俺を見ろ!

エイプリルウール

俺を見ろ!

 男はさ迷っていた。

通い慣れた会社への道を、飲み屋を、本屋を、さ迷っていた。

「なあ、あんた」

 男が伸ばした手は通行人の体をすり抜け空を切る。

「……なあって」

 男は手がすり抜けた通行人の前に回り込み進路を塞ぐ。通行人は男に気が付く様子もなく男と重なり、通り抜けた。

「誰か、誰か俺に気付いてくれ……」

 男はこれまで日常生活を送っていた街で誰にも気が付かれない、触れることもできないという状況で途方に暮れていた。

 男はいつもと同じ日々を過ごしていたはずだった。しかし、いつの間にか誰に話しかけても男の声は伝わらない。それどころか男の存在さえも認識できるものはいなくなっていた。

 もうどれだけの間、こんな状態でいただろうか。時間の感覚は既になく、日は昇り沈み、街路樹の葉は色付き落ちては新たな葉を茂らせた。

 男は孤独だった。新芽が芽吹く春のうららかさも、うだるような夏の暑い日差しも、駆け足のように吹き去る秋の木枯らしも、雪が降り積もる冬の厳しさも、男の体は感じられなかった。そのことに気が付く度に季節にまで置いて行かれたように感じた。


 俺だけが取り残されている。俺は既に死んでいてこの世をさ迷っているのだろうか。天使でも死神でも何でもいいから俺に気付入れくれ……。


 道行く人々の喧騒に手の届かぬ日常があった。それはお前などいなくても世界は回ると突きつけられているようで、誰もいない世界よりもいっそ残酷に男の心を蝕んだ。

 

 俺は狂っているのだろうか。狂うなら何も考えられなくなってしまえれば楽なのに。


 それからまた、男の心が擦り切れるほどの、男が通行人に存在を主張する努力を放棄してしまうほどの時間が過ぎたある日のことだった。

 男が人で賑わう駅前の交差点の中ほどで座り込み、膝に顔を埋めていると頭上から久しく感じることのなかった暖かさが降り注いだ。


 太陽だろうか。夏の暑い風や冬の夜の冷え込みを最後に感じたのはいつのことだったか……。


 懐かしい感覚に男が顔を上げた。目に入ってきたのは雲間から差し込む一条の光。柱のように太く、男を包み込む光は男がどこを見てもそれ一本きり。男は何かが自分に気が付いたのだと感じた。

「おお……、お、俺はここだ! ここにいるんだ!」

 男は立ち上がり両手を突き上げた。少しでも光の先に近付こうと上へ上へと跳び上がる。すると男の体は宙に浮き雲間へと導かれ始めた。

「これが成仏か!? それとも宇宙人の誘拐か!? 何だっていい! 言葉だって通じなくてもいい! とにかく誰か! 誰か!」

 体が雲間に近付くにつれ薄くなる男の意識は雲に入ると周囲の白さに溶けていった。何も考えられなくなった頭が雲の終わりを感じ取った。次の瞬間、男の意識は掬い上げられるように急速に覚醒した。



「目が覚めたか」

 男が聞いたのは自分に向けられた声だった。

「あ……」

 男は答えられなかった。擦り切れていた心にじわりと水が染み込むように認識が遅れてやってくる。痛みを伴うほどの感情が男の頭を駆け巡る。ここはどこなのか、あなたはだれなのか、そもそも俺が見えるのか、言いたいことも聞きたいこと山ほどあった。しかし、それらを押しのけて口から溢れたのは安堵だった。

「お、はよ、う……ござい、ます……」

 男が無意識に選んだのは失くした日常をなぞらえた当たり前の言葉だった。


 男に声をかけたのは白衣を着こんだ目付きの悪い女で、伸びた背筋と不敵な笑みからは自信がみなぎっている。女は自分のことを博士と自称した。

「おはよう。意識ははっきりしているようだな。大変結構」

 女の口調は中性的で、その物言いは相手を突き放すような冷たさがあった。そして男には何よりも値踏みするような、物を見るような目が好きになれそうになかった。

「ここ、は、どこで、すか」

 男の言葉はすんなりとは出てこなかった。事態が呑み込めていないせいもあったが、体が思うように動かなかった。まるで泥の中にいるようだと思った。そして男は気が付いた。自分の発した声が以前とは大きく異なっていることに、喉に手を当てようと持ち上げた手が丸太のようにたくましくなり、太く滑らかな暗緑色の毛に覆われていることに。

「なんっ、腕がっ」

「ここは私の研究所だ。君の腕か。それは大猿を基に改良を加えたもので、強靭な筋肉による怪力としなやかな体毛による柔軟性を併せ持っている」

「そうじゃな、くてっ」

 聞きたいのはそういうことではない。男が抗議の声を上げると女は目と口を弓なりに曲げ、くつくつと嗤った。

「ああ、すまない。どうしてこんなことになっているのか、だろう? 君と意思の疎通が叶うことが嬉しくてね。ついからかってしまった」

 意思の疎通という言葉に男は衝撃を受けた。この目の前にいるいかにも怪しげな自称博士とやらは、性格は大層悪いようだが意思の疎通ができる。自分に気が付く相手はずっと男が求めてやまないものだった。

「では、説明しよう」

 そこから女が語ったのはあまりにも男の常識から外れた内容だった。男はこことは別の世界で死後、魂だけの状態でさ迷っていたということ。女はそんな男の魂を拾い上げ化物の体に定着させたのだということ。これはまだ女しか成功していない先進的な研究の成果だということ。

 男には自分が死んでいたことは孤独の記憶が裏付けとなった。魂を拾い上げるという技術はまるで魔法だが科学的な説明がなされた。男には全く理解できなかったが。そして今いる世界が男のいた地球ではないと言われても、自分が化物になったこと以外に実感を得られる証拠はない。男の思考を余所に女の説明は進んだ。

「君を大猿の体に定着したのは研究のためであり、さらなる研究の資金を集めるためだ」

 曰く、女は以前から捕獲・改良を行った化物同士を観客の前で戦わせる興行に自作の化物を参加させ、賞金を獲得したり研究に賛同する者から援助を受けて資金としているらしい。

「今回は作品に実験的に自我を持たせる試みでね。これだけ会話ができるのなら複雑な思考も出来るだろう。体の構造が人間に似ているならば武器も扱える。人間に近い形にしたのはそのためだ。今までは本能で戦うものしかいなかったからとても注目されるだろうね」

 注目、という言葉が男の胸に刺さる。

「君にはその体を使って研究成果のお披露目と資金集めをやってもらうよ。断れば君の体で別の研究を行うつもりだ。何せ君は化物で初めて明確な自我を持つ存在だからね。やりたいことは山ほどある」

 断ればここで研究対象として孤独な日々を送ることになる。女はどちらに転んでも損はない。どちらを選ぶか、それすらも研究対象だと目を細めた。

「しかし戦ってくれるのならば、ただとは言わない。せっかく生まれた……この場合、生き返ったというべきか。とにかく新しい体を手に入れたのだから、役に立ってくれれば褒美を与えようじゃないか。何か欲しいものはあるかね?」

 男にとっては勝手に化物の体にしておいて断ればその体すら弄繰り回すと提案をする女は悪魔と変わりない。欲しいものにしても人間の時に欲しかったものの大半は自分が化物では意味がない。

「俺の、欲しいもの……」

 男の頭によぎるのは長い孤独。化物にされたことも戦いを強要されることもどうでもよくなる程に求めているのは、男に残された唯一の願い。

「俺は、知ってもらいたい。俺は、ここにいると」

 女の笑みが壮絶さを感じるほどに深くなる。

「存在の証明か。よろしい」

 そして高らかに、導くように謳う。

「ならば戦うことだ。雄々しく吠えて視線を奪い、死線に踊り敵を踏みつけ、屍を足蹴に『俺を見ろ』と吠えてきたまえ」

 そして男は戦うことを選び、大勢の観客の前に姿を現した。



 以前の世界では男は誰の目にも溜まらなかった。

誰もそこに男がいることなど知らなかった。家族、友人、知人、見知らぬ他人に至るまで誰も男の存在に気が付かなかった。


 男は孤独だ。

誰も男ことなど話はしない。誰も男に話しかけたりなどしない。男から話しかけても何かが伝わる相手もいない。


 生きてきた証もない。

生前に成しえたこともこれといってなく、生きていたころの記憶は既に風化している。


 だが、男は見つけた。

自分が注目を浴びる舞台を。

 しがみついた。

皆が自分に熱狂するそこに。

 実感した。

自分が今、ここにいることを。


 この観客の熱狂もいつかは冷めるのだろうか。

ならば、冷めても醒めぬ狂乱を。


 誰もがいつかは今日を忘れ、俺のいない日常へと戻るのだろうか。

ならば、痛みで今日という日が思い浮かぶほどの爪痕を。


「俺を見ろ!」

 俺を知れ! 


「俺を見ろ!」

 俺を呼べ!


「俺を見ろ!」

 俺に向いているんだ! この熱を孕んだ張り詰めた空気も、ひり付く視線も、割れんばかりの歓声さえも!


 男は孤独だった。

今では会場の誰もが男のことを知っている。


 生きてきた証もなかった。

あるのは自分が今ここに存在し、存在を認められているという実感。


 この興奮だけが男の存在の証明。だから男はどれだけ傷付いても戦い続けた。何度も戦い、敵が本能に追い立てられた哀れな木偶に見えても胸に去来する同情ごと踏み砕いた。すべては自分に残るたった一つの欲求のために。



 画面越しに自身の作品である大猿が敵の屍を踏み砕き、勝利を吠えている様子を見た女は満足げに口角を上げ頷いた。

 そばに控えていた助手が興奮した様子で女に話しかけた。

「連戦連勝、未だ無敗。実験は成功ですね」 

 女は画面を見たまま答えた。

「ああ、作成した未覚醒状態の人工生命に架空の記憶を与えて深い欲求を植え付ける。覚醒した意識は偽りの孤独を恐れ、承認欲求を満たすために高い能力を発揮する」

 女は薄く微笑んだ。

「俺を見ろ、ね。彼は最初から我々に観察されてみられているというのに、何とも滑稽だね」


 男は今日も叫び続ける。

「俺を見ろ!」

 

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