怪談の季節…入院中の出来事をひとつ。

---実話です。


 

 あれは入院して2週目の出来事だった。

 私は入院病棟の7階の、奥から2つ目の病室に入院していた。そこは4人の患者用の相部屋で、同室には癌患者2名と、私と同じ膠原病患者が1名いた。私を含む全員が女性で、年齢は40代から70代。皆静かに淡々と治療に励んでいた。

 ナースステーションから最も遠い一番奥の病室には男性患者しかおらず、女性患者としては看護師の目から一番離れた病室に私はいた。病棟は奥に行けばいくほど、暗くなる。廊下の電灯はもちろんあるが、ナースステーションやそこに隣接した談話室の光はもう届かない。

 光だけではない。

 看護師同士が話す声も、私の病室には届かない。他の病室に比べ私の病室は、夜は暗くとても静かであった。

 入院する二日前から、私の病状は急速に悪化していた。

 歩行困難、食欲減退。ベッドに寝そべり寝返りをうつことも難しく、かつ両足の付け根から膝にかけての痒みが酷い。鉛のように重く感じる両腕を懸命に動かし、太ももをゴリゴリと懸命に掻いた。

 入院当日から1週間かけて、体のあらゆる検査を行った。病名の特定と、既に癌などを患っていないか確かめるためである。その間は治療は行えない。来る日も来る日も検査を行い、7日目に膠原病の皮膚筋炎ということが確定してステロイド投与が始まった。

 プレドニン(ステロイド薬剤)50㎎の摂取。数週間様子を見て、計画的に減薬していく。

 入院2週目。投薬開始から数日。

 私の体は頭の先から足の指の先まで、まるで鎖かたびらで覆われているかのように重く、動かない。それがまさに病気の症状なのだが、急激に筋力が失われるため、とにかく体が動かせない。

 看護師が、体は痛くないかと聞いてくる。

 痛いよりも重くて重くて、等身大の鉄の塊をまとっているようだった。

 そこへ、この病気の特徴的な別の症状である痒みが加わる。


 ガサッ、ガサッ。

 ボリッ、ボリッ。

 消灯時間を過ぎて、電灯を消された病室に、シーツが擦れる音と体を掻き散らす音が低く響く。

 ガサッ、ガサッ。

 ボリッ、ボリッ。

(ああ、重い。なんて重い体……)

 深夜はとうに過ぎ、落下防止の柵が設置された窓越しに、曇り空が見える。

 月は暗く、地面は遠い。

 この同じ景色を、これまで何人の病人が見てきたのだろう。

 中には2度と違う景色を見ないで終わってしまった人もいるかもしれない。

 ここは病棟の上層部に位置する。

 上に行けば行くほど、難しい病気、つまりは亡くなる可能性が高い患者が入院しているという噂を聞いた。

(痒い、かゆい……)

 爪を立て、赤く線が付くように皮膚を引っ掻く。

(重い、おもい)

 寝返りを自由にうてないことが、こんなにも不快なものだとは知らなかった。

(せめて眠れれば)

 うつらうつらとはしている。

 けれど眠りに落ちることができない。

 それは病状のせいでもあり、慣れない病院のベッドのせいでもあり、ステロイドの副作用のせいでもあるかもしれなかった。

 何も考えないように、頭の中に真っ黒な景色を思い描く。黒くて何もない空間。注射器の先端も、笑顔の看護師の顔も、何も考えないように墨汁を頭の中に垂らしていく。

 頭の芯が沈む。

 ああ、やっと眠りかけている。

 体の力が抜け、周りの音が消える。

 覚醒と睡眠の狭間。

 規則的な寝息。

 自分は半分眠りについているのだという自覚がある、奇妙な時間。



(……?)

 手が触れる感触。

 温かくも冷たくもない手のひらのざらつきを、左足首に感じた。

(何故)

 消灯時間をとうに過ぎたこの時間に、何故私の足首が誰かに捕まれているのか。

 定期巡回中の看護師?

 巡回中に患者の足首をつかむ看護師などいるだろうか?

 もしいたとしても何のために?

 私の体は既に眠りに落ちている。

 体が動かない。

 目を開けるんだと、頭の中で繰り返す。

 私の意志に背いて、目は開かない。

 目視確認はできないが、肌を触れる感触だけは変わらずに伝わってくる。

 おそらく、女の人の手だ。

 子供ではない。

 ある程度の大きさと、細い指。

 大人の女性のてのひら。

 ぎゆっ。

 力を込められた。

 私の左足首が、確実につかまる。

 瞬間、瞼が開く。

 咄嗟に視線は左足首へ。

 足元には誰もいない。

 ベッドを仕切るカーテンも閉じたまま。

 誰もいない。

 足首を握る感触もない。

 何も、ない。



 幽霊、だったのだろうか。

 それともただ寝ぼけていた?

 薬の副作用で幻覚が現れた、ということかもしれない。

 わからない。

 知らない。

 しかし、感じた。

 私の左足首は、誰かにつかまれていた。

 怖いか。

 わからない。

 ただ、非日常的な体験をした。

 それだけ。

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