13話「大人の男は」
13話「大人の男は」
7月に入ると、翠は1日が終わる度にため息をついていた。
色に会えない日、少しでも彼に役立ちたいという気持ちからギリシャ語の勉強をし続けていた。それは、夜中になってもそれは続いていた。
というのも、色の事を想ってはボーッとしてしまう事が多いのだ。
考えてみれば、料亭と車の中でしか会えない関係。これこそ隠れて会っている愛人のようだと思ってしまった時は、さすがに翠も切なさがピークになった。
それでも、会いたいと思い続けてしまう自分が、翠自身も信じられないく、そして、彼への気持ちが大きすぎる事を実感していた。
「で、寝坊ですか……….。」
「本当にすみませんでしたっ!」
「オープンに間に合ったので良かったですが。朝礼に出れなかったのはやはりダメですね。何か言い訳はありますか?」
「ありません………。」
約6年働きいているが、翠は初めて寝坊をして、その日の朝礼に間に合わなかった。
スタッフからは「珍しいね。体調悪かったの?」と心配する声がほとんどだった。夜中までギリシャ語の勉強をしていたとは言えず、謝罪をし続けた。
そして、もちろん岡崎店長からの注意も受けてしまった。また、2人きりになってしまい、翠は少し気まずい気持ちになった。
実は岡崎に好意があると言われてから、毎日のようにこっそりとアピールをされるようになっていたのだ。お菓子をもらったり、残業帰りに家まで送ってもらったりしていた(もちろん、歩いてだけれど)。触れてきたり、何度も告白されたりはなかったけれど、今まで以上に仕事中に話すことが多くなっていた。
岡崎は上司としても、年上の男性としても憧れる事があるし、尊敬している先輩だった。女性スタッフの間でも人気のある上司で、告白したいけど、結婚しているから、という人もいたぐらいだった。
その岡崎が離婚していたのも驚いたが、まさか自分に好意を寄せているとは思ってもいなかった。
尊敬できる先輩からの気持ちは、正直嬉しい。
もしかしたら、色とこのような関係にならなければ、誘いを受けていたかもしれないとも思う。
だが、今の翠には大好きで大切な彼がいる。それは変わるはずもなかった。
なので、岡崎にはやんわりと断っていたが、なかなか諦めてはくれなかった。
「これから気をつけます!!」
「初めての事なので、今回は注意だけにしておきます。」
「ありがとうございます。あと、オープン前の掃除を岡崎店長がやっていただいたと聞きました。すみませんでした。」
「あぁ……それぐらいは大丈夫ですよ。いつもやってもらってますからね。」
二人きりという状況で思わず構えてしまうけれど、今日も変わらない賑やかな微笑みなのを見て、翠は安心していた。
けれど、大人の男性は油断ならなかった。と、思い知ることになってしまう。
「では、お礼はデートにしてもらいましょう。」
「で、デートっっ!?」
思いもよらない提案に、翠は思わず大きな声を出してしまう。まだ、個室だから良かったが、他のスタッフに聞かれてしまうのではないかと、翠は焦って自分の口を手で塞いだ。
それを見て、岡崎は楽しそうに笑っている。
「岡崎店長、笑い事じゃないですよ!私、好きな人がいるってお話ししたじゃないですかっ!」
「そんなに固く考えなくていいですよ?仕事帰りに食事にいきましょう。それぐらいもダメでしょうか?」
「…………岡崎さん。」
「やはり10才も年上のおじさんはダメですかね。」
寂しそうに言う岡崎さんを見ては、断ることも出来ず、翠は「わかりました。」と返事をすることしか出来なかった。
翠は、大人の男性は怖いと最近の出来事で強く思ったのだった。
★☆★
その日の色は、自分でも不思議なぐらい、気が立っていた。出社して挨拶をしてくる社員達も、すぐにそれに気づいたのか愛想笑いをしてくる。
普段は社員に厳しくあたっている事も多いが、指導者としての素養や力量、統率力が高く一目置かれる存在だった。そのため、社員は色を憧れており、厳しいからと逃げ出すことはなかった。
だが、やはり怒られるのは誰でも怖いもので、機嫌が悪そうな時は、上手くかわして逃げるのが暗黙の了解だった。
他人と話すのも苛立ってしまうので、色にとっても都合が良かった。が、一人だけ例外がいた。
「冷泉様、おはようございます。」
「………あぁ。」
社長室に入ってきたのは、秘書の神崎綾音だった。
今日もパンツスタイルかと思ったが、最近は黒のタイトスカートが多く、今日も同じものだった。
秘書の神崎には、1日のスケジュールなどを読み上げる、などの仕事はさせておらず、必要な時に仕事を頼んでいた。資料の作成や出張の手配の確認、取引先への連絡などだった。
「用件はなんだ。」
「今日の夜の予定を聞かせてください。」
「………変わらない。料亭に行く。」
「…かしこまりました。」
それだけを確認したあと、神崎は一礼して退室しようとしたのを、「神崎。」と呼んで引き留めた。
苛立っている事もあり、気がつくと今まで聞かなかった話を彼女に問いかけていた。
「おまえだな、翠に変なこと言ったのは。」
「………何の事でしょうか?」
「しらばっくれるなよ。お前しかいないんだよ、あんな事を吹き込むのは。」
「…………わかりません。」
何があっても話そうとしないようで、意思の強い瞳で睨むように色を見つめていた。
神崎は、何故かギリシャ語を習うのを最期まで反対していた。家庭教師をつけたからといって、仕事を疎かにした事もなかったし、体調を崩したわけでもなかった。確かに、寝不足にはなってきたが自分が好きでやり始めた事なので全く苦にならないし、むしろ充実していたと言える。
だが、こいつのせいで翠が余計な心配をして、更にはややこしい事になってしまった。
もちろん、俺があやふやな態度をとっていた事が問題なのはわかっていた。
だが、神崎が何も言わなければ家庭教師の回数を減らす事にもならなかったし、翠があんな事を言わなかったかもしれないと思うと、どうしても苛立ってしまうのだ。
そして、翠と他の男が出掛けている姿を見る事はなかったはずだ。本当ならば、料亭で過ごす時間だったはずなのだ。
昨日の夜、急遽取引先へのとのお食事会があり、そこへ向かう途中、翠を街中で見かけた。いつもよりラフな格好をしており、隣には見たことがある男性がおり、有名なレストランに入っていくところだった。
すぐに翠の職場の店長だと気づいたが、妙にその様子がひっかかったのだ。
あれはただ仕事帰りに食事に行っただけなのか。それとも、あの男と交際しているのか。
翠が付き合っている男がいるのに、色に告白したりキスをせがんだりする女だとは思っていない。
だが、モヤモヤがとれないのだ。
(あんなに俺と会うときに嬉しそうにしてるのに、他の男と出掛けて笑ってるのかよ。)
自分はあいつを振った男なのだから、こんな事を思う資格さえもない。彼女を束縛する権利のない男なのだ。
それなのに、どうして腹立たしいのか。
色は自分の気持ちが理解できなかった。
「今度あいつに余計なことを言ったら、俺の秘書にならなくてもいい。」
「っっ…………失礼します。」
色の言葉を聞いて、神崎は初めての顔を歪ませた。そして、顔を真っ青にさせて部屋から出て行った。
「部下に当たるなんて、最悪な男だな。」
静かになった部屋で、一人呟いたまま顔を手で覆い、ゆっくりと目を瞑った。
いつもならば、キラキラとした太陽の光の中を笑顔を見せる女を思い出す。それは、自分にとって大切な思い出であり、会いたいと願う人だった。
だが、最近では彼女の顔が出てくるのだ。
綺麗な金髪に碧色の瞳、そしてコロコロと変わる愛らしい顔。
笑ったり、泣いたり、怒ったり、そして恥ずかしそうにしながらキスを求める艶のある顔も。
「ったく、俺はいったい何がしたいんだ………。」
大きくため息をつきながら、しばらくの間、仕事を忘れて一人考え込んでいた。
彼女との関係は、もうすぐに終わってしまう。タイムリミットは目前だった。
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