六通目 滴水成氷の候

【十二月三日 手鞠より静寂への手紙】


謹啓 今朝はあまりの寒さで、何度か起きる決心を砕かれながら、やっとの思いでお蒲団を出ました。起きるのは辛いけれど、きんと張り詰めた空気は特別に透き通っている気がします。大きく息を吸い込むと、冬の味がすると思いませんか? しろい息が青空に上っていくのを見て、静寂さんのため息も今日はしろいのだろうな、と思いました。

 淡雪さんのこと、本当によかったですね。ご家族みなさまも喜ばれていることでしょう。今度ぜひ、淡雪さんご執心の生地も見てみたいです。

 ところで、駒子さんに尋ねられて気になったのですが、淡雪さんがもどられたら、久里原呉服店はどうなるのでしょう?

 わたしの気持ちといたしましては静寂さんが継がれても、淡雪さんが継がれても、どちらでも構いません。むしろ静寂さんには、静寂さんの進みたい道を選んでいただきたいです。

 ただ、わたしはこのまま静寂さんの元へ嫁いでいいのですよね? ほんの少し心配になりましたので。

敬白


大正九年十二月三日

春日井 手鞠

久里原 静寂様




【十二月五日 手鞠より菜々子への手紙】


 昨日、わたしは手についたクリームを断腸の思いで拭き取りましたのに、あっさり口に含んだ菜々子さんにはおどろかされました。

 シュークリームはおいしいけれど、食べ方に悩んでいます。気をつけて食べないと、思わぬところからクリームが逃れて、ひどいときには着物を汚してしまうので。どう食べたらいいのか相談しようとしたら、菜々子さんは手が汚れるのにも頓着されず頬張っていたので、きれいに食べるのは諦めました。

 それでもピアノに触れる前には、しつこいくらい入念に手を洗うのですね。あなたのそういう一貫しているところ、とても好きです。

 何より素敵だったのは、菜々子さんがお店のピアノを弾かせてもらったことです。音楽の時間、何度か聞かせてもらいましたが、場所が変われば音も変わるように感じられました。それとも菜々子さんの気持ちの変化でしょうか。

 わたしは浅学で、シューマンも名前しか存じませんでしたけれど、きっともう忘れないと思います。あなたが音楽の道へすすむことは正しい。がんばってください。

 駒子さんのことですけど、やっぱり菜々子さんも感じていたのですね。

 お祝いに水を差すべきではないと思いましたし、何より駒子さん本人がいらしたので、昨日は言えませんでしたけど、ひとかさ小さく縮こまった感じがしますよね。

 実は先週の土曜日、駒子さんのお家に寄らせていただいたのです。わたしと姉と駒子さんと三人で語らったあと、駒子さんは藤枝さんと音楽会に行くのだとおっしゃって着替えられました。素敵な黒のワンピースでした。控えめな光沢と曲線美は駒子さんを上品で華やかに見せているはずなのに、どこがどうと言うわけでなく、きれいに見えなかったのです。これから婚約者に会うというのに。

 少し前は見慣れた縮緬と海老茶袴でも、かおるようなうつくしさがありました。襟の合わせ目なんか、ことにきれいで。

 想いを寄せる菊田さんと、否応なしに決められた藤枝さんを、同じ気持ちで見られないのは当然としても、見ているわたしまで不安になりました。生き生きとピアノに触れる菜々子さんを見ましたから、余計にそう感じたのかもしれません。甘いものには無節操、と揶揄されたほどの駒子さんが、シュークリームを半分も残していたことも気になりました。

 姉のように恋をして結婚する人も、菜々子さんのように職業婦人を目指す方も少数です。たいていは決められたお相手と結婚していきます。わたしだってそうです。

 恋を知っている分、駒子さんは気落ちするでしょうけれど、親の決めた相手だからと言って必ず不幸になるわけではないので、早く元気になって欲しいと思います。菊田さんへの想いとは違っても、藤枝さんとの間に愛情が芽生えることを祈りたいと思います。


大正九年十二月五日

手鞠

菜々子さま




【十二月六日 手鞠より静寂への手紙】


 今日、わたしが学校に行っている間に、久里原様がいらっしゃったそうです。わたしは夕餉のあと父に呼ばれて、「淡雪君のところに嫁ぐように」と言われました。このまま静寂さんのところへ嫁ぎたいと伝えましたが、元よりわたしの意志など関係のないお話です。久里原様はお店を淡雪さんに継がせたいとのことで、そうなれば静寂さんのところにわたしがゆく理由がない、と言うのです。

 姉のことがありましたので、父は久里原様のご意向に添う心積もりのようです。

 感情的になってしまったわたしを怒ることなく、「悪いな」と謝られました。父に謝られると、それ以上わたしから何か言うことなどできません。

 けれどわたしは嫌なのです。淡雪さんに非があるというのではなく、ただ静寂さんのところにゆきたいのです。こんな気持ちを抱えて、いまさら別の方に嫁げません。

 どうか久里原様のお心を変えていただけるように、お願いしてみてはもらえませんか?


大正九年十二月六日

春日井 手鞠

久里原 静寂様




【十二月八日 手鞠より静寂への手紙】


 お店をご長男に継がせたいという久里原様のお気持ちはもっともです。これからは海外の新しい生地も扱っていきたいという淡雪さんに、援助が必要なこともわかります。

 ただ、わたしと静寂さんのご縁はこのままではいけないのですか? 必要なのはわたしではなくお金なのですから、静寂さんのところに嫁いで、持参金はそっくりそのまま淡雪さんにお渡ししても、わたしは構いません。

 どうかご両親を説得してくださいませ。久里原様のお気持ちが変わらないと、父は動いてくれません。


大正九年十二月八日

手鞠

静寂様




【十二月十一日 手鞠より静寂への手紙】


 久里原呉服店の帳場にて、机をお借りしてこのお手紙を書いています。

 学校はお昼で終わりだと思い、午砲ドンを待って静寂さんに会いに来たのですが、いらっしゃいませんでした。無理を言って一時間ほど待たせてもらいましたがおもどりにならないので、今日は帰ります。

 会ってお話ししたいのです。

 また伺います。


大正九年十二月十一日

手鞠

静寂様




【十二月十二日 手鞠より静寂への手紙】


 日曜日はお休みだと思って伺ったのですが、今日もいらっしゃらないようなので、このお手紙を残して帰ります。

 お話ししたいことも、お聞きしたいこともございます。

 また伺います。


大正九年十二月十二日

手鞠

静寂様




【十二月十三日 手鞠より静寂への手紙】


 父より久里原呉服店に行くことを禁じられてしまいました。

 けれど、このまま静寂さんと終わってしまうなんていやです。

 お願いです。会いに来ていただけませんか?


大正九年十二月十三日

手鞠

静寂様




【十二月十五日 手鞠より静寂への手紙】


 静寂さん。会いたいです。


手鞠




【十二月十九日 手鞠より駒子への手紙】


 昨日は突然の訪問にも関わらず、あたたかく迎えてくださり、ありがとうございました。泊めていただいたおかげで、少し落ち着きました。あのまま家にいたらもっと取り乱していたことでしょう。

 相変わらず静寂さんからの連絡はありませんが、きっとたくさん悩んで、ご両親を説得してくださっているはずです。ただ、もともと静寂さんのお言葉が通りにくい環境であることもわかっているのです。

 静寂さんは誰より淡雪さんを大切に思っています。淡雪さんが久里原呉服店を継ぎ、目指す方向に進んでいくことを、静寂さんも望んでいらっしゃいます。そのためには春日井家の援助が必要なのです。それも一時のことでなく今後とも手を携えて商っていくには、わたしが淡雪さんの元へくのがいちばんいいのでしょう。全部わかっているのです。

 水のように、空気に溶けたり、流れたり、固まったり、自由に気持ちを変化させることができたらどんなに楽でしょうね。最初からお相手が淡雪さんだったなら、心に波風が立つことなく、ずっとおだやかな気持ちでいられたかもしれないと、愚にもつかないことばかり考えてしまいます。淡雪さんと結婚しても静寂さんに出会ってしまったら、結局惹かれて苦しんだに違いないのに。

 駒子さんにも心配かけてごめんなさい。諦めず、もう一度お父さまにお願いしてみます。


大正九年十二月十九日

春日井 手鞠

英 駒子さま




【十二月二十二日 手鞠より静寂への手紙】


 きらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらい

 大きらい大きらい大きらい大きらい大きら

(廃棄)



 *



拝復 静寂さんにこうしてお手紙を書くのは、何通目でしょうか。ずいぶんたくさん書きましたが、本当にお伝えしたかったことほど、届かなかったように思います。

 静寂さん。久里原様のご意向に従い、わたしは淡雪さんと結婚いたします。淡雪さんが久里原呉服店を継がれるならば、それが自然なことなのでしょう。

 わたしが何を望んだところで、当の静寂さんが納得されているのですから、わたしのひとりよがりではどうしようもありません。

 ただ、ひとつ反論させてくださいませ。わたしは確かに姉の結婚を見て恋に憧れていました。けれど、わたしの静寂さんに対する想いが錯覚だとおっしゃるのは、あまりに勝手な決めつけではありませんか。仮にこれが錯覚だとするなら、世の中に蔓延している恋のすべてが錯覚です。また、お相手が最初から淡雪さんだったなら、わたしはその錯覚さえしなかったと思います。

 わたしは塀に上ることを手伝ってくれた学生さんに恋をしたのです。お菓子を口実に会いに来てくださる方にお手紙を書きたいと思ったのです。“久里原呉服店の跡取り”に惹かれたわけではありません。そこだけは誤解なさらないでください。

 よき義姉にはなれないかもしれませんが、静寂さんが大切に思う淡雪さんをお手伝いできるように努力いたします。

 いっそ二度と会わない間柄ならよかったですね。

 これまでお付き合いくださり、ありがとうございました。わたしのお手紙はすべて棄ててくださいませ。

 さようなら。

拝答


大正九年十二月二十二日

春日井 手鞠

久里原 静寂様




【十二月二十三日 手鞠より駒子への手紙】


 駒子さん、今日は泣いてくれてありがとうございました。あんなにたくさん泣いて、国中の涙を使い切るおつもり? いまはきっとどこのお店でも涙は品切れで、みんな困っていることでしょう。

 ひとつ駒子さんに謝らなければならないことがあります。駒子さんが菊田さんとお別れしたとき、わたしはわたしなりに駒子さんの力になろうとしたつもりだったのです。何もできなくても、せめて気持ちは寄り添いたいと思いました。でも、あのときのわたしはあなたの気持ちなんてまるでわかっていませんでした。菊田さんを忘れられず藤枝さんとの結婚に前向きになれない駒子さんを、もどかしく思ったことさえありました。わたしは自分が幸せだからといって、ずいぶん傲慢だったと思います。ごめんなさい。

 こんなにも苦しいものなのですね。苦しいけれど、まだどこか頭と心がばらばらで、まるで夢の中で泣いているみたいなのです。目覚めるたびに、これが現実なのだと思い知らされ、毎朝あたらしい悲しみに出会うのです。

 眼裏まなうらに浮かぶ学生服の背中が、いまにも触れられそうなほど鮮明であっても、もう届きません。そのことがわかっているようでわからない。わからないくせに、涙ばかりは溢れるのです。

 以前駒子さんは「もし菊田さんが嘘でも『一緒に行こう』と言ってくれたら、どうあってもついて行ったのに」と言っていましたね。駒子さんは本当にそうなさる方だと思います。だからこそ菊田さんは言わなかった。駒子さんに多くを捨てさせるような道を、菊田さんは選ばない人だと思うのです。菊田さんの大きな愛なのだと思いました。

 でも、いま似たような立場になって思います。それでも言って欲しかった。「全部捨てて来い」と手を伸ばして欲しかった。大きな愛なんて望んでいないのに。

 わたしの耳に、目に、手に、唇に、心に、忘れ得ぬ余韻を残しておいて、どうして他の人と「幸せになってください」などと言えるのでしょう。静寂さん以外の方に添うことが「幸せ」ならば、「幸せ」とは曇り空のお月見よりつまらないものです。

 菊田さんも静寂さんも意気地がありませんね。あの腰抜けどもの顔に、熱い珈琲を浴びせてやりたい。軟弱な頭目がけてレエスのパラソルを振り抜いてやりたいです。腹が立って、腹が立って、やっぱり涙が出るのです。

 こうして恋が散っても、わたしは彼の義姉としてずっとお付き合いは続きます。静寂さんが誰か別の方をお迎えになるときも、お子が生まれるときも、わたしは近くにいて「おめでとうございます」と言わなければなりません。お腹に力を込め、奥歯がつぶれるほど食いしばって、笑って言うのでしょう。そうして胸の内で、埃っぽくなった恋の香りを抱きしめて生きて行くしかありません。

 出会わないことも、共に生きて行くことも無理なら、限られた時間でもっとたくさん会えばよかった。少し前を歩く紺絣の袖を、衝動のままに掴んでしまえばよかった。恥ずかしがらずに自分から「もう一度」とお願いすればよかった。もう気持ちを込めてお名前を呼ぶことさえできません。後悔ばかりです。

 後悔を抱えながら書いた最後のお手紙は、それでも素直になりきれず、物分かりの良いふりをした無様な内容になりました。心の内はこれほどまでに意地汚くしがみついているのに。わたし、本当に駄目ですね。

 もうあのラムネ瓶の単衣は着られません。ワッフルもあんパンもアイスクリームも食べたくありません。

 ごめんなさい。読みにくいですよね。涙は品切れのはずなのに、どんどん文字が滲んでしまいます。

 同じ思いをされた駒子さんにぜひお聞きしたいのです。こんな気持ち、いつしか忘れられるのですか? わたしには幾星霜いくせいそう時を重ねたところで、忘れられるとは思えません。

 けれどもし、質感まで鮮明な栗いろの髪の記憶も薄らいで、声も、いただいた言葉も思い出せなくなってしまうとしたら、やっぱりいや。血を流したままでいいからきし日に溺れる時間を手放したくありません。

 みっともない顔でしょうが学校には参ります。そのためにいまから目を冷やしてきます。


大正九年十二月二十三日

春日井 手鞠

英 駒子さま






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