17話「利用と契約」
17話「利用と契約」
思いがけないきっかけから、家庭教師を翠の自宅でやる事になった日。その日以降から、翠の部屋で勉強をすることになっていた。
そのためか、仕事帰りは迎えに来てくれるようになったし、彼はほとんどスーツを着てくるようになっていた。
和装をなかなか見れなくなり翠が「ちょっと寂しいですね。」と言うと、色は呆れ顔で「変な奴。」と返事をしたが、次の日に着てきてくれたのだった。
本人は、「仕事が料亭でだったから、たまたまだ。」と、少し部が悪そうな顔をしていたが、色の気持ちが嬉しくて、翠はついニヤニヤしてしまった。
そして、ついに色との時間が半月を残すのみとなっていた。
その日も、色は翠の部屋に来ていた。暑かったのか、上着も脱ぎネクタイも外しており、ボタンも少し開けていたので、肌が露出されていた。それを見てドキドキしてしまう自分に呆れながらも、色の妙な色気にやられながらギリシャ語の勉強をしていた。
そんな翠も今日の暑さからか、かなり薄い服装になっていた。仕事から帰った服は汗をかいてしまい、簡単に着替えさせてもらいラフな格好でいた。
「あの、実は昨日の残りなんですけどスープがあるので、おうちで食べませんか?パスタならすぐに出来るので。」
Tシャツに膝下までのフレアスカートに、エプロンを着けながら言うと、「……わかった。悪いな。」と色は返事をしてすぐにノートに視線を戻した。何かメモをしていたようなので、「冷泉様はゆっくりしていてくださいね。」と、声を掛けて、小さなキッチンへ向かった。
翠は、スープを温め直しながら、パスタを作り始めた。冷たいものがいいかな、と思いながらも具材に目ぼしいものがなかったので、ミートソースにしようと考えていた。
隣の部屋からは何も物音はしない。色は、先ほどの復習をして集中しているのかな、と考えると翠は嬉しかった。教えて事が、彼を夢中にさせ、そして役に立っているのだ。それに、この部屋にも、少しは慣れてくれたのかなと思えると、くすぐったい気分になってしまう。
お湯が煮たった音が聞こえて、翠は慌てて火を弱めた。彼の事ばかり考えてしまっては、料理が失敗してしまう。簡単な物だけれども、せっかく色に温かい手料理を振る舞えるのだから、おいしいものを食べてもらいたいのだ。
「集中集中ーっ!」
色には聞こえないぐらいの声で、呪文のように唱えながら、髪をしっかりと結んで、翠は料理を作り始めた。
料理をする時間は、それだけを考える事ができるので好きだった。集中しやすい時間なのだ。
そうすれば、考えたくない事や悲しい事を忘れられる。そう、残り数回となった色との時間の事を。
残り5回のみとなってしまう、家庭教師の仕事。
この時間が、甘く幸せな時間で、この時間がなくなってしまう事が、今の翠には考えられなかった。
色と冗談を言いあったり、彼に頭を撫でられたり、彼の真剣な表情を隣でこっそり見たり、キスをしたり。彼の隣に座れる時間がなくなってしまう。
そう考えない日はなく、思い出してしまえば、涙が出てしまう。
その事を忘れたいとも思うけれども、彼との思い出は消したくない。
そんな悲しい事ばかりを考えて日々を送っていた。けれども、彼のための勉強をする時間は違った。少しでも彼の役に立てるのだと思うと、その時間は翠の心の支えになっていた。
もちろん、彼との甘い時間もだが。
料理をしていれば集中出来るはずなのに、今日はダメだった。彼の事ばかり、考えてしまう。
ため息をついた瞬間だった。
「おまえ、次の仕事休みの日。何かあるのか?」
「…………っっ!?れ、冷泉様っっ!??」
いつの間か、翠の隣には色が立っていた。考え事をしていたせいか、全く気づくことが出来なかった翠は、体を思いきりビクッとさせて、悲鳴さえも出ないで、その場から下がってしまう。
すると、その反応に色が驚き「なんて反応してんだよ。ボーッとしすぎだ、怪我するぞ。」と、持っていた包丁を取り上げて、まな板の上に置いた。
「すみません……考え事をしていたみたいで。どうしたんですか?」
「テーブルの上のカレンダーに次の休みの日に丸がついてた。何かあるのか……?」
「え、あーあの、その日は私の誕生日なんです。私の職場では、岡崎さんの考えで誕生日は休みにしてくれんです。……私はは全く予定はないんですけど、なので、とりあえず丸つけてみたんです。」
岡崎にこの日は休みじゃなくてもいいです。と、伝えているが、毎年「みんな休みにしてますから、気にしないでください。いいお誕生日を。」と、言われてしまうのだ。
どこかに出掛けてもいいかとも思っていたが、今は色との家庭教師のために勉強をしたかったので、今年も家で過ごすとになりそうだった。ちょうど、休日とも重なっており、出掛けてもどこも混んでいそうなので、丁度よかったかもしれない。
「……岡崎とかいう店長は?」
「岡崎さんですか?岡崎さんは、その日は確か店長ミーティングがありましたけど……?」
「そうか。」
「はい。」
何か答え方を間違ったかな?と翠は思いながらも、色が納得したようだったので、深くは追及しなかった。
「少し待っててくださいね。もう少しで出来ますので。」
色から視線を逸らして、料理の続きをしようと包丁を持とうと手を伸ばしたが、それは色によって阻まれてしまった。
後ろから色に抱き締められてしまったのだ。
肩に顎を乗せるよう抱き締められてしまうと、少し横を向くだけで、彼の顔が近くなってしまう。直視できないので、まな板の上を真っ赤になりながら見つめるしかなかった。
「あの……冷泉様、危ないですよ?」
「だから、包丁は避けただろ。」
「そ、そうだったんですね………。」
耳元で話されると、くすぐったくも、妙な気持ちになってしまい、翠はどうしていいのかもわからずに ただ色に抱き締められるままになっていた。
「耳苦手か?いつも耳元で話すと、体が震える。」
「そう、ですね。なんだかくすぐったくて、変な感じがしてしまいます。」
「今日は耳にキスしてやろうか?」
「え、なんで……!?」
「耳の方が気持ちがいいかもしれないだろ。」
いつもより低い声で誘うように囁かれると、更にドキドキしてましい、体の力が抜けそうになってしまう。彼に抱き締められているので、どうにか座りこんだりはしないが、頭がボーッとしてきてしまう。
「耳と唇、どっちがいい?」
「そんな………。」
「教えろよ。」
「………も、、、。」
翠は考えられなくなった朦朧とした頭のせいで、今の自分の気持ちを素直に伝えるしか出来なくなってきた。
今、色にしてもらいたい事。
彼を感じたい、もっとぎゅっとして欲しい、と。
「何?聞こえない……。」
執拗に耳元で喋ることを止めない色に、やめてほしいと言えないのは、本当は止めてほしくないからなのか。
それさえも、翠はわからなくなっていった。
「どっちも………。」
「………欲張りな奴。」
色に耳をペロリと舐められ、ぬるりとした感触と、直接届く水音に、体を大きく震わせてから身を縮めてしまう。
「こっち向け……。」
そう言いながら顎に指を掛けられて、強制的に彼の方を向いてしまう。細められた目から見える、妖艶に光る黒い瞳を見つめると、吸い込まれてしまいそうになる。
目を瞑ると、その後には彼からの熱を口から与えられ、翠は溺れそうになる。
苦しいけれど甘いキスは、翠が好きなものだった。
翠は寂しさを癒し、好きな人の熱を偽りでも感じるために。
色は憧れの人の変わりに利用しているのかもしれない。
それでもいいと思ってしまう自分を呪いながら、翠はキスを求め続ける。
しばらくすると、ゆっくりと色は体を離した後、腕を翠から離して何かをしていた。
カチッと音がした方を見ると、スープが吹き零れそうになっていた。
「早く食べたい………。」
「……え?」
熱をもった言葉でそう言われて、翠は思わずドキリとしてしまう。
「夕食、待ってる。」
「…………あ、はい。」
返事をすると、そのまま色はリビングへもどってしまう。
色の温かい熱がなくなってしまい、寂しくなりながらも、自分が何を求めて勘違いをしたのか。
恥ずかしさと、先ほどの余韻のため、立っていられなくなり、翠はその場にストンと座り込んでしまった。
翠が料理を再開出来たのは暫く経ってからだった。
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