療養便り

文野麗

メロディー時計

 目が覚めて現実と対面した。興醒めだ。長い間現実は夢より気楽なものであったが、この頃は目覚める度に苦悶する。

 二階の自室を出て、一階に降りてきた。朝の支度をしなければならなかったが、倦怠感に苛まれた私は茶の間に腰を下ろしてスマートフォンをいじっていた。

 やがてそれすら怠くなった。だらしなく横になって天井を眺めた。

 家には私の他に誰もいなかった。ごく静かであった。ときどき隣家の住人の話し声が聞こえるだけであった。

 変わらない現実が苦しかった。どうにもならないことを頭の上に乗せたまま降ろせない。様々な思いが去来した。苦悩した痕跡をもう一度なぞっては痛みを思い出した。答えが出るはずのない問題に延々と囚われている。


 私が苦しみとの何度目かわからない睨み合いを行う間も景色は全く変わらなかった。醤油色の古い天井に箸に似た梁がかかっている。電灯の紐すら微動だにしない。

 ふと、壁掛け時計が目に入った。時刻は二十分近く進んでいる。直せばいいものを、父曰く、時間にルーズな母がその進んだ時刻を元に支度をするから直せないのだそうだ。おかげで私にとっては全く役に立たない、鴨居の飾りと化している。

 そこまで考えたところで、この時計がメロディー時計であることを思い出した。文字盤の下に四つのベルと小さな人形があって、時刻ぴったりになると人形がベルを叩き、決まった曲が流れるというもの。その機能はずっとオフにしてあるが、ボタンを押せばいつでも鳴る。

 あれを鳴らしてみるか、と思い立った。

 何年も鳴らしていないが、果たして鳴るだろうか。

 時計の一番下についているボタンを押した。するとすぐに可愛らしい音が鳴り出した。この時刻はパッヘルベルのカノンの出番だった。無邪気で屈託のない呑気な演奏だった。持ち主はずっと忘れていても、時計の方ではいつでも奏でる準備をしてあるのだ。ずっと出番を待っている。

 なんだか心に沁みた。

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