第7話

 戦争が終わる二年前、ケリーは六歳だった。その頃、漁師たちは戦争のせいであまり遠くまで漁に行くことができなくなっていた。

 だから、お父さんは岩場や近くの沖に潜って、その日食べる魚や売るための魚を、銛で突いて捕まえることが多くなっていた。生活は苦しかったけど、普段漁に出てほとんど会えないお父さんと一緒にいられることが、ケリーは嬉しかった。


 ケリーは水の中に消えたと思うと、あっという間に魚を捕まえてくるお父さんを、とてもかっこよく思っていたし大好きだった。特に、銛で大きな獲物を一突きにして誇らしげに掲げる姿には、すごく憧れていた。まだ白かった首飾りが、お父さんの黒く焼けた肌に映えて、輝いていた。


「おとうさん! きょうもすごいね! たいりょうだね!」


 ケリーはお父さんの漁について行くのが楽しみだった。ただ、お父さんのかっこいい姿が見たかっただけなのだが、お母さんは危ないからと言ってあまりいい顔をしなかった。

 でも、ケリーが行くとなぜかたくさん魚が獲れたので、お父さんはなるべくケリーを連れて行くようにしていた。


「そうだな。お前がいると、本当に縁起がいいみたいだ。お前がもっと大きくなったら、漁船にも乗せてやるからな。そのときも、大漁にしてくれよ?」

「うん! まかせてよ!」


 ケリーは、漁について行けることが嬉しくて、目を輝かせた。特になにをしているわけでもないのに、自分が行けば大漁になると信じていた。頼りにされることが、さらに嬉しさを増やして、ケリーの顔は満面の笑みで彩られた。


「よし、じゃあもう少し潜ったら帰るか。待ってろよ」


 お父さんは微笑むと、ケリーの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。お父さんの手は、お母さんの優しくて柔らかい手とは違って、分厚くてごつごつしていた。でも、お母さんとは違った安心感があって、ケリーはお父さんに撫でてもらうのが大好きだった。


 この日は小舟に乗って、近くの入り江に来ていた。海の透きとおった碧を、波がゆるやかに揺らしていた。海面が日の光を受けて、きらきらと光の欠けらを生みだしていた。ケリーは、あまりにきれいな海の様子に目を奪われて、お父さんがどれだけ長く漁をしていても退屈しなかった。


 ケリーが小舟から身を乗り出して、水面を指でかき回していると、急に近くからゴボゴボと大きな泡が立ってきて、穏やかな水面を乱した。ケリーは驚いて、海に落ちてしまいそうになった。なんとかふんばると、慌てて泡の方へ目をやった。澄んだ海の中に、黒い影が見えた。それはどんどん大きくなっていって、やがて姿を現した。


 お父さんだった。


 それも、当時のケリーと同じくらいはある、大きな魚と一緒だった。

 銛が刺さっているにも関わらず、魚は激しく暴れていた。抑え込もうとするお父さんの顔や体に、力いっぱいひれを叩きつけて、必死で逃げようとしていた。お父さんは魚を脇に抱え込んだりしながら、刺さった銛を絶対に離そうとはしなかった。


「がんばれ! おとうさん、がんばれ!」


 ケリーは、また小舟から身を乗り出して叫んだ。

 何度か漁について行ったことはあっても、実際に魚を捕まえるところを見たのは、これが初めてだった。

 お父さんが海に潜れば、必ず獲物を獲って上がってくる。きっと、簡単に捕まえることができるのだろうと、ケリーはこのときまで考えていた。でも、目の前の光景を見て、それが間違っていたことを知った。水しぶきの向こうに見えるお父さんは、とても勇ましく、かっこよかった。


 何分かの時間が経ち、お父さんの体が八回浮き沈みしたころ、ようやく魚は大人しくなった。お父さんは、疲れと達成感に溢れた表情で小舟まで泳いできた。


「おとうさん! だいじょうぶ?」


 ケリーは、お父さんが怪我をしていないか

 心配だった。


「あぁ、大丈夫だ。ありがとうな。ほら! 見てみろ、大物だぞ!」


 小舟に上がったお父さんは、捕まえたばかりの獲物を持ち上げて豪快に笑った。魚の大きさに驚いてほしかったお父さんの気持ちとは裏腹に、ケリーは違うことに驚いていた。魚に刺さった銛が、折れていたのだ。


「おとうさん、もりが……」


 今までどんな獲物も捕まえてきたこの銛に、ケリーは特別な感情を抱いていた。騎士にとっての剣のような、強さの象徴として、この銛があったのだ。そんな銛が折れてしまったことは、幼いケリーにとって、とてもショックだった。


「あっ、本当だな。ケリーが生まれる前から使ってたからな。もう寿命だったのかもな」


 銛は魚の体に刺さったまま、しなるように折れて、なんとか一本の姿を留めていた。お父さんは、ぐったりとした魚から銛を引き抜くと、海水で刃を洗い、足元に置いた。


「今までありがとうな。お前は、俺と一緒にたくさんの獲物を獲ってくれた。漁師として、心から感謝する」


 お父さんは、胸の前で手を組んで、お祈りをするように、片膝をついて目を閉じた。

「いままで、ありがとう!」


 ケリーも真似をして、目を閉じた。

 すると、なんだか悲しい気持ちになって、泣きそうになった。


「これはな、お父さんのおじいさんから、教わったことなんだ。物だって、大事に使えば長持ちするし、持ち主にちゃんと応えてくれる。まるで、心が宿るみたいにな。だから、お父さんはこうやって物が壊れたときはお礼を言うんだ。いいか、ケリー。人にも物にも、ありがとうの気持ちを忘れないようにするんだぞ?」


 立ち上がると、お父さんはケリーの頭をくしゃくしゃと撫でた。


「うん!」


 ケリーは、元気よく答えた。


「ねぇ、おとうさん。このもり、すてちゃうの?」

「そうだな。ここまで折れてちゃ、直すこともできんからな」

「じゃあ、ぼくにちょうだい!」


 ケリーは、憧れていた銛との別れが嫌だった。お父さんが使えないのなら、せめて自分が持っていたいと思った。


「うーん、そうだな。手入れの練習に、ちょうどいいかもな。よし! お前にやろう。その代わり、お母さんには内緒な。危ないからって、取り上げられるかもしれん」


 ケリーは嬉しくて、小舟の上で飛び跳ねた。おかげで、大波が来たように揺れてしまって、ちょっとだけお父さんに怒られてしまった。


 家に帰ると、お父さんは銛を二つに折って、刃のついた方を短く整えた。それから、危なくないように布に包んで、小さな木箱まで作ってくれた。


 こうして出来た、小さなケリー専用の銛で、刃の砥ぎ方や銛の突き方などを毎日練習した。ケリーは、この銛に心が宿って自分に応えてくれるのが、楽しみでしかたがなかった。

 

 そして今。銛は、いつもお守りとして持ち歩いていたし、刃の手入れだって欠かしたことはなかった。首飾りと一緒に持っていると、お父さんが傍にいてくれるような気持ちになった。


 それなのに、今のケリーは悔しくて泣きそうだった。

 この日、やろうと思っていたことができなかったから。

 ケリーは唇を強く噛み締めて、銛をギュッと握り締めた。

 

 ケリーは、大佐を殺すつもりでいた。

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