第二話

 その日の晩、リリィは眠れない夜を過ごしていた。

(日曜日にエリーゼさんに会う。……怖い)

 別段、エリーゼが怖い訳ではない。初めてダベンポートと王立芸術劇場に行った時、エリーゼは優しくしてくれた。わたしの拙い質問にもちゃんと答えてくれたし、微笑んでもくれた。

 じゃあ、何で怖いんだろう?

 この不安に押しつぶされそうな気持ちは、何?

「キキ、なんで怖いのかしら」

 ギューッとキキを強く抱きしめる。

「キュッ!」

 キキが悲鳴を上げる。

「うーん」

 リリィは自分でもなんでこんなに不安なのかを少し考えてみる事にした。

・エリーゼさん。たぶん、怖くない。

・セントラル。ちょっと怖い。

・一人でお出かけ。そんなに怖くない。

・失敗……

(そうか。わたし、エリーゼさんに何か失礼をしてしまうのが怖いんだ。それで叱られちゃったり、嫌われちゃったりするのが怖いんだ)

 旦那様がいればわたしが失敗してもフォローしてくれる。でも一人だとそれができない。それが怖いんだ、きっと。

 わかったからと言ってどうにかなる訳ではなかったが、何となく納得はした。この漠然とした不安感は何が起こるか判らない事から来る不安感なんだ。

 これに関しては明日旦那様に相談してみよう。旦那様ならきっといい解決法を教えてくれる。ひょっとしたら失敗しない魔法をかけてくれるかも。

(それよりも……)

 眠れないリリィの思考は他の方向へと浮遊した。

(何でわたしなんだろう?)

 なぜ、急にエリーゼはリリィを誘う気になったのか、それこそがミステリーだった。

 エリーゼほどの人ならお友達だってたくさんいるはず。バレエの劇団は大きい。中には気が合う人もいそうなものだ。

(直接聞くのも変だし……。うーん)

 答えのない問いをぐるぐるしているうちに、いつの間にかにリリィは眠りに落ちていった。

…………


 翌朝は少し眠かった。なんかずっと浅い夢を見ていた気がする。きっと寝たのは三時過ぎ、今日はもっと早く寝ないと。

 一晩寝て、だいぶん気分は落ち着いた。少なくとも怖い原因はわかった、気がする。だったら、失敗しないようにすればいいのかも知れない。

 リリィはエリーゼの事が好きだった。ファンだといってもいい。ダベンポートに買ってもらった額縁にサイン入りのブロマイドを納めて鏡の横に飾っているし、ダベンポートがおねだりしてもらってきてくれたサイン入りのトウシューズは大切に保管してある。本当は飾りたかったのだが、残念ながらダベンポートの家にそのようなものを飾る場所はない。


「おはよう、リリィ」

 ダベンポートはいつものように八時少し前に起きてきた。

「どうだいリリィ、少しは落ち着いたかい?」

 リリィの事を気遣って優しく訊ねてくれる。

「はい、少し落ち着きました」

 リリィはダベンポートのために椅子を引きながら答えて言った。

「昨日の晩、考えたんです。何で怖いのかなーって」

「ほう、それで? 何かわかったかい?」

 ダベンポートは興味を引かれたようだ。

「はい」

 リリィはこっくりと頷いた。

「わたし、たぶん失敗するのが怖いんです。エリーゼさんが恥ずかしい思いをするような服を着てしまうとか、何か嫌われるような事をしてしまうとか、怒らせてしまうとか」

「なるほど」

 ダベンポートは頷いた。

 なるほど、人間関係に臆病なリリィらしい答えだ。

 しかし、一晩でそこまで自分を分析するとは。

「ならばリリィ、答えは簡単じゃないか」

 ミューズリーにヨーグルトを注ぎながらダベンポートは言った。

「それなら、できる限り失敗しないように気をつければいいんだ。何、エリーゼは優しい人だ。そんなちょっとした事で怒るような人でもないとは思うが……」

「でも、その失敗がどういうものなのかまではイメージできませんでした。なんか、ぼんやりとした不安なんです」

 リリィはダベンポートのカップに紅茶を注ぎながらおずおずと言った。

「例えば合理服でエリーゼさんと並んでいいのかな、とかそういう事を考えると怖くなっちゃうんです」

「ハハハ、リリィ、おねだりかい?」

 ダベンポートは優しく笑った。

「い、いえ、今のは例えばの一つで、別におねだりとかじゃ……」

 すぐにリリィの顔が真っ赤になる。恥ずかしかったようで、耳まで赤い。

「いや、いいんだよ、リリィ。リリィがおねだりしてくれると僕は嬉しいんだ。それに、その不安が一番に出てきたって事は本当にそれが気にかかっているんだろう。いいよ、一着ドレスを買ってあげよう。今日は暇だから、夕方からセントラルに行こう。セントラルのデパートでちょっと素敵なドレスを探してみようじゃないか」


+ + +


 夕方早上がりすると、ダベンポートは魔法院の馬車を出してくれた。二人で馬車に乗り、田舎道をセントラルに向かう。

「でも、いいのですか?」

 律儀に黒いうさぎの毛皮の帽子をかぶったリリィがダベンポートに訪ねる。

「リリィ、サー・プレストンの蒸気自動車スチーマーレースの時に一稼ぎしたのは覚えているかい?」

「はい、覚えています」

 その時ダベンポートは賭け屋ブックメーカーでオッズ的に不利だったサー・プレストンにそれなりの金額を注ぎ込み、かなりの金額を稼いでいた。

「あのお金がね、まだだいぶん残っている。豪華なドレスを買ってもお釣りがくるほどだ。今日は一つドレスを選んで、美味しいものを食べて帰ろう。流石にオートクチュール注文服は無理だが、作りの良いブティックの服なら手が届くはずだ」


 ダベンポートと回る百貨店デパートは楽しかった。あのブティック、そこのブティック、綺麗な婦人服の飾られた売り場をダベンポートと歩く。

 リリィは真剣だった。渾身の一着。せっかく買って頂けるのだ。ちゃんとしたものを選ばないと。

 最終的にリリィはクリーム色のワンピースのロングドレスに決めた。襟の形や全体のスタイルも洗練されているし、これなら使用人には見えない。それに、クリーム色なら帽子にもリリィの外套マントにもマッチする。

 個室で試着してみたリリィに

「お似合いですよ」

 とお店の人が鏡を持ってきてくれた。

 トントントン。

 ノックの音と共にダベンポートが入ってくる。

「どうだい、リリィ? 気に入ったかい?」

「だ、旦那様、どうでしょうか?」

 少し赤くなりながらリリィはダベンポートに訊ねてみた。

「ふむ、似合うね。ちょっとぐるっと回ってごらん?」

「こうですか?」

 くるりと一回転。柔らかな生地のスカートが少し舞い上がる。

「ああ、いいと思う。リリィに似合ってる。じゃあ、それを頂いて行こうか」

 ダベンポートはニッコリと頷いた。

…………


 夕食はダベンポートのたっての願いで北の皇国料理のレストランに行った。明らかに上流階級向けのレストランだ。窓の付いていない木の扉は大きく、重い。内装は豪奢で、暗めの照明がムーディだ。

 リリィはウェイターに案内されるダベンポートにエスコートしてもらいながら、年季の入った赤いベロアの馬蹄型の席に座った。

「アンジェラ先生の話では、北の皇国は前菜が素晴らしいんだそうだ。前菜を多めにもらって、あとはシチューでどうかね? あるいはビーフ・ストロガノフでもいいかも知れない」

 こういう格式のあるお店ではメインディッシュをシェアする訳には行かない。メインは二人とも北の皇国風ビーツのシチューに決めた。

「旦那様、そういえば気になることが」

 注文したお料理が届くのを待つ間、甘えついでにリリィはダベンポートに相談してみることにした。

「ん? リリィ、なんだね?」

「手袋のことなんです」

 少し恥ずかしそうにリリィはダベンポートに言った。

「わたしの手袋はミトンです。それで、大丈夫でしょうか?」

「ははあ!」

 ダベンポートは笑った。

「ふーむ、確かにね。ドレスにミトンか。正直、僕もその辺はかなり疎いんだが、ひょっとするとまずい、かもなあ」

「やっぱり、そうですよね」

「革の五本指の手袋を買うかね? 今すぐ行けばまだ百貨店デパートが開いているだろう? レストランは待たせておけばいい」

「いえ、いいです」

 リリィは首を横に振った。

「手袋と言われてもどんなものがいいか判らないし」

「まあ、上から下まで揃えなくてもいいか」

 ダベンポートは頷いた。

「はい。外套マントがあるので、大丈夫です」

「まあ、気が向いたらまた僕に相談するといい……やあ、来たようだ」

 何個もの小皿に綺麗に盛り付けられた前菜が二人の前に運ばれてくる。サーモンの冷製、ピクルス盛り合わせ、サラダ数種類、ミートボール、パテ、サワークリームを添えたペリメニ(北の皇国風水餃子)、揚げパンピロシキ……。イクラのカナッペなどというエキゾチックなものもある。

「いや、これはすごいな。これだけでお腹がいっぱいになってしまいそうだ」

 ダベンポートは顔を綻ばせた。

「あ、そうそう。ちょっと君?」

 何かを思い出したようにウェイターを呼び止める。

「はい?」

 皿を載せていたトロリーを押していたウェイターがすぐに引き返してくる。

「すまないが、今日食べた料理のレシピを書いてくれるようにシェフにお願いしてくれるかい? うちでも食べられるようにね。これはそれだけの価値がありそうだ」

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