怒り! 怒り! 怒り!

新田五郎

1話で完結しています

[chapter:主な登場人物]


・加藤拓馬 普通のサラリーマン。三十代前半。

・加藤香代子 拓馬の姉。離婚して実家に戻ってきている。

・井出秀明 拓馬が自転車ではねてしまった人物。



[chapter:1]


 自動車事故なら、ここまで大事にはならなかったと思う。

 深夜二時頃、加藤拓馬は、自転車で人をはねてしまった。

 今となってはわざと突っ込んできたとわかるのだが、そのときは気が動転しており、そこまで気づかなかった。

「痛い……痛い……」

 拓馬の自転車にはねられた男は、路上に投げ出され、ひざを押さえてのたうち回った。

「大丈夫ですか!?」

 救急車を呼ぼうかと思ったが、はねてしまった男にそれは止められた。そこまでのことはない、という。

 しかし、とても大丈夫そうには見えない。男の右ひざから、血が流れ出ていた。

 この時間では、病院も薬局もやっていない。

「肩を貸しますから、少しでも歩けますか? 数分で自宅に行けるんで、そこで手当させてください」

 そう言うと、男は無言でうんうん、とうなずいたので、拓馬は肩を貸して自宅まで戻った。

 自転車はそこに置き去りにせざるを得なかった。翌朝、取りに行った。

 このときに、気づくべきだった。あれほど痛がっていたのに、男は拓馬が肩を貸したら、意外にひょこひょこと、歩いたのである。

 歩きながら、男の名は井出秀明だ、ということがわかった。つい最近、この近所に越してきて、コンビニに行く途中だったという。住んでいるアパートは歩いて二十分くらいのところにあるということだった。

 拓馬もコンビニに行くつもりで自転車を走らせていたのだが、もはやそれどころではない。


[chapter:2]


「まあ、どうしたの!?」

 拓馬が井出秀明を連れて家に帰ってくると、すでに眠っていた姉の香代子が出迎えてくれた。

 拓馬と香代子の姉弟には、すでに両親はいない。香代子は一度結婚したが離婚し、数年前に家に戻ってきていた。

 拓馬が事情を話すと、香代子は二人を居間に連れて行き、救急箱を持ってきて、井出秀明と名乗った男のひざを簡単に手当てした。

「どうもすみません」

 井出秀明は、素直に礼を言った。拓馬は明るいところで、やっと彼の顔をよく見ることができた。年齢は彼と同じくらい、三十そこそこか。かなり整った顔立ちをしていた。イケメンと言っていいだろう。

「歩けますか? 歩けるなら一度帰っていただいて、明日、時間があるなら二人で警察に行きましょう」

 拓馬はそう言った。なんだか、いきなり示談を持ちかけるのもずうずうしいような気がしてしまっていた。拓馬が警察、と言う言葉を(反省しているという意味で)持ち出せば、井出秀明は示談に応じてくれるというように、何となく思っていたのだ。

「いえ、いいですよ警察なんて。明日、病院に行きますから、治療費だけは出してください。ただ、今はアパートまで歩くのはちょっと無理そうです」

 井出秀明は、包帯を巻かれた右ひざを抱えて言った。

「拓馬、今日は泊まっていただいたら?」

 お人好しの香代子が、そのように言い出す。そんなだから、姑とうまくいかなかったんだよ……と拓馬は思ったが、もちろん口には出さない。そして、ここは姉に同意した方が良いと思われた。

「そうだね、そうしてもらおう。蒲団を持ってきます。この居間で申し訳ないですが、ここで朝まで寝ていてもらえますか?」

 井出秀明は、最初こそ謙遜していたが、最終的には拓馬と香代子の提案を受け入れた。

「あの……その前に」

 井出秀明が、申し訳なさそうに言った。

「何です?」

 拓馬が問う。

「この、床の間……っていうんですか? そこにある人形、というか『像』ですか、ずいぶん立派なものですね」

 井出秀明は聞かずにはいられなかった。彼が運び入れられた「居間」には、通常より奥行きのある、特注の床の間のようなものがあり、そこに巨大な「像」が椅子に腰かけて座っていたからだ。もしも立ち上がったら、身長二メートル以上はあるだろう。

 プロレスラーのようながっしりした体格をしている。服はボロボロだが全身を覆っており、顔の部分にも布がスッポリ、かぶせてあった。

 片目の部分だけ穴が開いていたが、中は暗くてどうなっているのかわからない。

 そして、この巨大な「像」の向かって右側には、あやしげな文様の入った木箱が置いてある。もちろん、秀明から見れば用途不明である。

 居間の中に入った者には、イヤでも目につく不気味な「像」であった。


[chapter:3]


「え、ああ、これですか?」

 拓馬は、井出秀明に聞かれてあからさまにイヤそうな顔をした。

「気にしないでください、と言っても無理かとは思いますが、まあやっぱり気にしないでください。重くてここから移動できないもんで」

「何か、いわれがある像なんですか?」

 井出秀明がさらにたたみかけると、拓馬と香代子は顔を見合わせた。

「亡くなった両親が残したものですよ」

 拓馬はそれだけ言った。井出秀明も、それ以上のことは聞かなかった。

 翌日、拓馬は多忙の中、会社を休んで井出秀明を病院に連れて行こうとしたが、思ったよりひざが痛くて歩けないという。

 困り果てたが、姉の香代子が「一日くらい、安静にさせてあげたら?」と言ったので、待つことにした。緊急というほどでもないので、拓馬も救急車を呼ぶことははばかられた。また、彼を病院まで運べる乗用車も、彼は持っていなかった。

 一度休むと連絡した会社に行くのもバカバカしくなり、拓馬は井出秀明の様子を見ていた。どうやら姉の香代子は、秀明にひと目ぼれしてしまったらしい。必要以上(と、拓馬には思えた)にかいがいしく、彼の世話をしている。

 その翌日、加藤拓馬は出社した。その間に、井出秀明は香代子のつきそいで病院に行ってきたらしいが、再び拓馬と香代子の家に戻ってきて、長居を決め込んだのには拓馬は驚いてしまった。

 どうやら、姉の香代子が井出に惚れてしまったらしいのだ。

 結局、井出秀明のケガはたいしたことはなく、安い治療費で示談は成立した。しかし、彼が居間から出ていくことはなかった。

 香代子が強く引き留めたからである。

 どうも井出秀明という男、生来のモテ男のようだった。しかも姉の香代子は離婚して、家に戻ってきていてさびしい時期だ。彼女はあっという間に、井出秀明のとりこになってしまった。


[chapter:4]


「秀明さんにね……。『はなれ』を借りてもらおうと思うの」

 二日か三日経った頃、香代子は拓馬に切り出してきた。

 「はなれ」というのは、拓馬と香代子が住んでいる家とは別にある、かつて祖父母が住んでいた家のことである。木造平屋で、古い家だが、敷地面積は広い。そして、借家として人に貸すこともある。今は前の住人が出て行って、空いていた。

「姉さん、家賃の交渉とかはちゃんとできているの? それに、不動産屋を通さなくてもいいのかね? トラブルになったとき、収拾がつかなくなるよ」

 拓馬は、香代子に警告めいたことを言った。どうも話が急すぎる。

「そのことなら大丈夫よ。秀明さんは、いろいろ手広くやっている実業家らしいの。今のアパートが手狭になったから、ちょうど引っ越したいと思っていたところだって」

 香代子の顔は、恋する乙女のそれだった。拓馬は、もしかして井出英明は、香代子とすでに肉体関係を持っているのではないか、と疑ったが、肉親のそういう部分を追求することに嫌悪感を感じ、姉を問いただすことができなかった。

 それに、まさか身体の関係が生じたからといって、姉が男の言いなりになると考えたくなかったのだ。

 拓馬が、なおも反対意見を言おうとして口を開きかけたとき、彼の携帯が鳴った。

 彼の勤める会社からだった。

 その頃、拓馬は会社で大変面倒な案件を抱えていた。これで失敗したらクビになりかねない。すぐに会社に行かねばならず、なしくずし的に井出英明は、「はなれ」に住むことになってしまった。

 仕方なく、家賃、敷金、礼金ははっきりさせ、不動産屋を通して契約書も秀明に書かせた。

 井出英明は、素直にそれらに応じた。


[chapter:5]


 それから数日後、拓馬が会社から帰ると、両腕にタトゥーの入った明らかにヤバそうな男と家の前で鉢合わせになって、驚きのあまり声をあげそうになった。

「ああ、あの人は秀明さんのおにいさんの、トモアキさんよ」

 姉の香代子は、こともなげに言った。

「トモアキさんも、家を探していたんですって。あの『はなれ』は、二人で住むくらいがちょうどいいし、秀明さんの兄弟だから問題ないと思って、同居を了承したの」

 トモアキ、となぜか名前がカタカナ表記のこの男は、秀明の兄であり、明らかにカタギの人間ではなかった。拓馬にはイヤな予感がしたが、香代子が了承し、すでに賃貸契約が住んでしまっているものを追い出すことはむずかしかった。

 「はなれ」の賃貸に関しては、拓馬と香代子、どちらかがリーダーシップを取っているということがもともとなかっただけに、姉の香代子を強く非難することもできない。

 トモアキは、半日後くらいに、拓馬のもとに挨拶に来た。横柄で、口にずっと薄笑いを浮かべ、挨拶の最中にも手に火のついたタバコを持っていた。

 簡単に言えば、不快きわまりない男だったということだ。顔は秀明に似ていたが、ケンカのせいなのか何なのか、鼻がつぶれていて、顔が傷だらけだった。


[chapter:6]


 さらに数日経った。

 ある日、拓馬が会社から帰宅すると、「はなれ」の方から数人の奇声が聞こえてきた。

 何かと思って行ってみると、秀明、トモアキ、それに観も知らぬ若者たちが大音量で音楽をかけながら、「はなれ」前のそこそこ広い敷地で大騒ぎしている。明らかに全員、酒が入っていた。

「あの……。ここ住宅街なんで、もう少し静かにしてくれませんか?」

 拓馬は、騒いでいる若者たちに恐怖心を抱きながら、「はなれ」の借主であるトモアキに注意をした。

「こっちは香代子さんから許可をもらってるんですよ。文句があるなら、香代子さんに言ったらどうですか?」

 トモアキではなく、弟の秀明の方が、からかうような口調で拓馬にそう言った。拓馬はすぐに家に行き、香代子を探した。

 彼女は、居間にいた。

 テーブルに顔を突っ伏している。

「姉さん……。困るじゃないか。このままじゃ、隣近所からクレームが来るよ」

「そうね……。姉さん、間違っていたようね」

 香代子が顔をあげると、顔が涙まみれになっていた。

「何があった!?」

 拓馬は、そうたずねたが、おおかた予想がついていた。「はなれ」前の敷地には女性も何人かいた。おそらく秀明かトモアキのオンナだろう。香代子は、自分が遊び道具にされたと気づいたのに違いない。

 しかし、香代子だって最初は遊びだったはずで、両者の思い入れが結果的に、いちじるしく違ってきことから起こった悲劇だとは言えるかもしれない。

「拓馬、どうしよう」

 香代子に泣きつかれた拓馬は、なるべく穏便に済まそうと、警察を呼ぶ前に不動産屋に電話したが、何回電話しても不在だった。直接たずねて行っても担当者はおらず、他の社員たちも冷淡だった。

 もしかしたら、秀明兄弟に脅かされているのかもしれない。拓馬はそう思った。


[chapter:7]


 さらに数日経つと、秀明とトモアキの両親が家にたずねて来た。

 会社勤めの拓馬に合わせたと言い、彼が帰宅してからの、結構遅い時間であった。

 腰の低い老夫婦で、新幹線に乗って遠方から「はなれ」の敷地で息子たちが騒いだことについて、おわびに来たという。菓子折りを持参してきて、拓馬と香代子は平謝りに謝られた。

 姉弟は「居間」でこの両親に会い、「何かおおげさだな」と不審に思ったが、結局は謝罪を受け入れた。

 が、二人はなかなか帰ろうとしなかった。

 そして、最後には「帰りの新幹線がないから泊めてくれ」と言う。拓馬と香代子は、老夫婦を邪険にするわけにも行かず、「居間」に布団を敷いて泊めさせた。

 「はなれ」で騒いでいた秀明、トモアキの友人連中は帰って行ったが、結局、知らない老夫婦を家に泊めるハメになってしまった。


[chapter:8]


 翌日も、老夫婦は帰らなかった。二人は口々に、あそこが痛い、ここが痛いと言って拓馬と香代子を困らせた。

 そのうちに老夫婦の兄とか弟といった連中がやってきた。彼らは整体師だとか自然食品の販売員だとか名乗っていた。しかし、外見からしてまともな商売をしているようには、拓馬にも香代子にも思えなかった。

 老夫婦は「彼らの整体でないとダメだ」とか「彼らの持ってくる自然食品でないと食べられない」などと言った。

 そのうちに、彼らの妻たちなどがなぜかやってきた。拓馬と香代子の家は、あっという間に彼らに占拠されてしまった。

 香代子が「まともな病院に行った方がいいのでは……」と提案しても、老夫婦は頑として受け入れなかったし、他の者たちは「我々の整体や食品が信じられないのか」と抗議した。

 秀明とトモアキにも相談したが、「両親がああなっては、おれたちには手のつけようがない」と、あまり申し訳なくなさそうに言うだけだった。

 そのうち、いったん帰っていった秀明とトモアキの友人たちも戻ってきて、「はなれ」での大騒ぎが再び始まった。

 拓馬はその段階でようやく、警察に相談に行った。近所の交番である。

「いきさつを聞いていると、すぐには動けないねえ」

 話を聞いていた警官は、ニヤニヤしながらそう言った。どうして「すぐには動けない」のか、拓馬には理解できなかった。後から聞いたら、トモアキから賄賂をもらっていたらしい。

 相変わらず拓馬は激務であり、家が大混乱になっていても、簡単に動くことができなかった。なにしろ、彼が会社をクビになってしまったら、同居している姉も生活できなくなってしまう(香代子は、現在無職だった)。

 しかし、家に帰ると香代子が大人数の食事の支度で大わらわになっている。

 なぜ、一方的に家に入り込んできた秀明とトモアキの親戚や仲間たちに食事をつくらなければならないのか。しかし、一人で家にいなければならない香代子にしてみれば、その恐怖心から、従属せねばならないと思い込んでしまっていたのだろう。

 しかも、どうやら彼女はまだ秀明に未練があるようだ、と弟の拓馬は感じていた。

 そうした「情」を残しているため、香代子は彼らに振り回されることになってしまっていたのだろう。

 家を占拠した者たちは、だれもがわがもの顔にふるまっている。拓馬は深い憎しみを感じたが、仕事も忙しく、何か決定的なこと(たとえば家の中のものを盗む、破壊する、姉に暴力をふるう)などが起きなければ、動きづらい状況にもあった。

 拓馬は、焦りばかりを募らせていった。


[chapter:9]


 そうして、だいたい一週間くらい経った頃だろうか。

 会社から帰宅した拓馬は、井出英明に自宅の「居間」に呼び出された。

 「居間」に入ると、秀明の隣には姉の香代子が正座して座っていた。うつむいていて、表情がわからない。

 英明とトモアキのうるさい友人連中は、「はなれ」からみんな帰った後だったが、老夫婦の親戚連中などは、家の方にまだいた。そして全員居間に詰めかけていて、秀明と香代子を取り囲むようにして座っていた。

 その中には、兄のトモアキもいた。

「拓馬くん。私と香代子さんは、結婚することになりました。よろしくお願いしますね」

 英明は涼しい顔で、そう言った。拓馬は驚くばかりだった。

「え……。姉さん、本気なのか?」

 拓馬が秀明とトモアキを嫌っていること、彼らが呼び入れた親戚連中について迷惑がっていることは、その場にいる全員(香代子も、当の親戚連中も)が知っていることだ。

 香代子は下を向いたまま、コクリとうなずいた。そうか、一度捨てたように見せて、秀明はもう一度香代子にアプローチしたのだろう。それに姉の香代子は飛びついたのだ。

 秀明というのは、そういう心理操作に長けた男なのだ。

「そういうわけで、今度盛大に結婚披露宴をやろうと思うんです」

 秀明はぬけぬけとそう言った。兄のトモアキはそれを見ながら、ふくみ笑いをこらえている。いかにも小馬鹿にしたような笑いだった。

 拓馬は、この結婚が姉の財産目当てであることを、瞬時に見抜いた。

 もともと「はなれ」は、香代子の持ち物なのである。家屋は築三十年以上経っていて何の価値もないが、土地は売れば結構な値段になるだろう。

 もしかしたら、最初からそれが目的で、秀明は拓馬に近づいたのかもしれない。

「披露宴の資金は、香代子さんの貯金から全額出してもらうことになったから、拓馬くんの手をわずらわせることはありませんよ。安心していてください」

 秀明はそう言いながら、香代子を抱き寄せた。優柔不断な姉に拓馬は怒りを感じたが、それよりも秀明の方が一枚上手だったと思わねばならない。もともと、自転車事故にあった彼を自宅に引き入れたのは、拓馬自身なのだ。

 こんなやつに「はなれ」を取られてしまうのか……。そう思って拓馬が歯がみしていると、床の間に座っていた巨大な「像」が、突然叫び声をあげた。


「ウオオオーーーーーーーーーッ!!!!!!!!!!!!!!」


[chapter:10]


 その場にいる者全員が、床の間の方を向いた。ぼろきれをまとった「像」は不意に立ち上がった。大方の予想どおり、身長は二メートル以上あり、天井に頭をぶつけてそこが凹んでしまった。

「ウオオオオオーーーーーーーーーーーーーーーーーッ! ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!!」

 ものすごい叫び声だった。

 それは「像」ではなく、まぎれもなく人間だった。

「オマエラ、ユルサナイ、全員、出テイケ!!」

 「像」はそう叫んだ。日本語は理解できるようだった。

「だめだ怒愚馬(どぐま)、暴れちゃいけない!」

 拓馬は必死に叫んだが、すべては後の祭りだった。

 怒愚馬(どぐま)と呼ばれた体長二メートル三十センチの大男は、特注の床の間から立ち上がり、飛び出して行って、居間の真ん中にある巨大なテーブルを踏み抜いた。

 そして大木のような両腕を振り回し、秀明、トモアキ兄弟の親戚連中や老夫婦などをめちゃめちゃにぶっとばした。

「やめろ、やめろってば!」

 逆上した怒愚馬には、拓馬の言うことは聞こえない。彼や香代子には危害が及ばないように注意しているようだが、それ以外の連中はすべてなぎ倒した。

 トモアキに関しては、首根っこをつかまえて、伸びた鋭い爪で、彼の腕のタトゥーを皮ごとひきはがそうとした。

「ギャアアーーーーーーッ!!」

 トモアキが恥も外聞もなく悲鳴をあげた。少女のような悲鳴だった。

 その後、頭頂部をつかんで大ぶりに振り回すと、トモアキを前方に向かって投げつけた。

 トモアキは「居間」の壁をぶち破り、外に放り出されて地面に激突し、気を失った。

 その間、怒愚馬は逃げようとする秀明をしっかり視界にとらえていた。

 彼はまず、秀明の右足を捕まえて宙づりにし、自転車事故でケガをした膝の部分を人差し指と親指で、万力のように締め付けた。

 みしみしという音が聞こえるかのようだった。膝のお皿は、両側からの怒愚馬の指の圧力で、砕け散った。

「ぐわあああああああ!!」

 次に怒愚馬は、宙づりにされてさかさまになった秀明の顔に、巨大な拳を無造作にめりこませた。ズンッ、ともボコッ、ともとれる音が聞こえたように、拓馬には思えた。

 この瞬間、秀明の鼻の骨は折れ、前歯も全損した。

 その後は、地獄絵図だった。怒愚馬は、秀明の足首を掴んだまま、スポーツチャンバラの棒のように彼を振り回した。秀明の親戚連中は我先にと逃げ回ったが、秀明の身体でことごとく強打された。

 秀明の身体がボロボロになると、怒愚馬は飽きたおもちゃを投げ出すように、彼を放り投げた。

 秀明は、天井に頭を激突させ、下に墜落したまま動かなくなった。

 怒愚馬は老夫婦にも容赦がなかった。というより、老夫婦は驚くほど機敏な動きを見せた。彼らは老人ではなく、変装した若者だった。おそらく秀明、トモアキの兄弟か親戚だろう。自分の役割も忘れて俊敏に逃げようとしたが、怒愚馬の巨体がふわりと浮かび上がり、そのまま二人とも、彼の強烈なドロップキックを背中に受けた。

 怒愚馬は、整体師も殴った。自然食品を販売しているという男も殴った。彼らの家族も蹴り飛ばした。

 家の中はめちゃくちゃになってしまった。

 その場にいる、拓馬と香代子以外は、全員怒愚馬の攻撃にさらされ、何もかもが終わった後には、だれ一人立ち上がれる者はいなかった。


[chapter:11]


 秀明は、近くの病院に入院した。

 兄のトモアキ、他親戚連中も全員、どこかしらの病院に入院したが、だれも警察には届けなかった。

 井出英明とその兄のトモアキ、そしてその親戚連中は、全員アウトローである。

 アウトローが警察の世話になるというのは、廃業し、カタギになるということだ。

 少なくとも、井出英明の周辺ではそういうことになっていた。

 だから、それはできなかった。

 一人、巡査で息のかかったやつが仲間にいるが、彼が今回の件で役に立つとは思えなかった。

 一度だけ、秀明の病室に加藤拓馬がやってきた。見舞いというわけではないのだろうが、いちおう花を持ってきた。

「……何なんですか、あいつは」

 歯がほとんどなくなった口で、井出英明は怒愚馬について、拓馬に問うた。

「弟だよ。本当に迷惑しているんだ、あいつには」

 拓馬はため息まじりに言った。

「あれは『像だ』と言っていたじゃないですか」

 秀明の問いは、もっともなものだった。しかし、拓馬の答えは冷淡だった。

「ぼくは『像だ』とはひと言も言っていないよ。『重くてここから移動できない』、『亡くなった両親が残した』と言っただけだ。あんたたちが勝手に『像』だと思い込んだだけだろう」

「……なんであんなところで、何日間も、まったく動かず……どうしてそんなことができる?」

 前歯のない秀明の言葉は、空気が漏れるような音も混じっていた。

「弟は昔から変わり者でね。最近は仙人になることを目指しているらしい。それで『不食』の修行をやっていたんだ。しかもほとんど体を動かさずにね」

「『不食』……? トイレとかはどうしていたんです?」

「『不食』だから一週間くらいはトイレに行かずに済んだらしいよ。それに、弟の傍らに、あやしげな文様の入った木箱が置いてあっただろ?」

「……ああ」

「あれの中身は、水だ。さすがに水なしでは生きていけないと思ったんだろうな。あんたらが見ていないところで、弟はあの箱から水だけは飲んでいたんだ」

「水……」

 あきれるほどバカげた話だ、と井出秀明は思わざるを得なかった。何度も出入りしていたあの「居間」の床の間の巨大な『像』が、本物の人間だったなんて……。

「こっちも調べさせてもらったよ」

 拓馬は「こっちのターンだ」とでも言うように、勢いづいて話し始めた。

「個人情報流出ってのは恐いんだな。ぼくの仕事が忙しくて家のことになかなか取り組めないとか、姉がバツイチでさびしがっていたとか、うちにそこそこの財産があるとか、ぜんぶ調べあげて自転車に当たりに行ったんだろ? ウチを乗っ取るつもりでね」

「しかし……あんなやつがいるという情報はありませんでしたよ……」

 そここそが、秀明とその仲間たちの最大の誤算だった。というより、想像の範囲外の出来事である。

 拓馬は、秀明を見下したような目で、こう言った。

「Every family has its skeleton in the cupboard.(どの家庭も戸棚の中に骸骨がある)」ということわざを知っているか。『どの家庭にも人には知られたくない秘密がある』ということだ。死んだオヤジにとって、弟の怒愚馬は恥だったようだ。何でかはわからん。とにかくやつは、幼い頃からあの家の地下牢で育った。まあ、普通家に地下牢があるなんて考えないよな。今は入れないように入り口もふさいであるし。やつの巨体は持って生まれたものだが、一週間の『不食』でも体力が衰えることがなく、おそろしい怪力を持っているのは、すべて地下牢から出ようとして十数年、一人で格闘したからだ。両親が死んだ後、怒愚馬は地上に出ることはできたが……というかぼくと姉が出したんだが……、今度は姉が家の外に出ることを許さなかった。そして姉が結婚して一時期、家を出たときにだけ、怒愚馬は『はなれ』に住んでいた。しかし、完全に外に出ることはなかった。彼自身がこばんだんだ。おそらく、外の世界が恐かったんだろう」

「……」

 秀明は、黙って拓馬の言葉を聞いているしかなかった。


[chapter:12]


 ある朝、殴る蹴るでボコボコにされた巡査が、路上で発見された。

 彼はアウトローとつながりがあることが発覚し、即座に免職となった。

 犯人は、最後までだれだかわからなかった。

 怒愚馬は、「仙人」になる修行のために、拓馬と香代子の家を出た。

 その後どうなったかは、だれも知らない。

(了)

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