第24話 戦国武将主義者

 オペレーターの諸君、戸部典子君を知らないか?

 「戸部指令なら上にあがられましたよ。」

 上というと天守閣の最上階か。また戦国武将気取りで下々を見下ろしているのだろう。


 この城が遊園地だった頃、大天守は展望台だった。展望台の強化ガラスの窓越しに淀川水系が見渡せるのだ。

 私は大天守の最上階にある展望台に上がった。

 強化ガラスの窓がひとつ開いており、戸部典子は十二月の寒風に吹かれていた。


 寒くないのか?

 「今年は暖冬なり。それに風は北から南に吹いているなりよ。」

 風が吹き込んで来ないからいいが、やはり少し寒いぞ。

 「寒くてもいいのだ。ここから下を見ていると優しい気持ちになるなり。」

 何を見てるんだ。

 「この眼下の街に、たくさんの人々が住んでるなり。それを見てるなりよ。」

 小さすぎて見えるわけないだろ。

 「見えるなりよ。この国が衰退していくのが・・・」


 イバノミクスがはやし立てられ、経済は長期にわたって成長しているとマスコミは伝えているが、庶民にはその実感がない。平均所得は下がり、物価は上がり、そのうえ伊波政権は消費税の増税を検討している。

 急激な移民の受け入れにより、経済界は安価な労働力として移民を雇い入れた。企業は単純労働に従事させるのであれば、移民でも日本人でもよかったのだ。移民が安い賃金で働けば、日本人の賃金も下がる。

 かつて安価な商品は中国からの輸入品だったが、今では日本が安物の商品を作って中国へ輸出している。中国の沿岸部の都市よりも日本の賃金が低くなっているせいだ。

 グローバル化の時代、企業は国を跨いで経済活動を行う。資本は元来、国家を超えたもの、いや国家以前のものなのだ。日本の企業であっても、税金が高かったり、人件費が高かったりする国から逃げていく。海外に本社を移してしまうのだ。

 伊波政権は企業から徴収する法人税を下げ、その代わりに庶民から消費税を搾り取ろうとしている。

 法人税や人件費が下がって喜ぶのは企業であり、経済界が伊波政権を支持するのは当然と言えば当然のことだ。

 だが、日本教徒にように、搾取される側にいる人々が、伊部政権を支持しているという奇妙な現象は何だろう。伊波俊三の言う「日本のプライド」や「日本人の誇り」といったナショナリズムが黄昏ゆく日本の底辺で暮らす人々の微かな自意識に火をつけているのだ。

 戸部典子君、この状況をどう思うかね?


 「先生は、あたしの政治的立場を訊いてるなりか?」

 窓の外を眺める戸部典子は、後ろを向いたまま答えた。

 そうだ、お前の大いなる力なら、この状況を変えることができる。

 「日本教は叩き潰すなりよ。あれは単なるカルトなり。日本人の誇りはひとりひとりが胸に宿すものなり。押し付けられるものじゃないなり。日本人は自立すべきなりよ。」

 戸部典子の口調は静かである。

 おまえは伊波政権をどう思うんだ? これでいいと思っているのか?

 「あたしは移民政策には賛成なり。先生は話してくれたなりね。古代の日本人は様々な種族の混血なり。たくさんの民族の血が入り混じって日本人ができたなり。これからも日本には新しい血がどんどん入ってくればいいのだ。」

 今のところ、移民は日本の平均賃金を押し下げている。それに、社会を分断する要因になりかねない。

 「そこは楽観的に見ているのだ。移民の中からも優れた人材が現れるなりよ。そうなれば移民の人たちも賃金が上がっていくなり。」

 要するに能力主義ということか?

 「日本人にも優秀な日本人とそうでない日本人がいるなり。中国も韓国も同じなり。先生も京都学院大学の講演会で同じことを言ってたなり。日本人であろうが移民であろうが、同じ土俵で勝負すればいいなり。優れた人間が社会を引っ張って行けばいいのだ。」

 戸部典子の考え方には、信長の帝国の影響が大きい。

 帝国では誰もが平等に能力を競い合うことができるのが基本だ。帝国は庶民が生きられる程度の福祉政策を行っているが、基本的には弱肉強食の世界である。

 ただ、経済成長が著しいため、貧困率が低く全体としては豊かなのである。

 また、競争における公正さが担保されているのも信長の帝国の特徴だ。大商人には多額の税金がかけられ、その原資が新しい技術を生み出すための研究費やインフラの整備に使われている。このシステムが大量の雇用を生み出し続けているのだ。

 また、学問ができる子どもは、たとえ家が貧しくとも高等教育が受けられる奨学制度が整っているだけではなく、体力に自信のあるものは帝国軍に入って出世することもできる。

 だがそれは、社会が上り坂にある場合に可能な選択なのだ。

 下り坂を転げ落ちる日本では、真っ先に弱い者が犠牲なる。


 「あたしがそう考えるのは信長様の帝国の影響だけじゃないなり。あたしは学生時代にインドに旅行したなり。ブッダ・ガヤに立ち寄った時、貧しい子どもたちが学んでる学校を見学したなり。みんな真剣に勉強していたのだ。あたしはその時思ったのだ。日本人はいずれインドに負けるってね。だって、不公平なりよ。日本に生まれただけで最低限の生活が保障されるなら、インドの子どもたちも同じであるべきなのだ。努力して勉強したらインド人も日本人と同じように豊かになるのが平等なり。」

 そうだな、私たちのような先進国に生まれた者は、開発途上国から搾取して豊かな国を築いて来ただけなのかも知れないな。

 「そうなり、日本が衰退してインドが発展すれば、世界はより平等になるなり。」

 それは一理あるが、極端な考え方だ。そういう思考を突き詰めても現実は変わらない。強い者が弱い者を踏みつけにする現実はな。

 現実を考えてみろ、戸部典子君。能力に恵まれなかった者や、障がい者はどうするんだ。

 「それを今考えてるなり。信長様の帝国はネオ・リベラリズムの帝国なり。今の日本もネオ・リベラリズムに舵を切っているなり。ただ大きく違うところがあるなり。それは公正ということなり。」

 そう、伊波政権は公正ではない。大企業や自分の身内にだけ利益を誘導し、庶民の生活を顧みることはない。このままでは格差がどんどん広がり、やがては不平等な階級社会が生まれる。

 「そこなりよ。あたしが考えているのは。でも中二病的な甘っちょろい理想論だけで動くのは危険なり。それは岩見獣太郎が犯した愚なり。大いなる力をどう使えばいいのかを、考え続けているのだ。」

 おまえの理想は正しいと思うぞ、と私は言った。

 その言葉に戸部典子が振り返った。一陣の突風が天守閣に吹き込み、戸部典子の髪を揺らした。

 戸部典子の言葉は激しかった。

 「その理想が見つからないなり。強い者が勝つ世の中は悪い世の中なりか? 弱い者はどれくらいお金があれば満足できるなりか? 社会はどれくらい自由で平等であるべきなりか? 先生、教えて欲しいなり!」 


 戸部典子は考え抜こうとしているのだ。

 信長の帝国をネオ・リベラリズムの帝国と分析し、そこから己が理想を抽出しようとして隘路ににはまり込んでいるのだ。

 私はネオ・リベラリズムそのものを批判はしない。それも経済政策としてはありうるからだ。ネオ・リベラリズムに倫理があるとすれば、それは公正さだと言った戸部典子の指摘には考えさせられるものがある。


 経済学は、アダム・スミスを祖としている。アダム・スミスは経済を「神の見えざる手」に例えた。つまり、個人が利益を求めるままに任せておけば社会全体の利益が達成されるという古典経済学の考え方だ。つまり、国家は経済に干渉しない。

 これに対してカール。マルクスは綿密に市場を分析し、資本家に富が集中し生産手段を持たない労働者が搾取されていることを告発した。ここに共産主義思想が誕生する。共産主義では国家が経済を厳しく統制し、富を社会に公平に分配することが理想とされる。

 二十世紀になるとジョン・メイナード・ケインズがマクロ経済学を提唱する。マクロ経済学は個別の経済活動を集計した国家全体の経済を扱う。つまり国家による経済介入の方法を分析するのである。

 ケインズの経済理論を始めて実践したのは一九三〇年代にアメリカで行われたニュー・ディール政策だ。未曽有の不況にあえぐアメリカ経済に国家がカンフル剤を投入したのだ。アメリカは道路や橋と言ったインフラの建設に予算を投入し、同時に多くの人々が雇用を得ることができたのだ。

 これが経済学の主な流れなのだが、ネオ・リベラリズムは、マルクスやケインズの志向する国家の経済への介入を最小限に留めるという考え方だ。それはアダム・スミスへの回帰とも取れるような理論である。

 ネオ・リベラリズムを採用したのが一九八〇年代に登場したレーガン政権だ。レーガノミクスと呼ばれた経済政策は「小さな国家」、つまり国家は経済に対して個人の自由に任せることにしたのだ。

 こうした政策がアメリカを経済成長に導いたことも事実である。その反面、アメリカの富の九十パーセント以上を富裕層に吸収させることになる。格差は世代を経るごとに固定し、金持ちの子どもは金持ちに、貧乏人の子は何時まで経っても貧困から脱出できない構造が出来上がりつつあるのだ。

 救いはアメリカが「公正」を重要視する国だという事だが、あらゆる面においてこの公正さも疎外されつつある。

 民主主義が未成熟な日本には「公正」という考え方自体が根付いていない。

 公正とは自由競争の出発点を出来る限り公平にしておくことだ。個人の能力と努力以外の何物も競争の勝敗を決めることはできない。

 ただ、公正さにも議論はある。背の高いものと低いものがいるとする。背丈の事を考慮せず競争させた結果と、背の低い者には踏み台を与えた場合の結果はおのずと違うものになる。この事を多くの日本人は理解していない。


 伊波政権は公正さを著しく欠いたネオ・リベラリズムを国民に押し付けようとしている。その結果生まれたのは格差社会の怨嗟であり、日本教団はその怨嗟を再び伊波政権に糾合するための装置なのだ。

 伊波政権を批判する言説の多くが、民主主義と国民主権を叫ぶ、いわゆるリベラル側の言説である。だが、これらの言葉は既に手垢にまみれ、多くの人々を引き付けることに成功していない。


 戸部典子はむしろネオ・リベラリストなのか?

 いや、そうではない。彼女は下克上を生き抜いて、誇り高く勝どきをあげる戦国武将主義者なのだ。

 戦国武将は領地と共に生き、領民を守らなくてはならない。

 彼女はいずれ答えを出すであろう。その答えが、どんな答えだったとしても、私は彼女に与することを止めないつもりだ。


 その日、戸部典子は、陽が落ちるまで伏見城の展望台から街を見下ろしていた。







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