紫陽花に落ちた雨

 妻の誕生日を忘れたのは、近ごろ仕事が忙しくて疲れていたからだ。


 心の中で呟いたその言葉は、我ながらひどい言い訳だった。生きていくうえで忘れてはならないものというのが、この世の中には間違いなくある。例えば、信条。僕らはたんぽぽの綿毛じゃないから。例えば、感謝の気持ち。僕らが生きているのは血の流れる世界だから。そして、例えば妻の誕生日。僕にとって一番大切な人だから。


 罪悪感と自己嫌悪に苛まれながら、僕はいつもの帰り道をいつもより早い時間に歩いていた。梅雨とは名ばかりの空梅雨で、ここ数日は入道雲が毎日のように南の地平線上に鎮座していた。辺りを満たす空気は、すでに夏の夕暮れのそれだった。


 帰路の中頃にある寺の脇の細い坂道を上っていると、ふと路肩の紫陽花が目に入った。ブルーや紫色の花が葉の緑に映えている。


 ――いつの間にこんなに咲いていたのだろう。


 それからすぐに思い当たる。朝にこの道を下る時は、時間に追われ景色を見る心の余裕など持ち合わせていなかった。夜にこの道を上る時は日はすでにとっぷりと暮れ、あらゆるものが闇の中にあった。今日のようにごくまれに外出先から早い時間に直帰できる時でもなければ、紫陽花が咲いたことにも気がつかないのだ。


 菩提樹が気の早い夏の日差しを遮っているおかげか、いくつもの小さながくが集まり大輪を成した紫陽花はどこか涼しげな表情で咲き茂っていた。手に下げたビニール袋に目をやる。帰りの電車の中で自分が犯した罪に気づき、最寄り駅で慌てて買ったケーキが入っていた。だが、ケーキだけというのも味気ない。


 ――せめて、花束の一つでも買うべきだったかな。


「綺麗なもんでしょう?」

 突然かけられた言葉に、驚いて声のした方向を見た。少し離れたところで、立派な袈裟を身に着けた僧侶が朗らかな笑みを浮かべていた。

「えぇ、とても綺麗ですね」

「今年は雨が少なくて日差しが強いから、ちゃんと咲くか心配してたんですけど……植物っていうのは強いもんです」

「そうですね」

「この木も守ってくれてますし」

 そう言って僧侶は菩提樹の梢を見上げた。僕もつられて顔を上げる。夕日を受けて橙色に染まった葉っぱの向こうに、いつの間にかどす黒い雨雲が垂れこめていた。

「こりゃ、通り雨が来そうですな……おや、お祝い事ですか?」

 何のことかと思ったが、僧侶はすでに雨雲から僕が手にしたケーキの箱に視線を移していた。

「えぇ、妻の誕生日でして」

「それはそれは……そうだ、よかったらいくつかお持ちになりますか?」

「え?」

 どうやら紫陽花のことを言っているらしかった。「いや、でも……」

「いいんですよ、せっかくの記念日ですから」

 僧侶はすたすたと生垣に近づくと、たいした躊躇もなく片手で茎をもいだ。これは仏教でいうところの殺生にはあたらないのか、こちらが心配になる潔さだ。どうやら、できるだけ色の濃く美しいものを選んでくれているようだった。


「紫陽花の花言葉をご存知ですか?」

「花言葉、ですか?」

「えぇ、よく知られているのは『移り気』や『浮気』」

「え……」

 僧侶は優しく笑う。

「ですが、色ごとに違う花言葉もあるんです。ピンクは『元気な女性』、白は『寛容』。そして、青は『辛抱強い愛情』です」

「辛抱強い愛情」

 僕は渡された三輪の紫陽花をしっかりと握りしめた。

「それから、最近は別の花言葉も……」

 僧侶が言いかけた時、紫陽花にぽつりと雨が落ちた。「あぁ、来ましたね。早く帰ったほうがいい」

 たったそれだけを言う間にも、雨脚はみるみる強くなっていた。僕は礼を言い、足早にその場を辞した。


 自宅のマンションにたどり着くころには、雨は滝のごとく打ちつけていた。頭のてっぺんから足の先まですっかりびしょびしょだった。スーツもシャツも靴も鞄もケーキも、すべてみすぼらしく濡れていたが、紫陽花だけは濡れてなお美しさを増したようだった。僕はふぅっとため息を吐くと、エレベーターのボタンを押し、ずぶ濡れの鞄の中かから携帯電話を取り出した。


 玄関のドアを開けると、目の前に妻が立っていた。

「え、どうしたの?」

「今日、何の日かわかる?」

 その問いに、忘れかけていた罪悪感と自己嫌悪の念が再び頭をもたげた。だが、いまはケーキだけでなく、紫陽花まである。後ろめたさを感じる必要などないのだ。そう自分に言い聞かせる。

「きみの誕生日でしょ?」

「それだけじゃないの」

 よく見ると妻は目に涙を浮かべているようだった。

「え? どうし……」

 言いかけた僕を、妻は飛びつくように抱きしめた。手に持っていたケーキの箱が床に落ちた。

「あ、ちょっと、ケーキが……」

「今日は、私たちが私たちの子どものことを初めて認識した日」

「……え」


 妻の言った言葉の意味を理解するのに、しばらく時間が要った。妻が離れ、僕の顔を満面の笑みで見つめる。ずぶ濡れの僕に抱きついたせいで、服はすっかり濡れてしまっていた。

「え、それ、紫陽花!? すごーい、綺麗!」

 妻が歓声を上げた。僕の手から紫陽花の花束を受け取り、胸元で握りしめる。

「え!?」

 そこで、僕はようやっと間抜けな声を出すことができた。「い、いま、なんて……?」

「できたみたい。私たちの子どもよ」

 そう言った妻の目尻から、溜まっていた一粒の涙が紫陽花に落ちた。僕は妻の涙と紫陽花ごと、妻を抱きしめた。


 なかなか子どもに恵まれず、精神的に辛い時期もあった。どちらが悪いわけでもないのに、言い争ってお互いを無益に傷つけあったこともあった。だからこそ、喜びもひとしおだった。青い紫陽花の花言葉、「辛抱強い愛情」。それはまさに妻が身をもって示してくれたものだった。


 それから、「家族の絆」。


 紫陽花をくれた僧侶が言いかけたことが気になって、エレベーターの中で携帯で調べてみた。紫陽花は小さながくが集まって一つの花みたいに見えるから、そういう花言葉もあるらしい。






「やった、やった」

 僕は壊れたロボットみたいに、ただいつまでもそうやって繰り返していた。






 


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