Log-117【竜虎相搏つ】

 疾走は止まらず、その軌道さえ変えず、ただひたすらに猛進する。それは己の強靱さへの誇りか、本能から来る抑えようのない衝動か。迎え撃たんとする鉄の瀑布を目掛けて、白銀の大狼が突撃を掛けた。


 迫り来る大狼の正面から、長蛇となって収束した砂鉄の波濤が直瀑する。破城槌が城壁を打つかのような鈍く重い衝突音、それは衝撃波となって、雪煙を巻き上げながら地表をさらっていく。


 だが、大狼はその足を止めず、刃の嵐と化した鉄の瀑布を、その頭蓋で引き裂きながら突き進む。速度は鈍った、しかし、その歩みは着実に、人類の下へと近づいていた。


 とぐろを巻き、膨大な束となっていた砂鉄は、その蓄えを徐々に消耗していく。大狼を塞き止められぬまま、鉄の瀑布に底が見えてきた。


 そして遂に、大狼は、迎え撃つ鉄扉のことごとくを打ち開き、連盟部隊の眼前へと迫り来る。


 戦場に立つ者共が見上げた。日輪を遮り、光芒を背負い、長大なる影を落とす。神秘とさえ想わせる壮観さに、一瞬、畏敬の念をも抱かせた。


 異様な静けさが漂う。耳を打つのは冷たいそよ風だけ――だが、その静寂を引き裂き、強引に意識を醒ます声、


「ジェラルドッ!!!」


 心臓を打つかの如き、アレクシアの喊声かんせいが響き渡る。それは、戦いの火蓋を切ると共に、放心する戦士たちを戦場へと連れ戻した。


 その鬨の声に、間髪を入れず、最前線に立っていたジェラルド率いる駐屯兵団が、一条の槍を掲げ、急調子で駆け出す。部隊が二手に分かれると、破狼ハロウの両側面に陣を取った。


 だが、この期に及んでも未だ、大狼は動かない。首を低くして臨戦態勢を取り、唸り声をあげて威嚇しながら、駐屯兵団の位置を一瞥するだけ。そう、あたかも、彼我に開きし力量の差を弁えろ、と警告するかのように。


「突撃!」


 それでも、ジェラルド達は怯まず、号令と共に両側面から挟撃する。槍先を破狼ハロウの後脚に向けて、疾走の勢いそのままに、突き刺す――


「――後退!」


 その切っ先が、まさに脚部の肉へと到達せんとした瞬間、ジェラルドによる後退の号令。その喚声かんせいとほぼ同時だった、大狼が後脚を跳ね上げて、地面を抉り、砂塵が舞ったのは。生じた風の圧力だけで、駐屯兵団は吹き飛ばされてしまった。だが、彼らは宙空で姿勢を整え、難なく着地する。号令を放ったジェラルド含め、織り込み済みの反撃だったようだ。


 されどそれは、殺意を込めた明確な攻撃ですらない。ただ目障りな羽虫を振り払うかのように蹴り上げだけ。ただそれだけで、屈強な兵士たちが風にさらわれる木の葉のように弾き飛ばされる膂力りょりょく。もし直撃でもすれば、人間など原形すら留めず滅裂となるだろう。


 だが、戦意は衰えず。駐屯兵団は機会を伺いながら、大狼へとにじり寄る。


「イングリッドッ!! エレインッ!!」


 総司令官アレクシアによる、再びの号令。その猛りと共に、後方に陣を取っていた二個の部隊が始動する。


 イングリッドがセプテムの魔術師達を率い、エレインがグラティアの特鋭隊を率いる。号令に応じて、エレイン達は大狼を中心に大きく旋回した。大狼の注意が駐屯兵団に向いている、その間隙かんげきを突いた行動。


 そして、前衛部隊が破狼ハロウの注意を引き付ける間に、イングリッド率いる魔術師達は呪文を詠唱し、大規模な典礼魔術の準備を始める。彼女らを中心に魔力の渦が生まれ、刺々しいまでに空気が張り詰める。それはおよそ、真っ先に攻め込まれるだろう殺気。


 当然、大狼の注意は魔力の渦巻く方を向く。だが、その視線を切る者がいた。陣頭に立ち、堂々たる覇気を纏い、身の丈ほどもある大剣を軽々と肩に乗せ、一分の怯みも見せぬ女傑。


「馬鹿野郎、目の前にこの俺がいるんだぜ? 気移りしている暇はねえだろうが」


 ニヤリと口角を上げ、全身から魔力を迸らせるアレクシア。その勇猛たる気配に、破狼ハロウも僅かながら警戒を払う――その隙を、狙っていた。


 後脚に、確かな穿刺痛せんしつうが走る。無数に突き刺さる槍は、駐屯兵団による不意を突いた襲撃。


 砲撃を弾いた肉体でも、魔力を帯びた矛ならば、その刃は確かに通った。無論、傷は決して深くない、だが、絶対強者を誇ってはばからぬ大狼の矜持に、爪を立てることはできたようだ。


「散開!」


 ジェラルドの号令は、だが、寸秒遅かったか。怒り狂う破狼ハロウが、暴走する。後脚で蹴り上げる、旋回して剥き出しの牙を振るう、前脚で地表を踏み拉く。それは、荒れ狂う竜巻の如く、散開し距離を置こうと退く駐屯兵団を、衝撃波が襲う。吹き飛ばされ、地面に叩き付けられる幾人もの兵士たち。それを見逃す大狼ではない。野に臥す、脆弱なる生命を喰らわんと、研ぎ澄まされた牙を露わにした。


 見る者を戦慄せんりつさせる、血と殺意が糸を引く口腔、その奥底にうごめく暗赤色の瀝青れきせいが、身体動かぬ兵士の視界を埋め尽くす。それは、暗がりよりも深き虚無、確約された死の谷底。一人の兵士は、逃れられぬ運命を悟り、覚悟した――その時、数多の銃声が鳴り響く。


 或いは、針金の如き銀毛に、或いは、厚く強靭な皮膚に、造作なく弾かれたか。いや、それだけではない。無数に放たれた銃弾の僅か二・三発ではあったが、弾は破狼ハロウの口腔に侵入して暴れ回っていた。その違和感と痛みから、頭を大きく震わせて仰け反る。


 野に伏した兵士は助かった。だが、大狼の矛先は瞬時に転じる、幕壁の歩廊で胸壁に小銃を据えた、レギナ達へと。


 照準器越しに、両者の視線がかち合う。怖気が走るほどの、憤怒の眼で睨め付けられた。額から脂汗が滴る、手袋が蒸れる、口が乾く。蛇に睨まれた蛙の如き恐怖、それを追い払う為に、引き金を引きたくなる衝動を、歯を食いしばって抑え込む。


 敢えて、引き金を引かない、それは何故か。それは、天から降り注ぐモノが応えだった。


「キィィィェェェァァァ!!」


 連盟部隊の後方で、奇声を上げるティホン。天に掲げた腕を、勢いよく振り下ろす。呼応して、上空から束となった砂鉄が、滂沱ぼうだあられとなって降り注いだ。破狼ハロウの巨体をまるごと包み隠す、漆黒の村雨むらさめ。次第に、その怒濤の激流は地面を押し潰し、大狼がそそり立つ一帯は窪地へと変わっていく。直瀑する鉄の瀑布、その軌道上にあるものを、ことごとく塗り潰していく。


 砂と雪が入り交じった風塵が大地に広がっていく、大狼を取り囲んだ兵士達が手で顔を覆う、辺り一面は白い靄に包まれた。次第に晴れていく視界、その先に、巨大な影が揺らめく。耳をつんざく唸り声は、殺意に塗れた恨み節。だが、その一触即発なる気配に似合わず、振る舞いは不動。いや、酷く鈍い動きだった。


 白い靄が霧散していく、巨大な影を抜けて、破狼ハロウが姿を現す。これまで白銀を纏っていた大狼は、あたかも墨で塗り潰されたように、砂鉄の黒を湛えていた。


「グゥッ……ッ! 何、とも……ッ! 業腹……ッ!」


 腕を交差させ、砂鉄を纏った大狼を磁力で縛り付けるティホン。筋肉が強張り、身体が震えるほどの必死な形相を湛えたその鼻孔からは、瞳からは、血潮が流れ出ていた。


「エレインッ!」


 その容態を察したか、アレクシアが次の一手を号令。すると、大狼の背後に陣取り、息を潜めていた特鋭隊が、一斉に躍り出る。その一人一人の手には、末端に魔石が接がれた鋼の鉤と、掌大の小振りな書物が握られていた。


「みんなーっ! 縛れーっ!」


 エレインによる号令が響く、同時に、特鋭隊が疾走する、手に持った鉤に魔力が込められていく。魔石が魔力に呼応すると、そこから灰色に染まる三つの紐が出現した。さらに、書物に綴られた呪文が魔力に呼応すると、灰色の紐が独りでに三つ撚り状へと撚り合わさっていき、強固な綱を成形する。


 破狼ハロウを取り囲むように大地を駆けつつ、綱を高速で旋回させ、先端に結った鉤を、勢いよく放り投げる。宙空で弧を描く鉤が、砂鉄の磁力で縛られた大狼の胴体、脚部、顔面の肉に食い込み、その肢体を締め上げた。二百人弱にも及ぶ特鋭隊が総動員して、大狼の自由を更に緊縛したのだ。最早、先ほどの鈍い動きさえも取ることを許さぬ、完全なる抑止。


「第一中隊、全速前進ッ! さあ、気張れ野郎どもッ!」


 第一線に立ちながら、不動を貫いていたアレクシアと、彼女率いるアウラ国防軍第一中隊が、満を持して動き出した。

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