菟玖波草紙

@irving2984

第1話 そもそも

そもそも、人は何のために生まれたのだろうか?そもそもどうして、宇宙が誕生した?

...などという、哲学的かつ物理的、そして難解であるこのような疑問に対する明確な答えを、残念ながら僕は持ち合わせていない。そもそもどうしてこんな話をしたのか?

それは、「そもそも」の話をしたいからである。

そもそも「そもそも」とは、広く人口に膾炙している名詞であり、接続詞であり、副詞である。このような説明法を「そもそも論」という。そもそも、この「そもそも論」という言葉が、民放で多く使われるようになって、一つの問題が起きた。

イントネーションの変化である。

それまで、「そもそもこの問題の本質は〜」と話す時と、「そもそも論を使えば〜」と話す時のイントネーションは違った。上がって下がってする読み方と、上がりもせず下がりもせず読む方法だ。

「そもそもですけど、この問題の本質って、正しくないイントネーションが蔓延してるっていうことですよね?」

上記の文章を見るか耳にした時——あまりじじくさい発言は好まないが、特に最近の若者が耳にした時——おそらく「そもそも」のイントネーションは、上がらず下がらずの方で脳内で再生されているか、聴覚が認識しているだろう。もしそうでない場合、あなたはしっかりと使い分けができているか、それともこういう誤ったイントネーションで話している民放の番組などを見ていないのではないだろうか。

このような誤用は最近、特に首都圏で多く耳にすると感じる。というか最近若い人の多くは発音するとき上がらず下がらずしていると思う。やはり、公共の電波でその発音の仕方が発信され続けているからではないか。

このような言語的誤謬は以前からあった。その際たる例が「違くない?」である。あくまでも個人的な話だが僕はこの言葉を使う人に「その日本語違くない?」と一種侮蔑の意味さえ込めて聞くようにしている。何と思われようと構わない、僕は違うと思うのだ。「○○く」の様に使えるのは形容詞である。美しく、とか卑しく、とかである。しかし、「違い」というのは一見すると形容詞の様であるが、これは名詞である。difference である。じゃぁ「違う」という動詞は形容詞にはなれないのか。そんなことはない。「違った○○」という風に言えばいいのである。これはdifferent である。おぉっと、ここで大切な話を抜かしていた。「○○くない?」という言い方である。この説明のため、「おかしい」という形容詞を用いる。形容詞をその言い方にするには、「おかしく」として、「おかしくない?」と言うのが一般的である。こう書くと端的になっているが、実際は「おかしくあるのではないか?」の短縮形だと考えると良いだろう。この理論でいけば、「違くない?」は「違くあるのではないか?」となる。違くある?それおかしくないか?と考えてしまうことだろう。

 非常に似通った表現で、「違うくない?」というのもある。...無理があると思わないだろうか?恐らくとあるバンドの人気楽曲で使われたことを皮切りとして、若者を中心に数多くの日本人に使われた。

 このような厳密な間違いを咎めることは簡単である。その表現はおかしい、とか、そのイントネーションはおかしいと言って、正しい知識を教えればよい。

 しかし、その「正しさ」は、どの面から見ても正しいと言えるか。ともすれば、蛇足と指摘されかねない、いらない正しさなのではないか。

 この考えも、近年の思想の変化にある。世界的に見れば、LGBTQへの不寛容から寛容に、また日本だけ切り取っても、既に年功序列や終身雇用などはそう長くは続かないであろう考え方となった。フレックスタイムや、在宅でPCなどを使い仕事をする在宅勤務に始まる公的局面においても私的局面においても、自由がより叫ばれるようになった。旧来より、上司の飲みの誘いに部下は必ずついていかなければならない、という風潮はもう古い。その時間を、恋人や、愛する家族に使ったって誰も咎めない、寧ろ称賛される向きまであるように感じる。

 このように自由を求めていく社会で、「いつ終わるか分からない人生、やりたいことをやろう」という思いはたくさんの人が持っていることだろう。そのように自由を希求していく中で、やはり言語にも影響が及んだ。それが、先刻に挙げたような例である。

 言語学的観点から見れば当然、正しい言葉遣い、正しいイントネーションというものは至上である。然しながら、これもまた当然、全ての日本人が、「正しい言葉遣いで!正しいイントネーションで話そう!」と意識し続けてはいられないし、そんなことをする人はきっと一握りであろう。今では、例え微妙な差異があっても、大筋が伝わっていれば問題ない、大事なのは形状ではなくその中身である、という風に言語によるコミュニケーションが発達している。多少の齟齬や、イントネーションの違いがあっても、笑ってその言い方はおかしいと言うことこそあれ、大真面目に指摘し修正させる人はまずいない。

 こうして日本語は変化し、これからもそれを続ける。雅やかな平安の世から始まった和歌による言葉遊びは、現代へ続いている。当時栄えた貴族文化はもう存在せず、「自由文化」とでも言うべきおおらかで、実体を捉えることは易しくないが個々の特徴が光り、個々人の表現の仕方によって大きく世界の見方を変えることができる。もう僕たちの存在する世界の広さが、豊かさが、多様さが、人一人に圧倒される、そして圧倒できるだけの表現や創造活動を自由に行える時代が来ている。

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