ。密林地帯の奥にあり、近年まで発見されなかった。

 このクラゲ……我々はホラアナシロクラゲと名付けている……は洞窟内では決して珍しい種でなく、一回目の探索で十二個体、二回目の探索でも八個体が採取出来た。身体も比較的丈夫で、日本に持ち帰った後も七個体は生存していた。

 生きていたので、生態観察として飼育しながら様々な実験を行った。何を食べるのかとか、高温や低温にどう対処するのかとか……

 その中で一つの確信を抱いた。

 それこそが、知性を持ったクラゲ、という考えだ。

 ホラアナシロクラゲに限らず、クラゲには脳がない。脳もないのに知性とはなんだと思われそうだが、しかし数々の実験が彼等の知性を証明している。少なくとも私は、餌を貰うために芸をするクラゲなんて見た事もない。

 研究を進める中で、この知性の根源は彼等の体液にあると判明した。彼等の体液中には、ヘモグロビンによく似たタンパク質があり、これが中枢神経系の代用品として働いていたのだ。我々はこのヘモグロビンを、シナプス様ヘモグロビン類似体と名付けた。

 クラゲは本来、ヘモグロビンを持っていない。遺伝子解析の結果、どうやらこのヘモグロビンは、同じ洞窟に生息している魚類から、ウイルスによる水平伝播を経て獲得したものと判明した。世代交代の中でその遺伝子が変異した結果、ホラアナシロクラゲはシナプス様ヘモグロビン類似体を獲得したのだろう。

 分子時計から、ホラアナシロクラゲがこのシナプス様ヘモグロビン類似体を獲得したのは、今から凡そ三万年以内と推測される。生物の進化史としては、本当に極々最近の出来事だ。その短期間で、塩湖という隔絶した環境とはいえ繁栄を遂げたのだから、知性の重要性が分かるというもの。

 ……さて、クラゲに知性があったというのは、大発見ではあるが、これだけでは世を変えるものではない。少なくとも彼等の知性では、文明を築いたりは出来ないだろう。

 しかし、この知性のメカニズムは人間に革新をもたらす可能性がある。

 シナプス様ヘモグロビン類似体は、元を辿ればヘモグロビンだ。つまり人間の体質から見た時、そこまで異様なものではない。そしてこれは血液中に存在するだけで、中枢神経の代用品を果たしてくれる。

 もしも、この中枢神経の代用品を人体が持てたなら?

 脳ほどではないにしろ、思考力を有する『器官』をもう一つ持てたなら……その時、人の知能はどうなる?

 マウスを用いた実験では、簡単な計算が出来るようになっていた。個体間で連絡を取るための、ごく単純ではあるが、独自の言語まで編み出したのが確認出来た。次は猿、可能ならチンパンジーを用いて実験をするが、恐らく同様の、知能向上の結果を得られるだろう。

 現在のデザイナーベイビー施術でも、高い知能を与えるものは存在する。しかしそれは過去や現代の偉人の遺伝子を導入するだけ。遺伝子の発現が環境に依存する事や、その後の学習に対する適正を思えば、やらないよりはマシといった程度の代物だ。デザイナーベイビー施術が本格的に市場参加してかれこれ百年近く経つが、未だこの程度の技術でしかない。

 しかしホラアナシロクラゲのシナプス様ヘモグロビン類似体合成遺伝子を導入出来れば……人の知能は、理論的に向上する事となる。本当の意味での、人間以上の知能が実現するのだ。

 今の人類は様々な問題を抱えている。人種差別、自然破壊、環境汚染、生物種の絶滅……いずれも欲望と偏見に塗れた今の人類には解決が困難なものばかり。しかし人類以上の知能ならば解決方法を閃く可能性がある。

 この研究の結果次第では、人類の未来を左右するかも知れない。

 その事を胸に、自分は研究を続ける決心をするのだった。

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