春の祭典

位月 傘


 先生がわたしの前でピアノを弾かなくなって、1か月が経った。そして現在、直談判しに行く心の準備をし始めて、30分ほど経過したところだ。

 深呼吸をして、目を開ける。鏡の前の自分は、よし。どこもおかしなところはないし、おろしたてのワンピースは、少しだけ自分の童顔を誤魔化してくれる。

 小さなハンドバッグ――には楽譜が入らないので、黒いリュックサックを背負ってもう一度鏡の前に立って一回転してみた。ふわりと広がる裾に、気分が高揚する。一人でこんなことをしてるなんて、以前のわたしがみたら馬鹿にするかもしれない。それでも好きな人に会うのだから、これくらいの浮かれ様は、仕方のないことだろう。緩んだ頬を、ちょっとつねってみた。


 相も変わらず、不用心に鍵もかけられていない扉を開けて、勝手に上がり込む。呼び鈴を鳴らさず入っていいと許可はとっているので、不法侵入ではない、はず。流石にそのままにするには気が引けたので、内側から鍵をかける。

 真っ直ぐに防音室に向かって、早足で進む。重たい扉を開けると、ピアノに向かっている先生が視界に入った。すぐにこちらに気づいたようで、演奏していた手を止める。こういう時、心底この防音室の分厚い壁が憎らしくなる。もしくは、音を立てずに扉を開けられない自分に。

 いくつか年上の彼は、いつもの無表情を少しだけ崩した。こんなことで喜んでしまうなんて、なんて単純なんだろう。

「こんにちは、先生」

 照れ隠しの意味で早口でそう言うと、あぁ、とだけ返される。先生は無言で先ほどまで座っていたピアノの正面の椅子から立ち上がる。急かされている訳でもないのに、慌てて楽譜を取り出して譜面台に乗せる。そのまま私も椅子に座ろうとしてが、それを先生は私の背中を軽く押すことで制止する。

「えっ」

 驚いてきのあまり、見れなかった先生の顔にぱっと視線を向けてしまう。一方で先生はこちらを一瞥することもなく、床に片膝をつく。

「少し待て」

 どうやら椅子の高さを調節してくれてるようだ、と気が付いた。そんなことをさせる訳には、と思ったのに、その頃にはもう調整し終わったようで、近くの丸椅子に腰かけていた。

「ありがとう。でも今度からは自分でやるよ」

 そのくらいなら自分でもできるし、先生の手は所謂商売道具ってやつだから、うっかり怪我してほしくないし、と色々考えたけれど、結局出た言葉は簡素なものだった。

「……初めから一度通してみろ」

 わたしのどの気持ちも、きっとこんな言葉じゃ伝わらないだろうし、返事がない事はさして気にすることでもない。気にしてないとも。ただちょっと呆れてしまうだけ。

 言われるがままに鍵盤に手をかける。ほぼつっかえる事無く弾くことはできるけれど、それだけだ。プロを目指している訳でもないのに、自身の演奏に不満を持ち始めたのはいつからだろう。

 通し終えて、先生が口を開くよりも早く声を上げる。そうしないと、きっと先生の声に聞きほれてしまって、遮ることなんて出来ないだろうから。

「先生、先生が弾いてみてください。まえみたいに、手本をみせて」

「……基本は出来ている。ならば君自身で掘り下げるべきだ。私の模倣がしたい訳ではないだろう?」

「じゃあ、先生が弾いてくれたら、もうこの曲は弾かないから、いいよ」

 穏やかな昼下がりの午後が少しだけ冷える感覚に、声がかすれる。先生の眉間に皺が寄るのが見えて、機嫌がよくないことを視覚で感じ取る。怒っているわけではないようだが、それなら何がそんなにばつが悪いのだろう。

「馬鹿なことを言うな」

「先生こそ、変なこと言わないでよ。色んな人の演奏を聞きなさいって言ったのは、先生だよ」

「それは、プロの演奏の話だ。私の演奏ではない」

 そんなに聞きたいなら知り合いのピアニストを呼んでやる、と先生は言う。それでは意味がないのだと首を振った。

「じゃあ、この曲じゃなくったっていい。先生が弾いてくれるなら、なんだっていいよ」

「無駄なことだ。君は時間を浪費するために此処に通っているのか?」

 眉間の皺は深くなっているけれど、やっぱり声音には怒りは感じない。どっちかっていうと、焦ってる、みたいな。

「先生が言うの、音楽は無駄だって」

「――」

 ふと、眉間の皺が消える。しまった、言い過ぎただろうか。もちろん引くつもりはないけれど、罪悪感みたいなものが募るのは事実だ。慌ててごめんなさい、と頭を下げるが、返事はない。ちらりと上目遣いで覗き込むと、唖然としたような、どこか複雑な表情で呆けているようだった。

「――あぁ、失礼した。それは確かに、可笑しなことだ」

 かと思えば、今度は喉を鳴らしてくつくつと笑い出した。それは、何に対しての笑みなのだろう。少なくとも良い意味ではないだろうという事は、流石に理解できた。

「そこをどけ」

 先ほどまでの頑なさが嘘のような乱雑な言葉に、驚きと、不本意にもほんの少しだけ恐怖を感じてしまった。

「なにか、気に障ることしちゃった?」

「いいや、何も。君は何も、していないとも」

 退く暇もなく、大きな横長の椅子――わたしの隣に先生は腰を下ろした。なんの躊躇も予告もないその行動に、とっさに背中をそらして距離を取ろうとするが、わたしがバランスを崩すよりも速く腰を掴まれて、一層身体が近づく。身体が硬直したのは、いったい何が原因なのか、混乱する頭ではよくわからなかった。もっとも、その混乱こそが原因なのかもしれないけれど。

「君が、聴きたいと言ったんだ」

 わたしのせいにする、というより子供の言いわけみたいに聞こえたのは、惚れた弱みだろうか。真実は、ピアノの音でかき消されて、分からなかった。

 無知なわたしは、その曲を知らない。だから、音色が恐ろしく聴こえるのも、指一本も動かせなくなってしまったのも、果たして曲のせいなのか、演奏によるものなのかなんて、知らない。

 ぞわぞわと鳥肌が立ち、もう一秒だって聴いてられない。だけどここで先生を止めてしまったら、もう二度とここには来れない気がして、震える手を無理やり押しとどめる。

 突き放そうとする音は、昔からあって、今まで気が付かなかっただけなのだろうか。それとも、今だけ特別にそうしているだけなのか。ただどちらにせよ、先生が何かしらの強い感情――多分よくないものを鍵盤に落とし込んでいるということだけは、確かだった。

 細く息を吐いたところで、音楽がピタリと止められる。不自然なところで止められたそれは、終了したのではなく、途中で演奏を放棄したのだろう。

 何も言えないわたしを見透かしたように、先生は目を細めて、喉を鳴らす。

「手の届かないものに手を伸ばす愚か者の演奏は、さぞ気味が悪いだろう」

 そこでふと、彼は一度だけ、自身について零していたことを思い出した。確かそう、どうしてこの職業に就いたのか尋ねたのだ。そしたら一言、才能がないからだ、と返ってきた。元々そんなこと言うつもりはなかったのだろう、すぐに話はすり替えられて、雑談はレッスンにすり替えられた。あのとき彼はどんな風に言っていたんだっけ。自虐的に?怒りに震えて?悲しみに嘆いて?例えそのどれであっても、できる事なんて一つしかないのだから、いくら考えたって無駄なのだけれど。

「先生、わたしは先生のピアノが好きです」

「――は」

 それは驚きに漏れた声か、はたまた馬鹿にされたのか。わたしは知らないことだらけだ。それでも言葉を紡ぐしかない。音楽で伝えるには、まだ足りないものだらけだから。

「君はもうわかるはずだ。この音は嫌悪すべきものだと。怒りを振りかざすだけの雑音は、聴くに堪えないものだと」

 才能がない、とは自身で称しているだけなのか、他者からの評価なのか、それとも別の何かなのか。

 先生の顔を真っ直ぐに見つめる。まったく、なんでそっちが困った顔をするんだ。

「確かに怖いなぁって思ったよ、殺されちゃうかもなんておもった」

「それならば、」

「でもね、怖いからってそれだけで嫌いになるほど、わたしは無知でも博識でもないよ」

 これは持論だが、結局のところ、全ての物事は積み重ねなのだ。恐ろしいことが一つあっただけで、今までのことが嘘になるわけじゃない。全部丸ごと嘘になってしまうことがあるとしたら、それはただの思い込みに過ぎないだろう。

「先生のピアノがすきです。先生のことも、同じくらい大好き」

「君は、何か勘違いをしている。私はそのような好意を向けられるような人間ではない」

「この恋が本当に勘違いだったとしても、先生が返事をしない言い訳にはならないよ」

 わたしは、わたしの感情を常に信じている。それは間違えない事の証明にはならないけれど、どうしたって何も変わらない嘘を吐くよりは、あとになって後悔するかもしれないほうを選んでしまう。だから、わたしは酷く突然で、且つ当然の流れで好意を告げる。

「許せ。私は、この醜い感情を知られることが、拒絶されることが恐ろしくなってしまったのだ」

「……先生、わたしは先生のことが好きです」

 弱々しくこぼすその醜さとはなんなのだろう。苦しそうな彼を安心させるように、自己満足な言葉をありったけ吐き出す。まさか、どうして自分にはピアノの才が無かったのだろうと悔やむことになるとは。だって、そうしたらもっと明確に気持ちを伝えられるのに、なんて。

「演奏が好き、長い指が好き、ピアノの前だけ少し曲がる背中が好き、不機嫌そうな眉間の皺が好き、わたしよりうんと低い声が好き、教えてくれる時の真剣な瞳が好き――それで、わたしが先生の深いところを見たくらいで傷つくほど、弱いと思ってる先生が、すき」

 口にすると意志とは別に溢れてきて、安っぽく垂れ流される。難しい言い回しをすれば、一言で簡単に伝えれば、言葉の軽さは捨てれただろうか。ないものねだりをしたってどうしようもないけれど、この気持ちを余さず伝えられるなら、死んだっていいとすら思える。

「こんなに大好きなところがいっぱいあるのに、嫌いになんて、なれるわけないよ」

 だから、どうか振るならはっきりと、諦めがつくようにしてほしい。自身では抑えきれないほど膨らんだ恋情に、どうか終止符を打ってほしい。もとより玉砕覚悟で来たのだから、ちょっとは覚悟はできている。

「私は、ずっと見誤っていたようだな」

 心臓がすっと冷える。ほんとうは全然準備なんてできてやしない。時が過ぎるのを待つように、一瞬息が止まった。

「君は、そんなに強かったのか」

 弱々しさはどこにいったのか、というように男は感嘆する。度胸があるとか、そういうことだろうか。いまいち分からないけれど、先ほどまでの氷のような空気が消え去ったことに安堵する。

「ひとつ、訂正と白状をさせてほしい」

「うん?」

「君を弱いと思ってはいない。ただ、大切にしたかっただけだ。許しをくれるなら、これからも」

「それは――」

 どうしてこの男は、こうも簡単に言ってのけるのだろう。どうして、わたしをこんなにも揺さぶるのだろう。

 勘違いしてもいいのかな、勘違いではないのかな。驚きからか、ぼろぼろと零れ落ちる涙を掬われる。

「落ち着いたら連弾をしよう。あぁ、人と演奏するなんて、いつぶりだろうか」

 願わくば、いつかあなたの怒りが静まりますように。そのための生贄になら、わたしはなったって構わないのだから。

 

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