四狂の花

叶望

春の狂 起

時は江戸。奉行の一人に「晴彦」という男がいたそうな。この男、それはそれは真面目で有名な堅物男と評判であった。


ある日、晴彦は桜並木の道を一人、歩いていた。月が雲に隠れている夜の事だった。もう少しで満開になるであろう、桜の見回りを託されたのだ。すっかり夜設けた時間帯。欠伸一つでも普通なら噛み締めるであろうに、相も変わらずのしかめっ面で桜の隣を歩いていた。


「くだらん。」


薄く色づいた花、周りは皆、綺麗だ綺麗だと囃し立てるが、特に興味がない晴彦は風流を楽しむわけでもなく、ただただ仕事を全うしていた。こんな花になんの価値があるのだと思うものの、満開に咲けば、そこで皆が集まり飲み食いする場所へ変わる。そうしたら、こうした夜の見回りはどうしても外せない立派な仕事へと変わる。だが、やはり気に食わなかった。


「食事は食事。花に現を抜かさず、静かに食べていればいいのだ。」


花見は嫌いだと心の中で愚痴を吐く。騒々しい。仕事というのなら仕方なく行くものの、そんな事をしている暇があるのなら、別の仕事をしたいものだ。

足を止め、ぎろりと隣に聳え立つ桜の気を睨みつける。やはり、何度見ても、たかが花。それしか感想が持てなかった。


「見回りももう終わる。」


自分に言い聞かせるように呟く。どうせあと持って数日。数日経てば花は舞い落ち緑が顔を覗かせる。そうすればこの見回りから解放される。もうしばらくの我慢だと止めていた足を動かした。


その時だった。


風が吹いた訳もないのに、地面に落ちていた桜が舞い始めた。ちょっとやそっとじゃない。強風に煽られた位の量が辺りに満ち、視界が奪われるほどだった。


「なんだ…これは。」


視界を奪われ、うっとうしそうに目の前に舞う花びらをはたく。けれど暖簾に腕押し。まったく意味が成さず、桜吹雪が辺りに満ちた。

目を細め、現状を把握しようとしたその時だった。遠くの方で、色づいた花びらの間、光が灯った。誰かいるのかと咄嗟に腰元にある刀へ手を伸ばす。しかし、視界は相変わらず桜で奪われている。


「えぇい…うっとうしい!!」


淡く灯る光を頼りに、桜吹雪の中を抜け出した晴彦は、


「な、」


何者だ。こんな夜更けに何をしている。そう叫びたかった。しかし当の声が出なかった。

光の元に立っていた一人。鴇色の着物に身を包んだそのモノ。


頭部が桜の人ではない異形のモノがそこに立っていた。


ひらりひらりと指先を動かし、何かを操っている様にさえ見えた。そのモノの動きを真似するかのように桜の花びらがひらりひらりと舞っている。指先で愛おしい者を愛でるかのように、優しく包み込むかのように動かされたそれに、目を奪われた晴彦だった。


踏みしめた草鞋が砂利の上を滑った。


その音に気付いたのか、舞っていた花はそのままひらりひらりと地面に力なく散った。そして、ゆっくりと立っていた桜のモノがこちらを見やった。晴彦の喉がごくりとなる。刀に掛けられた手に力が籠った。

数秒、目がないのに目の前にモノにじっくりと見つめられた感覚に落ちた晴彦の額から汗が流れ落ちた。


ゆっくりと桜が動き出す。


一歩、一歩とその足を晴彦の方へ向ける桜に対し、晴彦は刀を抜こうにも抜けなかった。未知なるものへの恐怖か。柄にもなく、ガタガタと指先が震える。痛いほどに心臓が高鳴る。緊張からか、喉の奥が乾き切る。

しかしその間にも桜は一歩、一歩と晴彦との距離を縮め、そして、


手を伸ばせば相手に届く距離まで近づいてきた。


ひたりとえらく冷えた掌が晴彦の額に触れる。汗で張り付いた髪の毛を避けるかのような仕草に、晴彦は動けずにいた。声を出せずにいた。目の前に異形に、目を奪われていた。

ぽん、ぽんと数回、額に柔らかいものは触れた。意図せぬ感触に思わず目を閉じた晴彦が目を開けた頃には、桜はその場からいなくなっていた。


体中に入れていた力がどっと抜け、その場に腰を抜かす。


「なんだと言うのは…今のは。」


激しく動いた訳でもないのに、心の臓が痛いぐらいにばくばくと鳴る。

握った覚えのない、あの桜が着ていた着物と同じ、鴇色の布に気付くのはもうしばらく経っての事だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る