5-4 正しき月盾の騎士 ……アンダース
兄に続き幕舎へと入る。外套を脱ぎ、帽子を取る。体に付着した雪が、ふわりと舞い上がっては消えていく。
兄もフードを取る。金色の長髪には、何本か白いものが混じっている。
ヴィルヘルムが他の従者を連れ、兄の装具を片づける。
鎧を脱ぐ兄の袖下から、一枚の紙が落ちる。宮廷服を着た男と、ゆったりとした服を着た女と、幼い娘が描かれたスケッチ画である。
「エルちゃんは何歳になりましたっけ?」
特に興味はなかったが、会話の糸口を探るべく、姪っ子について訊ねる。
「冬が明ければ四歳になる」
家族の似顔絵を拾い上げる兄が、その目尻を下げる。
「へぇ、もうそんなになるんですか。早いもんですね」
アンダースは相槌を打ったが、泣き喚いてばかりの赤ん坊にあまりいい思い出はなかった。子供はうるさく、わがままで、身内でもあっても好きではない。
「義姉上の体調はどうです? そろそろ生まれるんでしょ? 次は男だといいですね」
兄の妻、アンダースから見て義理の姉についても尋ねたが、そちらについてはただ相槌が返ってくるだけだった。
兄とその妻は宮廷の社交界で出会ったとはいえ、実態は政略結婚である。互いに愛そうとはしているし、二人目の子供も作った。だがどうにも嚙み合っていないのは、誰の目にも明らかだった。
「まぁ、妊娠したら何もできませんからね……。妊婦が好きな奴もいたりしますが。俺には理解できないですけど」
妊婦に欲情する知り合いを思い出し、少し気分が悪くなった。もちろん兄は、そんな異常性癖者ではない。
「兄上も愛人の一人くらい囲ってはどうです? これまでうちは私生児を認めてきませんでしたが、父上も死にましたし、その辺は柔軟に変えていってもいいんじゃないですかね? 見境なく女に手を出すなど、ご先祖には恥知らずだと罵られるでしょうが、ロートリンゲン家の子々孫々の繁栄のためです」
「お前の方こそ、誰かいい女は見つけたのか? 社交界では人気だったのに、そのうち顔を出さなくなったから、誰かしらはいるんだろう?」
兄がおもむろに女の話題を振ってきたので、アンダースは驚いた。兄とは、猥談はもちろん、色恋沙汰も話したことがない。
「フン。女など……」
女など、取るに足らない存在である。もちろん女の体は知っているが、肉欲に溺れるほどでのものでもない。まして結婚など、家同士の政治に過ぎない。社交界ですり寄ってくる女どもは、アンダースがロートリンゲンの一族だから好意を示すに過ぎない。だから、軽く誘えば簡単に股を開く。誰も、アンダース自身の本質など見ようとすらしない。社交界に顔を出さなくなったのも、そのような女どもの浅はかさと、それを裏で糸引く王侯貴族たちの政争にうんざりしたからである。
「……女など、どいつもこいつもバカばっかりですよ」
悪態をついたが、うまく形容できる言葉が見つからず、アンダースは少し苛立った。
「うちのボロ負けの旗印なんかは、特に。みな言ってますよ、この苦境に第六聖女はなぜ何もしてくれないのだとか、なぜ〈
頭に浮かんだ女がなぜか第六聖女セレンで、アンダースは増々不愉快になった──戦場は男の世界である。そこに女など必要ない。聖女も、女騎士も、場違いなだけである。
「兄上があの女をぶん殴ってくれて、俺はちょっと爽快でしたよ。〈教会七聖女〉など、所詮は教皇や大司教の傀儡だ。そんな何もできぬ孤児のお飾りが、地位が高いというだけで無条件で敬われ、ボロ負けしてもまだ敬えなど、バカバカしいことこの上ない。そりゃ文句の一つや二つ言いたくなりますって。みな口にしないだけで、内心では兄上に同情してますよ」
不愉快なことばかりが頭を過ぎり、ついつい口が尖る。何の気休めにもならないが、アンダースは兄を庇い、いつものように第六聖女セレンを罵倒した。だが兄は、うっすらと反応するだけで何も言わなかった。
会話が途切れる。幕舎の生ぬるい空気が、少しだけ重くなる。
アンダースは出された酒をちびちびと飲み、時間を潰した。その間、兄は家族のスケッチ画を折りたたみ服の内側に仕舞うと、ぼんやりと
「相変わらずきつい言い方だが、お前の言っていることは正しいと思うよ」
そして、ポツリとそう呟いた。
思いがけない返答に、アンダースはまた驚いた。いつもなら、叱責の一言二言はある。しかし今は、アンダースの言葉に怒るどころか、顔をしかめる素振りさえ見せない。
何か、居心地が悪かった。兄の反応が、無性に気持ち悪かった。
「怒らないんですか?」
変な空気を我慢できず、アンダースは訊ねた。
「何をだ?」
「その……、色々ありますけど……。さっきの第六聖女への悪態とか……。他にも、クリスタルレイクの戦いで兄上の指示を仰がず撤退したこととか、父上の葬儀をサボったこととか、あと不信心なところとか……。いつもなら何か注意するじゃないですか? 何か言わないんですか? いつもみたいに……」
「私にお前を怒る資格はない」
「なぜです? 兄上はいつだって正しいかった。だから、今まで通りでいいんですよ」
なぜお互いがこんな情けないことを言っているのか、アンダースは自分でも理解できなかった。しかし、縋る言葉は止めどなく溢れた。
「正しいからといって、他者にそれを求めるのは傲慢だ。今までも気を悪くさせていたのなら、すまないと思う」
「すまないって……。何言ってんですか? 何か変ですよ? 兄上は月盾の長なんですよ? 父上が死んだ今、ロートリンゲン家の正統な家長なんですよ? たった一度の過ちが、遠征の敗北が何だというのです! もっと堂々として下さい!」
部下たちの前では、兄はいつもの通りの月盾の長であった。しかし二人きりになってからの兄の姿は、見るに堪えなかった──早く立ち直ってくれ──アンダースは自身の理想と乖離する月盾の長の姿に、戸惑いと怒りを覚えていた。
「私はずっと〈教会〉の大義を信じて、それに相応しくあろうと生きてきた。だが、そんなものは虚栄だ」
もう止めてくれ──これ以上、兄の口から弱音など聞きたくなかった。
「大義も正義も、神への信仰さえも、自らの闘争を正当化するための虚言だ。そして、互いがそれを押し通そうとした末路が、この有り様だよ。今はその終わりに来ている……」
無責任な高位聖職者たちが声高に唱える大義が何の中身もない虚栄であり、愚か者たちが正義と信じる行いが矛盾だらけの欺瞞であることなど、少し考えれば誰でもわかる。アンダース自身は、それらの虚偽に媚びへつらうことを許せなかった。だから、自ら道を外れた。
だが、兄は違う。兄ミカエルはロートリンゲン家の長男として、〈教会〉に仕える騎士として、月盾の長として、それに準じて生きてきた。そんな兄を、アンダースはずっと羨み、妬み、尊敬してきた。
「兄上はずっと戦ってきたし、今も戦っている。〈第六聖女遠征〉は実質失敗ですし、国に帰っても非難や責任の追及は免れないでしょう。でも、それが何だと言うのです! 少なくとも、口先だけで何もしない連中なんて気にするだけ無駄ですよ!」
なぜこんな声を張り上げているのか、アンダースはよくわからなかった。しかし、とにかくでかい声を出さなければと思った。
「こんなときこそ、この血筋や家柄を利用してやるんですよ! 金をばら撒いて、情報操作もしましょう! この戦争は、〈第六聖女遠征〉は間違いだったと宣伝するんです! 元々、父上や将軍たちは開戦には慎重でした。それなのに戦争を主張した教皇や民衆は間違いだったと、逆に糾弾してやるんですよ!」
アンダースは己の憧れが叶わないことを理解していた。だから、転げ落ちていく兄を見ているのは愉快だった。しかしそれでも、薄汚れ、狂い、血を吐いてなお、兄にはずっと理想の騎士でいてほしかった。
兄は、ただ正しくあればいいのだ。これまでも、そしてこれからも──。
「俺なんて、父上には呆れられ、周りからもロートリンゲン家の不良だの出来損ないだのと馬鹿にされてきました。でも、俺はこうして生きてる! そして
そして俺は、ただ月盾の騎士であればそれでいい。これまでも、これからもずっと──。
「ありがとう」
真っすぐな青い瞳と目が合い、アンダースは視線を逸らした。幕舎の空気は、相変わらず生ぬるい。
「私の人生は虚栄に過ぎない。それでも、務めを果たしたい。月盾の長として立たねばならないなら、せめて部下たちの献身に報いたい」
一言一言を絞り出すように、兄が言葉を紡ぐ。
「帝国軍と交渉を行う。私が交渉に向かう間、名代として騎士団の指揮を頼む」
そしてしばらくの沈黙のあと、兄は決断を下した。
「まずは、傷病者の保護についてだ。合わせて、撤退交渉も行う。敵は全面降伏を勧告してくるだろうが、皇帝派の者でも、元帥のオクセンシェルナは開戦以前から一貫して講和派だ。彼に近い者と接触できれば、あるいは……」
「相手がオクセンシェルナでも、撤退交渉については、こちらがまだ戦えることを示さなきゃダメですよ。交渉前に奇襲攻撃でも何でも一発ぶちかまさないと、舐められて相手にされません。俺がどっか適当な部隊を攻撃しましょうか?」
「なるべく穏便にことを運びたいが、必要とあればお前に任せる。こちらもなるべく
軍務の話になると、兄はようやく騎士団長らしい顔つきに戻った。
「ウィッチャーズも連れて行ったらどうです? 奴は〈帝国〉に知り合いもいますし、腕も立ちます。何かと役に立つのでは?」
「前にそれとなく頼んでみたが、断られた。何でも、知り合いの帝国人はみな荒事担当で、話し合いになるような奴はいないんだとか……」
ウィッチャーズの話す内容が何となく想像でき、アンダースは兄と顔を見合わせ、笑った。
幕舎の隙間から、冷たい風が吹き抜ける。生ぬるい空気が、少しだけ消える。
「すぐにでも始めよう。私は情報将校や外交特使と交渉内容をまとめる。お前は攻撃対象を選定し、命令を待て」
「俺の部隊はまだ八百騎以上健在です。攻撃でも防衛でも、今すぐにでも動けますよ」
「攻撃は大規模でなくていい。短時間で強烈な一撃を加えろ。必要以上の損害は敵愾心を煽る。こちらはまだ脅威だと思わせられればそれでいい」
兄の言葉にもう迷いはなかった。それはアンダースがずっと追い続ける、理想の月盾の長の姿だった。
「頼むぞ、アンダース」
「騎士団旗に誓い、必ず……!」
微笑む兄にアンダースは力強く頷き、席を立った。
騎兵帽を被り、幕舎の外に出る。見上げた冬空は、雪に塗れた月盾の軍旗は、やはり美しかった。
アンダースは改めて、自身の首から下げる月盾の徽章を握った。
──俺は兄とは違う。だからこそ、手を汚すのは俺の仕事であり、使命だ。
どうせ俺は誰からも認められていない。ならば必要悪であろうとなかろうと、喜んで悪になる。そして悪であろうとも、俺は月盾の騎士である。なぜなら、
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