5-9


 不意に声を掛けてきた魔術師へ視線を送る。

 茫洋とした、夜の海が人の形をしたかのような出で立ち。

 奈落めいた深淵を引き連れて佇む影法師。

 そのあまりにも曖昧模糊とし過ぎた在り方に、真理の全身が粟立あわだつ。

 白い法衣の男は強大な力を持つ生命体であるが故に周囲の生き物に威圧感と圧迫感を与え、恐怖をばら撒いていた。

 それに対して、この黒い法衣を纏った者の存在の儚さと脆弱さは一体なんだ?

 コイツを見ていると人の形をした虚無―――いや、世界に人の形をした空隙の穴が開いているような感覚を抱かせる。

 赤子にも劣るその弱さは世界に穴を穿つ程の虚無の気配を内包している。

 それほどの異質さを抱きながら、今この時も世界の中で生存し続けているというその矛盾。

 文字通り在りえない事を成立させているその異常性に戦慄を覚える。

 白法衣の男が異常なまでに強いなら、この黒法衣の魔術師は異常なまでに弱い。


「あぁ、こうして直にお目見えするのは何度目だったかな? 私は貴方のその輝かんばかりの美しさと尊さを忘れたことは一秒たりともありはしないが…貴方は覚えておられるだろうか? 宝石で出来た花、真にとうとき者よ。私がこしらえた催し物は楽しんでいただけているかな?」


「……?」


 正体不明アンノウンの言葉に私は首を傾げる。

 ワケが分からない。

 だって私はコイツとは初対面だ。

 なのにこの魔術師は私と既に面識があると言っている。

 どういうことだ…?


「おっと、今回の催し物はこれから起きる祭りの座興でしかないから、それを本催のように語るのは良くなかったな。許しておくれ、聖母マリアよ。」


 いや、そもそもコイツ―――私の事を見ていないような…?

 私に対して語りかけているものの、どこか私との視点がズレているというか…私の奥底を覗き込むような視線を感じる。


「さて、君の疑問の解消に努めるとしようか。君の疑問は至極真っ当ではあるがしかし、同時に的外れでもあるのだよ。何故なら、そもそもこの世に普通の一般人などそう多くはいないのだからね。」


「は…?」


 魔術師の言に対して更に私は首を傾げるしかなかった。

 それほどまでにコイツの言葉は意味が分からない矛盾したものだったからだ。


「そも、何を指して普通というのか。そこから疑問を持つんだよ。人間という種は共通の常識を持たない生き物だ。六十億人の人間がひしめくこの星では、つまるところ六十億通りの常識が渦巻いているのだよ。例えばAさんはとても良識的な人間で、善良な行いを為す事が当たり前で常識だと考えている。しかしBさんは悪識的な人間で悪事を為す事が当たり前だと考えている。Cさんは善悪が混在した中庸とした事を為す事が当たり前だと考えている。他のDさんEさんFさんは先の三人とはまた別の考え方を持って生きている。Aさんと酷似した在り方をしていながら善良さの絶対値が違うあまり、Aさんほど善良な行いが出来ない者もいる。逆にAさん以上の善行を為す者もいるかもしれない。このように人間の性というものは種類の豊富さと数字の多寡において他の生命体の追随を許さないほどに芳醇ほうじゅんな出来栄えをしている。その多様性は人間という種が持つ可能性の多彩さの証左でもある。その由縁もあって人間はこの星の霊長類の座に君臨する事が出来たんだよ。だってほら、数が多いというのはそれだけでも様々なモノに影響を与える力になる事があるのだから。」


 傍らで修羅場が起きているにも関わらず、講義めいた長い言葉を魔術師は流暢に口にしていく。

 おそらく、こいつは生まれつき弁が立つ性なんだろう。

 いつ如何なる時も言葉巧みに世を流し、流れていく。

 そうでなければ生きられない、そういう生き方しかできないと雄弁に語っているかのようだった。

 そんな初めて会った筈の魔術師にどこか懐かしさを覚えて。

 と、ワタシは思った。


「まぁ、つまるところ君の抱いている常識に依った推察は実のところ的外れだという事さ。彼は君が思うほど凡夫でもない。もっとも、特別にも成りきらない不思議な者でもあるが…。あぁ、見てごらん? 彼らの舞踏を。実に野蛮で、しかしとても鮮やで美しいじゃないか。」


 魔術師の指摘に二人へ目を向ける。

 そこでは滑稽さすら伴う奇跡が起き続けていた。

 白い法衣の男が放つ拳蹴による打撃は変わらず凶悪な威力で、聖条君を吹き飛ばした時に比べて更に威力が上がっているようだ。

 衣服はボロ雑巾のようにズタズタで、ヤツの攻撃が聖条君の体を掠める度に彼の皮膚が破けて出血を起こす。

 攻撃を捌く為に使った手足は赤く腫れ上がるあまり、焼けた鉄を想起させた。

 既に体中のあちこちに軽くない傷を数多に抱えている彼は満身創痍のソレだった。

 だがそれでも彼の瞳に宿っている闘志の光は揺らぐことが無く、むしろ先に比べて更に熱く滾っているようだった。

 砂漠地帯のギラつく太陽にも似たその光は清廉でありながら、しかしどこか暴虐にも似た気配を漂わせている。

 ともすれば、目の前にいる白法衣の男にも引けを取らない迫力があった。


「そらそらァ! 休んでいいなどと言った覚えはないぞ? 手も足も頭も動かし続けなければ、すぐに命を落とす羽目になるぞ小僧!!!」


「うるさいんだよ! 一人で勝手に盛り上がってはしゃぐな、この無法者め!!」


 聖条君の先ほどの穏やかな顔はすっかりと身を隠し、今は相対している敵に小さな獅子も斯くやと云わんばかりの迫力で罵倒を浴びせている。

 普段の印象からは考えられない激しい感情の発露に私は戸惑う。

 柔らかく落ち着いた物腰から彼は人畜無害を絵に描いたような人柄なのだと思っていたが、もしかしたら彼は根に嵐の海のような激情を抱えた人物だったのかもしれない。

 それに先の魔術師の指摘にもあった通り、彼の実力は普通と言うには特別過ぎた。

 聖条君の武術の練度の高さはあくまでも一般的。

 しかし彼の動きを観察していると所々ところどころに現代武術だけでなく、古武術の動作が混じってる事に気づく。

 移動の際に用いられている歩法はり足だし、攻めるのであれ防ぐのであれ体幹の重心が常に一定の位置を保っている。

 拳撃はボクシングのジャブから空手の正拳突きが繰り出され、足技はサバットの横蹴りシャッセに唐竹蹴りが混ざっていた。

 現代格闘技は基本的に心身錬磨の為の手段、いわば生命を殺めず、自身の肉体と精神をより高度な領域へと鍛え上げようとする活人の技術だ。

 対して古武術とは端的に言ってしまえば殺戮の技巧。どれだけ効率よく相対した敵手を絶命させられるか、その一点にのみ意味を見出す。

 平穏な表の世界で生きてきた彼が何故、陰惨な裏の世界で使われている殺しの技術を身に着けているのか分からない。

 これはいったい、どういう矛盾だ?

 そんな私の困惑をよそにして、双方素手による格闘の応酬は時と共に加速していく。

 白法衣の男の嵐にも似た暴虐の攻勢を、聖条君は苦し紛れでありながら暴風と化した拳蹴の乱打をなんとか凌いでいる。

 普通、災害を前にしてガラスの盾を用いて真っ向から挑もうなどとは思わない。

 しかしそんな異常行為を彼は当たり前のように実行に移し、そのうえ成功にまで漕ぎ着けている。

 それはまるで―――喜劇めいた狂気の沙汰だ。

 とてもじゃないが常人が真似できる所業ではない。

 しかし聖条君は只人でありながら狂気の沙汰と喩えられるような高難度の行いを今も成し遂げている。

 肉体も精神も魂も間違いなく普通の人間の構造をしているはずの彼が、何故このような奇跡を成し遂げているのか、その仕組みが全く分からない。

 彼の矛盾した在り方に私は魅せられて、しかしどこか恐怖する。

 あの奮闘をいつまでも眺めていたい……だけど、早く終わってほしいというこの気持ち。

 彼の矛盾した在り方が私の中に矛盾した気持ちを生じさせる。

 あぁ…私はいったい、どちらを望んでいるのだろう?

 自分の気持ちが全く分からないだなんて、今までには無かったことだ。

 こんな事は初めてだから、戸惑ってしまう。

 戸惑いながらしかし…耽溺たんできしたくなるような…もっとこの感覚を味わっていたいと、いつかどこかでワタシが囁く。

 そんなもどかしくも心地良い時間に、やがて終わりが訪れる。






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