第35話 危惧(下)
タルナスはバムスが帰ってから、大きく息を吐いた。バムスはどちらの王家とも、と言った。もう一つの王家の血筋はグイニスの事を指している。つまり、タルナスがグイニスを
ランゲルも勘付いていた事を考えれば、バムスが気づいてもおかしくない。さすがに七年間の茶番は長すぎたか。
できるだけ
タルナスが落ち着きなく、部屋の中を歩きながら考えていると、クフルがランゲルを連れてやってきた。
「陛下、宮廷医師団長が参りました。」
クフルの声にタルナスは振り返った。
「陛下、診察をさせて頂きます。」
ランゲルが来て、タルナスの腕を取って脈をはかり始めた。
「少し
「分かった。…ところで、ランゲル、そなたの予想通り、バムスはもう一つの王家の存在も知っていた。グイニスのこともな。」
タルナスの沈んだ声に、ランゲルは言った。
「陛下、私の考えなのですが、そんなにお悩みになる必要はないかと。」
「どういう意味だ?」
「確かに、一見すると重大な事柄のように思えますが、セルゲス公の血筋は確かであり、さらにもう一つの王家も、特にリセーナ王妃殿下がお亡くなりになってからは、ほとんど動きはなくなりました。
セルゲス公が即位できない、と明確に分かるとあたかも、見捨てたかのように、事態を放っていたのです。
また、レルスリ家も知っていながら、何も言ってこなかったという事は、穏便に運ぶようにしたいという、思いがあるからではないでしょうか。」
「…つまり、もう一つの王家はグイニスに興味がないのではないか、という事か。」
言いながら、タルナスはある事に気が付いた。
「…少し、見えた気がする。彼らは、その目的はグイニスの即位ではなく、混乱を起こす事によって、いわば表の王家の気を引きたかったのではなかろうか。」
「ないとは…言い切れないでしょう。」
ランゲルは言いながら、タルナスを
結局、どうするのか聞きたいのだろう、とタルナスは思った。
「ランゲル。余の決心は変わらない。準備に七年もかかってしまったのは、いささか計算外ではあったが、それでもそうするつもりだ。
それに、今になって取りやめれば、グイニスを見捨てる事になってしまう。そうなれば、あの子は宙ぶらりんの存在だ。王になれなかった王子の運命は、残酷なものだと歴史が伝えているではないか。
実際にそんな人生を歩まねばならなくなったグイニスを、救ってやりたいのだ。どんな理由であれ、父はグイニスの人生を奪ったのに違いないのだから。父がグイニスに対してやった事の責任は、余が負う必要があるだろう。それに、これ以上、存在を否定されなくていいようにしてやらねば。」
タルナスの言葉をランゲルは黙って聞いていた。
「承知致しました、陛下。それでは、さっそくですが、セルゲス公の診察に伺ってもよろしいでしょうか?」
宮廷医師団長は、すごく仕事に対して真面目な男だ。本当に真面目な顔で聞いてきた。
これが、その辺の侍従かなんかが、セルゲス公の元に行ってもよろしいでしょうか、なんて聞いて来ても、一笑に付して終わりだが、何と言ってもカートン家の家長で、宮廷医師団長である。
「見つからない自信はあるのか?」
まだ、バムス以外の八大貴族には、グイニスの事がバレないようにしたいと思って言ったのに、宮廷医師団長は事もなげに言い放った。
「恐れながら、陛下。どうせ、バムス・レルスリに知られているのですから、もう、隠す必要はないかと存じます。」
「何、隠さないと…!しかし。」
タルナスがびっくりして目が点になり、次の言葉がうまく出せないでいる間に、ランゲルはさらに続けた。
「隠すとかえってバムスに次の一手を与える事になり、レルスリ家の力が余計に強くなってしまうでしょう。
ですから、ここは
「だが、余は七年間も八大貴族のせいで、グイニスが行方不明だと言ってきたのだが。」
タルナスが慌てて言うと、ランゲルは深く頷いた。
「存じております。ここは、カートン家にお任せ下さい。」
少し考えているランゲルを見て、不吉なものをタルナスは感じた。
「こういう事でどうでしょう。
七年前、セルゲス公は刺客に追われて、逃走中に怪我を負った。身体の怪我そのものは、そんなに
そこで、セルゲス公の護衛のフォーリは、
セルゲス公の病状は思わしくなく、何年かは意識の
ゆっくり療養して、元気になったのはこの一年くらいだという事に。
できるだけ、セルゲス公を静かに、誰にも知られず治療をさせるため、わざと行方不明だと言ったという事にしてはどうでしょうか?」
先ほど、タルナスはこの男は仕事にすごく真面目だと思った。だが、思い出した。ボルピスが亡くなった時、前カートン家家長で前宮廷医師団長が何をしたかを。カートン家はこういう所があるのだ。
「それは、つまり、そなたが診断書を
ふむ、とランゲルは頷く。
「…はい、捏造です。大っぴらに
それは、確かにそうである。だが、迷いなくそんな決断をするのに、それだけの理由だろうかと疑問を持った。
「確かに、そなたが協力してくれれば、穏便に事は運ぶだろう。それでも、ある程度の糾弾は避けられまい。
そうなれば、黙っていたカートン家と宮廷医師団長のそなたにも、非難の目は向けられるのだぞ。それでも、そこまでしようとする理由はなんだ?へたをすれば、そなたも無事ではいられないだろう。」
タルナスの言葉にランゲルが頭を下げた。
「私共の事を案じて下さり、大変ありがたく存じます。
しかし、陛下、私は医師で、カートン家も医師の集団です。どんな決断も、それは全て患者が最優先です。
陛下は私の患者であり、つまり、陛下に長生きをして頂くための措置でございます。」
思いがけない、しかし、カートン家らしい答えにタルナスは苦笑した。
「ありがたいが、大げさな。余はそなたに滋養強壮剤以外の薬を処方された事がないのに。」
半分笑いながらタルナスは言ったが、ランゲルの表情はすっ、と重苦しいものになった。
「陛下。恐れながら…。」
タルナスは慌てて、手を上げてランゲルが言おうとするのを止めた。
「ちょっと、待て。余は今まで何かあるとは聞いた事がないのだが。」
ランゲルが頭を下げた。
「今まで黙っていて、大変、申し訳ありません。ですが、王太后様に口止めされていたのです。
しかし、機会があれば、お話申し上げるべきだと思っておりました。」
母のカルーラが出て来て、それなら仕方ないなと思う。
「陛下は生まれつき、心臓が弱いのです。」
タルナスは驚いた。
「心臓が?その割には、子供の頃から運動を禁じられる事はなかった。走りもしたし、乗馬もしてきた。剣術の
「それは、日常生活では、ほとんど差し障りのない程度であったからです。
しかし、陛下、最近、剣術の稽古ができる時間が、だんだん短くなってきている事にお気づきですか?」
ランゲルに指摘されて、タルナスは考え込んだ。
「そういえば、そうかもしれないが、そもそも練習する時間があまり取れないし、体がなまっているいるのかと思っていた。」
「王位に就かれてからというもの、普通の人ならば経験しないような、苦労を数多くなされ、心配事やお悩みになる事が、毎日山のようにあります。
普通の人ならば、誰かに相談したり、ちょっと休んだり、変わって貰ったりできる事もありますが、王位というお立場ではそういう事はできません。
そのため、心身に非常に負担がかかるのです。ですから、あまり驚いたり、興奮なさらないようにして頂きたいと存じます。」
驚いたり興奮したりするな、と言われても今のランゲルの言葉に一番、驚いたとタルナスはこっそり思った。
「陛下に毎日、飲んで頂いております滋養強壮剤が、心臓の薬です。」
「…では、さっき言っていた茶も、心臓の薬になるものか?」
「はい。そうです。」
タルナスは頷いた。こういう事について、ランゲルは嘘をつく男ではない。カートン家は
「分かった。今後、自分の心臓にも気を付けるようにしよう。それと、そなたの申し出をありがたく受ける事にする。」
「承知いたしました。」
ランゲルが礼をして帰っていった。
クフルが例の心臓にいい茶を、すかさず運んで来た。
「…お前は余の心臓の事について、知っていたのか?」
クフルがきまり悪そうな表情をした。
「はい。存じておりました。ポウトもですが、どうかお怒りになりませんよう。」
「分かっている。母上から口止めされていたのだろう。あの母上の事だ。口を滑らせたらどんな事になるか。今はカムーナ後宮で大人しくしているから、ランゲルも賭けに出たのだろうな。」
タルナスは茶を飲みながら、今日の事を反復していた。
ランゲルが言ったとおり、王位に就いてからというもの、考えなければならない事がたくさんある。何かを考えない日がなかった。
「陛下、今日はこのまま、久しぶりにゆっくりなさってはいかがでしょうか?」
クフルが提案した。
「だが、まだ、目を通していない書類があったはずだ。」
タルナスが仕事に戻る事を言った途端、クフルの表情が曇った。あまり意識していなかったが、クフルのこんな表情も、ポウトの苦り切ったような困った表情も、最近、目にすることが多くなった。
自分で思っているより、病状が重いのかもしれない。
「分かった。今日はゆっくりする事にする。庭を散歩するついでに、オルザンとパミーナの所に行って、それから、グイニスの所に行く。」
「…オルザン王子とパミーナ姫の所に行かれるのですか?」
とたんにクフルの表情が硬くなったが、素知らぬ顔で言う。
「パミーナに結婚の話をちゃんとしなくてはな。」
「セセヌア妃にお会いになられるという事になりますが。」
王位にあれば、弟と妹に会うだけでも仕事なのだ。それでは、休養にならないとクフルは暗に抗議している。
「分かった。今日は散歩をして、グイニスに会いに行く。」
やっとクフルがほっとした表情を浮かべた。王であるタルナスに対して、表立ってはいろいろと言えないため、表情で物を言うのだ。
「さてと、まずは散歩に行くとするか。」
タルナスが立ち上がる。クフルが上着を準備をする傍らで、ふと、バムスも自分の心臓の事を聞いているのかもしれない、と思った。
そうでなければ、八大貴族にとって、痛手である譲位をすんなりと受け入れるはずがない。バムスめ、とタルナスは思った。上品な貴公子の振る舞いでありながら、食えない奴だともう一回思い知る。
バムスは、もう、次の一手に打って出たのだ。タルナスの次の王も味方につけるつもりらしい。
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