Log-072【厳冬を征く】
「隊員戦闘配置!
先陣を切るアレクシアの号令。眼前には、吹き荒ぶ風雪に紛れた、白い獣毛を纏う巨躯の猿が見えた。背丈は二メートルを優に超え、その様は白熊を彷彿とさせる。数は五頭、連中は様子を伺いつつ、次第にこちらとの距離を詰めてくる。
「チッ! 足元が
「
号令を耳にして馬橇から飛び出したジェラルドら駐屯兵団。轍の残る雪道は、
呻き声のような咆哮で威嚇する
「逆撃!」
ジェラルドの合図が轟く。応じて密集陣形が瞬発的に前へ踏み込む、
「穿孔!」
再び合図が轟く。盾で打ち付けられ、宙空で怯み竦む
危機が去ったのを確認し、陣形を解いていく、その時、背後から破裂音が響く。駐屯兵団は一斉に振り向き、再び円盾を構え直す。しかし、その必要はなかったようだ。
「一頭、取り逃がしてるぜ。ジェラルド」
身の丈にして常人の倍はあろうかという
「お、あ……め、面倒を掛けた、アレクシア。俺の失態だ、すまん」
「おいおい、気にすんなって。誰も怪我してねえってだけで十二分な戦績だ、初めての雪中戦とは思えねえ。見事だぜ駐屯兵団」
アレクシアの激励に続き、駐屯兵団の後続として戦闘待機をしていた連盟部隊からも、大きな歓声が上がった。肌を刺す風雪の中で、陽気な空気が漂う。
民間から派遣される駐屯兵団は、謂わば傭兵のようなもの。正規軍の者からすれば、信用するには疑問符の付く連中と言えた。しかし、今回の活躍を期に、駐屯兵団はその実力を認められたようだ。
―――
ウルリカら勇者一行とアレクシア率いる連盟部隊はセプテム領内へと進入していた。
そこは秋季を越して極寒の地。薄灰色の空が大地を包み込み、触れれば溶け落ちる粉雪が深々と降り注ぐ。辺り一面の銀世界の正体は、雪化粧に飾られたかつての荒野。地平から点々と伸びる雪花を咲かせた針葉樹、そして木陰に潜んだ野生の兎や狼の姿が、生命霞む極限環境の中でかすかな息吹を感じさせた。
グラティアとセプテムの国境付近に設けられた駅の機能を有する宿場町で、一行は目出帽を被り、羊毛の防寒具の上に分厚い外套を纏い、馬車から馬橇に乗り換え、寒冷地で生育された寒波耐え得る剛毛屈強な寒立馬に取り替えた。町役場への事前連絡が行き届いていたため、半日を待たずして準備は完了。到着した翌日には行軍を開始できた。
セプテムに続く雪中の道は轍が比較的しっかりと残っており、積雪によって進行が妨げられることは少なかった。しかし、摂氏温度にして零下四十度を下回る寒さが士気に与える影響は甚だしいものだった。如何に防寒対策を講じても、その寒さは身に纏う防寒具を貫いて骨の髄まで凍えさせた。
食事には熱量や塩分の高いレーションが配られるものの、寒気と疲労に当てられて食欲を失う者、更には熱を出す者もおり、セプテム城郭都市までの交易路沿いに点在する宿駅に立ち寄っては、医療班とウルリカが主導となって看病が行われた。
「
人数分の湯婆を用意し、患者一人一人に回していく。直に触れられる熱源があるだけで、身体の面でも気持ちの面でも良い方に様変わりするものだ。
「暖炉、火力それだけ? そう、じゃあ馬車から魔石式ヒーターあるだけ持ってきて」
部屋の大きさ、患者の多さに比べて、暖炉の火は心許ない熱量だった。その為ウルリカは、馬車内を暖める為に積載していた、炎を生み出す魔石で暖まる円筒状の発熱器を利用した。
「毛布もこれしかないの? うーん……もうこの際、藁でもいいから持ってきて頂戴」
大規模な団体客など想定していない宿舎、とにかく備品が少ない。馬小屋に敷くような藁をも持ってきて、足りない毛布の代わりに敷いたり掛けたりした。
「あ、スープできたのね、先に患者に回して。ええもちろん貴方達も交代で飲みなさい」
物も人も少ない中、それでもウルリカは部隊の者の食事と休息を優先的に確保した。
「え? 追加の患者? あー、じゃあ入り口のとこにベッドまだ置けるから、持ってくるわ」
宿駅には宿場町ほど充実した施設はない。薄く硬い寝台が窮屈に押し込まれた大部屋で、病人は小さな暖炉を頼みに臥床する他なかった。そんな劣悪な環境下で、ウルリカたちは眠る暇もなく看病し続ける。慣れない環境が隊員たちの身も心も蝕んでいった。
「うしっ! んなもんかな、明日に必要なやつは」
「ええ、これだけ水と食料があれば十分越せそうね。明日の馬は調達済み、馬具と橇は確認済み、防寒具と武具の調整は依頼済み……一先ず問題なさそうね。じゃ、明朝までは遊んできていいわよ、アレクシア」
「いよっしゃあー! んじゃお前ら! 駆り出すぜえー!!」
ただし、そんな劣悪状況をそのまま放置するウルリカではない。健康的な者は行軍準備に駆り出されはするものの、その後の余暇を宿駅内での息抜きに当てることを許されていた。
「ッカァー! 北の酒は強えなあ! ん? どうしたジェラルド、手が止まってんじゃねえか」
「……ああいや、すまない。ちょっと考え事をな」
「辛気臭えこと言ってんじゃねえよ! 道のりはまだ長え、減り張りつけとかねえと参っちまうぜ!」
大した施設はなくとも、度数の高い酒は手に入る。小さいながらも見世物小屋や賭博場、娼家もあった。何より本作戦の給与は、大多数の隊員にとっては極めて割の良い仕事であり、金銭に糸目を付ける必要なく娯楽を享受することができた。
その娯楽を糧として、吹雪に霞んで先の見えぬ極寒の雪景色を前に、何とか隊員たちは歩を進めることができた。次の宿駅に着けば、また趣の異なる遊びが待っている。その思いが彼らを突き動かしていた。
ウルリカはセプテムの厳冬が、必ず部隊の士気を下げると読んでいた。ゆえに、賃金を前払いしつつ、娯楽を全面解禁した。その狙いは的中。
隊員は皆その道の専門家。士気の低下で後退や停滞などあり得ないものの、士気が高くあるに越したことはない。病は気からとも言うように、神経衰弱こそが泥沼へと引きずり込む難敵であると、ウルリカ含む部隊の統率者らは自らの経験を以って理解していた。しかし、
「ッ……!」
「……ウルリカ、大丈夫?」
「単なる、立ち眩みよ。問題ないわ」
他者の体力や心理状態は予測し対処できるウルリカ。しかし、自身に迫る限界を一切無視した献身は、徐々にだが、確実に、彼女の身体を蝕んでいった。
「……薬は僕が部屋まで持っていくから、ウルリカは少しスープでも飲んでくるんだ」
「片腕の分際で生意気ね。あたしの方は五体満足なんだから、あんたの方こそ休んでなさいよ」
「この生活も随分慣れたよ。さ、ここは僕に任せて。器、君の分だけ片付かないからさ」
「……フン」
そんな矜持だけは死守するウルリカに、アクセルは出来る限り付き添い、共に仕事をこなした。微力だとは分かりつつも、せめて悪態をつける捌け口にさえなれれば、と。張り詰めた神経を緩めるきっかけになれれば、と。
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