第五章 遥かなる地平線

終わりなき冬の日

5-1 凍てつく息①  ……ミカエル

 物言わぬ雪が深々と時を刻む。


 クリスタルレイク以南、王の回廊の支道にある町が降り積もる雪に沈む。他の北部諸都市の例に漏れず、この町もすでに徹底的な略奪にあっている。町は外観こそ綺麗に留めているものの、街路には死体すら残っておらず、何もかもがない。


 廃墟に、小さな息が立ち昇る。

 足下から這い上がる寒気が体を震わす。呼吸をするたび、歯の根から息が漏れる。

 それらを堪え、雪帷ゆきとばりの向こう側に耳を澄ませる。まどろみ、凍てつき、消えていく雪の中、街路の物陰に身を潜め、ミカエルは待った。


 気配が静寂に漂う。どこからか雪を踏み締める音が聞こえてくる。人馬の呼吸が、衣擦れが、ゆっくりと近づいてくる。

 フードの被りを直し物陰から様子を窺う。右手は古めかしい直剣に、左手は歯輪式拳銃ホイールロック・ピストルに添えている。

 騎馬が一騎、現れる。毛皮の服を着、弓矢を携えた、小柄で貧相な身なりの男。一見すればただの狩人に見えないこともない。しかし猟犬のようなその眼光と流麗なる手綱捌きは、間違いなく〈東の覇王プレスター・ジョン〉の末裔、騎馬民族のそれだとわかるものである。極彩色の馬賊ハッカペルがやたらと悪目立ちするが、〈帝国〉に従属した騎馬民族はそれなりに多い。


 凍てつく体が小さく震える──拭いきれぬ恐怖、隠しようもない小心──しかし歯を食い縛り、それを耐える。


 クリスタルレイクの戦いは教会遠征軍の敗北で終わった。ミカエルら月盾騎士団ムーンシールズはもちろん、ヴァレンシュタイン率いる教会遠征軍第二軍も、相当の深手を被った。しかし一方で、帝国軍へできる限りの損害を与えその士気を削ぐという戦略目的も一定の成果を上げた。ゆえにその後は大規模な戦闘もなく、睨み合いの状態が続いている。

 現在、両軍主力は一定の距離を保ちつつ王の回廊を南下している。しかし戦争はまだ終わってはいない。互いの外交使節が交渉を行う傍らで、斥候や哨戒部隊は絶えず動き回っている。そしてその数は帝国軍の方が遥かに多い。


 また、どこからか蛮族の騎兵がやってくる。嗅ぎ回るような視線がまた一つ増える。聞き慣れぬ言葉の合間に笑い声も聞こえてくる。


 雪の重みに、冷たさに、また体が震える。

 心を蝕むあらゆる感情を今は抑え込み、堪える──心は一度折れている。しかし、それでも立つ。騎士として、いや、戦いに生きる者として、立ち上がらねばならぬ。


 凍てつく息を噛み殺し、ミカエルは一歩を踏み出した。

 

 相手に気取られぬよう物陰を這う。静かに、確実に歩を刻み、距離を縮める。そして背後から短剣ダガーを投げつける。

 刃が蛮族の背に突き刺さる。一騎がもんどり打って落馬する。

 古めかしい直剣を抜く。残る一騎に向かい走り、勢いのままに斬りかかる。

 しかし雪に足を取られる。外套にまとわりつく雪も重く、勢いも失われる。それでも剣を振り下ろすが、相手のサーベルに弾かれる。

 馬上からの眼光と目が合う。人馬の圧がこちらを押し潰そうと迫る来る。

 振り下ろされる刃を薙ぎ、打ち合う。しかし馬上からの攻撃は重く、こちらの剣先は届かない。それでも隙を見て拳銃を抜き、そして引き金を引く。


 火薬が撃発し、銃声が響く。しかし弾は敵の頬を掠めただけで、硝煙は目眩ましにもならなかった。


 銃声を聞きつけたのか、敵の増援がやってくる。追加の騎馬民に混じり、少数の帝国人騎兵も姿を現す。いずれもマスケット騎銃カービンを手に、煤けた軍用コートを着、板金の騎兵用兜ロブスター・テイルを被っている。

「何者だ? 斥候……、いや脱走兵か? まぁ何でもいい」

 指揮官と思しき帝国人が、聞き慣れぬ言葉で蛮族たちをけしかける。

 蛮族が三騎、動き出す。獲物を狙う眼光が、鋭く光る。

 放たれる矢を、間髪入れずに続く斬り込みを、力任せの馬の突進を、弾き、躱す。打ち合うたび、右手の剣と左手の拳銃が震える。周囲を駆け回る敵影は素早く、攻撃を受けるだけで精一杯である。次弾を装填するのはおろか、反撃に転じる隙すら見出せない。

 敵ながら見事だった。雪中にも関わらず、その手綱捌きに乱れはなく、それぞれの呼吸も完璧に連動している。


 降り続く雪が、舞い上がる雪煙が、視界を曇らせる。何度目か、矢が体を掠める。次いで、背後から馬蹄が迫る。

 感覚では追えていた。しかし振り返る前に雪に足を取られ、体勢を崩してしまう。


 間に合わない──それを悟った瞬間、背中に衝撃が走る。


 雪の中を転がる。背中を斬られ、駆け抜ける風圧に押され、転倒する。

 しばらくの間、脳は震え、感覚は覚束なかった。ただ、痛烈な一撃だったものの手足は動いた。衝撃こそ受けたが、刃は甲冑で防げたのか、出血の感覚もない。

 引き裂かれた外套を脱ぎ捨てる。体にまとわりつく雪が少し軽くなるが、相変わらず足はもつれている。それでも片膝をつきながら剣を構える。

「ほぉ。月盾の騎士か」

 ミカエルを見る帝国人がまた聞き慣れぬ言葉で蛮族たちの動きを制する。

「高貴なる御方とお見受けする。こんなところで何をしているかは知らんが、多勢に無勢、独りでは勝ち目もありますまい。戦の大勢も決している中、意味もなく足掻いては晩節を汚します。敵とはいえ、騎士であるならば悪いようにはなさらぬ。潔く降伏されよ」

 帝国人の指揮官が長々と講釈を垂れる。ミカエルを取り囲む無数の刃もじりじりと間合いを計っている。ただ、馬上からの視線はどれも完全に油断していた。


「笑止!」

 その油断をはっきりと確認し、ミカエルは叫んだ──それとほぼ同時に、風を切る矢が蛮族の一人を射抜いた。

 一瞬の硬直──瞬きの間に流れが変わる。

「降伏するのはお前らだ! 死にたくなければ大人しくしてろ!」

 威勢のいい言葉とともに、アンダースが指揮官の帝国人を馬から引きずり倒す。間隙を突き、街路や廃屋に潜んでいた部下たちが敵騎兵を包囲する。雑兵のような身なりをしたアンダースの部下ルクレールも、廃屋の屋根から身を乗り出し、弓矢を構えている。


 戦闘はすぐに終わった。待ち伏せは成功し、敵はその場で全員降伏した。


「大丈夫ですか?」

 弟が差し出した手をミカエルは掴んだ。

「首尾よくいったな。ありがとうアンダース」

「指揮官である兄上がこんな危険を冒すことはなかったのに……。まぁ、とにかく無事で何よりです」

 ミカエルは立ち上がると改めて礼を言ったが、アンダースは騎兵帽を目深に被り直し目を逸らした。やたらに寒そうな素振りをする弟は、その後もミカエルと目を合わせようとはせず、ずっと街路の先を見ていた。


 兄弟の間に雪が舞い落ちる。


 ミカエルは部下たちに捕虜の扱いを指示すると、体についた雪を掃い、弟と同じように視線を遠くに移した。


 果てのなき白がどこまでも続く。吹き荒れる北風こそ止んでいるが、北の〈帝国〉の冬はその濃さをさらに増している。

 クリスタルレイクの戦いから二週間ほどが経過した。激戦を繰り広げた北の山河はすでに遠いが、思い出したくもない血みどろの記憶は未だ鮮明に焼きついている。のっぺりと広がる南の地平線も、故郷への遥かなる道のりとその艱難辛苦を容易に想像させる。


 吐く息が白く立ち昇っては凍てつき沈む。


 物言わぬ雪が、まどろみ、凍てつき、消えていく。何もかもが、誰も彼もが、冬の色に染まっていく。

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