Log-119【英雄の秘薬】

「ん~? お客さんかな?」


 相変わらず緊張感のない声で、背後からの人の気配を察するパーシー。確かに、側防塔の螺旋階段を上ってくる靴音が、アクセルの耳にも入ってきた。


「おい、あの餓鬼はいるか?」


 西門を挟む側防塔の屋上に現れたのは、ぶっきらぼうな物言いをしたサルバトーレ。寝入るウルリカに寄り添うアクセルが彼の言葉に振り返り、ムッとした不満な表情をして、


「餓鬼、ではありません。ウルリカです」


 毅然とした声で応じる。そんな彼の、主人を守る番犬のような健気さに、サルバトーレは嘲笑う表情を湛え、一笑に付した。


「ハッ、甲斐甲斐しいこった。まあいい、お届けもんだ。ゴドフリーの親父からな」


 そう言って、懐から掌大の長細い金属容器を取り出し、アクセルに投げ渡した。それを開けると、


「えっ? これは……」


 一本の注射器が入っていた。銅の押子に、硝子の注射筒。その中には、浅葱色を湛えた半透明の液体が浮かんでいた。


「そいつを注入しろとよ、その餓鬼にな」


「ウルリカです」


 額に手を当てて溜息を吐くサルバトーレ。面倒だと言わんばかりに手で払う仕草をした。


「ったく、うるせえな。さっさとしろ」


「待ってください。これは、薬か何かですか?」


「俺が知るか。まさかこの非常時に、わざわざ毒なんざ渡すか? 冷静に考えろ」


「……それも、そうですね。失礼致しました」


 そう言って、アクセルは注射器を取り出す。針を上に向け、中指を弾いて筒を軽く叩き、押子を押して空気を出す。


「ウルリカ、少し失礼するよ」


 足を畳んで正座し、ウルリカの頭と片腕を膝に乗せ、臥床する彼女の体勢を整える。袖を肩まで捲り上げ、肘窩ちゅうかを露出させると、彼女の首元に結ばれたネックリボンを解いて、駆血帯くけつたいの代わりにそのリボンで上腕を締め付けた。潤い柔らかな絹肌を纏った細い腕、その肘窩ちゅうかに、静脈の膨らみを認めると、


「少し、チクッとするからね」


 優しく囁いて、針を穿刺する、ピクッとウルリカの瞼が揺れた。少し間を置き、腕に震えがないことを認めると、駆血帯くけつたいを解いて、浅葱色の液体をゆっくりと注いでいく。押子が硬い、親指に掛かるその負荷は、粘度の高さを物語っていた。


 それは、駐屯兵という、戦闘も、治療も、衣食住も、自らの手で熟さなければならない者ゆえの手際。それを見越しての、サルバトーレによる人選だった。


 注射筒の内容液を注ぎ終え、針を抜くと、そこから水玉状に血が溢れてくる。腰に帯びた剣を半分まで抜刀し、シャツの裾に切れ込みを入れ、胴一回り分の布を一気に引き千切る。その細長く切り取った麻布を、ウルリカの肘窩ちゅうかに巻き付け、手で強く圧迫した。その時、


「――うッ!?」


 アクセルの視界が揺れる、目眩がする、意識が定まらない。胸の奥から喉元まで這い上がってくる、言い知れない感情――いや、記憶……?


「これは、なん、だ……?」


 駆け巡る走馬灯、それは、果てしなき、戦いの記憶。尽きぬ苦しみと、焦がれる光明。


 血と鋼と。苦と楽と。義と邪と。生と死と。獣と人と。現と幻と。刹と劫と。魔と祈りと。


 人の想いを連ねて、弛まぬ生の積み重ね。連綿と続く歴史に、寄せては返す思念の泡沫うたかた


 それは、命の輝き、夢の篝火かがりび。無尽の燎火りょうかを織りて束ねて、天を灼く送り火と成す。


 それが――


「――勇者?」


 何か、忘れていたことを、思い出したような。大切な、でも切ない、何かを。


 そうアクセルが思いに耽る、その時だった。


「あぁぁぁ……ウァァァァァアアアアア!!」


「ッ!? ウルリカッ!」


 突如、仰臥したウルリカの身体が地面から浮かび上がる。火花散る膨大な魔力を放出して、悲痛の籠もった悲鳴を上げた。


「あわわわっ! ちょ、ちょ、ちょっと、どうしちゃったんだい!?」


 戦場を観測していたパーシーに、彼女の放った火花が降り掛かった。慌てて望遠鏡から目を離し、何事かと訴えかける表情でサルバトーレの方を向く。


「……言い忘れていたが、ソイツには、歴代勇者の魔力が溶け込んでんだとよ。詳しくは知らねぇが、またあの老獪ろうかいなメルランのジジイの仕業だそうだ」


 関心がないかのように淡々と語る彼の言葉は、パーシーを驚愕きょうがくさせた。


「えぇぇ、勇者の魔力って……あぁ、咒術を用意してるって言ってたっけ……絡繰りはよく分かんないけど、また爺さん無茶なコトしてるのか……」


 その言葉を受けて、アクセルは鋭い眼差しでサルバトーレを睨め付け、


「サルバトーレッ!!」


 怒号を放つ――その瞬間、冷静な思考が過ぎる。違う、そうじゃない、なぜ? 溢れ出る感情の激流を、制御できない。


「喚くな、一種の強壮薬でしかねえ、死にはしねえよ。まあ、劇薬ではあったようだがな」


 そう、あれは決して、命をおびやかす毒なんかじゃない。そもそも、ウルリカを害する理由がない。今、彼女が苦しんでいるのは、恐らく急激な回復に伴う、肉体活性の痛み。そう、分かっている、はずなのに。


 あの脳裏を支配した、不可思議な走馬灯を見たから?


 胸の深い深い奥底から、封印されていた“何か”を掬い上げられたから?


「……クッ! 僕は、何をしているんだ……ッ!」


 首を強く振って、無闇な思考を放棄する。すると、アクセルは左手を覆った手袋を外し、漆黒に染まる手を現した。そして、浮遊するほどの魔力の奔流に包まれた、号哭ごうこくを上げるウルリカの手に触れる、その瞬間、


「……君に、無理ないくらいまで、取り除くよ。ウルリカ」


 ドクンと、大地が、大気が、胎動する。神経を震わせ、脳裏を揺さぶる波濤が広がった。同時に、彼女の纏う巨木のような魔力のうねりが、漆黒の左手へと鳴門のようにとぐろを巻いて吸い上げられていく。次第に、魔力の抑制とともに、彼女の悲鳴も収まっていった。


「……え? 嘘だろアクセル君、キミ……」


 開いた口が塞がらないパーシーは、眼前で繰り広げられる不可思議な現象を、ただ唖然と見つめる他なかった。


 浮力は失われ、徐々に地面へと降下していくウルリカ。彼女に障らぬよう、アクセルは再び左手に手袋を着け、両腕で彼女をしっかりと受け止める。そして、ゆっくりと膝を折り、静かに臥床させ、地に着けた膝に彼女の頭を乗せた。二つ結いの髪が汚れないよう掬い上げ、彼女の胸の上にそっと置く。


 アクセルのゆったりとして、繊細な所作。その一挙手一投足には、惜しみない慈愛が込められていた。誰の目にも、そう映るほどに。


「……まあいい、俺の仕事は終わった。あとは好きにしてくれ」


 その様を見守っていたサルバトーレ。窮地を脱したところを認めると、何を注文するわけでもなく、ただ淡々と踵を返した。すると、


「……待ちなさいよ」


 背後から、勝気な女の声が、彼を呼び止める。顔だけ振り向いて一瞥をくれると、アクセルの肩を貸りて、胸に手を当てる、ウルリカの姿があった。息を切らし、額に汗を滲ませる彼女は、しかし、その眼に再びの生気が宿る。


「心外にも世話になったわね、気付けにはピッタリな劇薬だったわ。最悪の寝覚めをありがと」


 睨みつけるかの如く気丈な視線で、素直じゃない礼を言う。とはいえ、その言葉の半分は本気だった。薬液に軽く触れただけのアクセルでさえ、脳裏が焼け切れるような走馬灯が駆け巡るほどだ、体内に直接注入された彼女の心労は計り知れない。


「ヘッ、そんだけ減らず口が叩けりゃ、五月蝿ェくれぇだ。さっさと勇者様のご威光とやらで、あのバケモンをぶっ潰して頂けねぇか」


 ウルリカの皮肉を鼻で笑い飛ばしながら、片手を挙げて、振り払うような仕草をして別れを告げる。その場を後にするサルバトーレの、少し丸まった背中に落ちる影は、彼という人間が身を置く、複雑な立場を現しているように思えた。


 本音と建前、矜持と恭順、理知と蛮勇、慈善と悪行。彼が付き随ってしまった相手は、相反する全てを彼に求めた。舞台装置として揺蕩たゆたい続けることを強いられた男は、それでも、己が目的の為に、己の全てを贄と捧げる。


「……ごめん、ウルリカ。彼に、酷い態度を取ってしまった」


「あたしに謝ってどうすんのよ。いいのよ、そんくらいで。ちょっと張り合いあった方が生きた心地でしょうよ、あいつの場合はね」

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