ヴェルゲニア列伝~異端の有能博士と日陰者王女は理論魔術で革命を目指す~

村元新

序章

序章



 怒号、剣戟の音、土煙、それと濃厚な血のにおい。戦場を飛び交っているのはだいたいそれらだ。わざわざ現地に来てまで新しく分析するほどのことでもない。強いて言うならば、この乱れきったマナを肌身に焼け付くばかりに感じられたのがせめてもの収穫だっただろうか。


「ふむ」


 男は息をつく。三十路を越え、四十に手を掛けるような年頃である。他と違って身を守る重厚な鎧を付けず、埃を避けるためのコートを羽織ってその襟を立てているばかりの装備をしていた。


「ギデオン殿、お下がりください! ここは貴方が居たような場所ではない!」

「ええ、それはもちろん。存じ上げておりますとも」


 男――ギデオンは顎髭をさらりと撫でて口の端を上げる。他がやれば嫌味で横柄にも見える仕草であるが、彼には似合ったものだ。不思議に品の良さすら覚える者もある。


「ええ、このような。野蛮と言うか、整っていないと言うか。とにかく私の感覚には合いませんなあ」

「ギデオン殿!」


 敵地偵察のために高所へ張ったこの陣ではある。しかしこちらからよく見えるということは逆もまた然りである。ギデオンは少し身を乗り出し過ぎていた。


「前衛部隊壊滅しました! 結界保ちません!」

「ええいクソ! ギデオン殿、とにかくお下がりください! 貴方に何かあればこの偵察部隊ごと首が飛ぶのですぞ!」


 遠見の法で戦況を見ていた兵士が悲痛な声を上げると、それとほぼ同時に空間に亀裂が走った。その隙間からは殺意を持った魔力弾が凄まじい速度で撃ち込まれてくる。前線でもみ合っていた兵士の盾が砕け、鎧が飛び散った。ギリギリで拮抗していた戦線がぐっと押し込まれる。次々に斃れる兵の血肉で足元は泥濘み、敵兵が雪崩れ込んできた。

 この戦場で物を言うのは兵士の練度と魔術師の腕だ。殊、後者は攻守の要にもなり得る。両国共に手練れを大勢揃えてこの戦場の楔として置いていた。


「……なるほど、結界破壊のために魔力弾に回転が加えられている。そうなれば結界を構成する魔力格子に歪みが発生しますからな、如何に堅牢な壁といえども即座に砕け散ってしまうわけです」


 ならば、とギデオンは亀裂へ向かって片手を振る。と、見る間に結界の隙間は埋められていく。遠見の法でそれを眺めていた兵士は口をあんぐりと開けて目を見張った。


「――このようにすればよろしい。魔力弾の回転を打ち消すように結界の表面に逆回転の流れを作ってみました。敵方の魔力弾の回転方向も同じでありますからな。……些か粗はありますが、戦場であれば仕方ありますまい。今回ばかりは練度の向上は二の次といたしましょう」


 ギデオンはぱっと手を払って急造の結界を見やる。ほとんど頭で構築したままを出力できたとは思うが、やはり満足いくほどのものではない。


「なんだあれ、人間のやれることかよ……」


 兵士がぽつりと呟く。今目の前に広がる結界は、国でも特に結界術の腕が立つ魔術師が十人がかりで展開したものだ。これが崩される時が戦局が大きく動くタイミングというのは肝に命じて偵察を行っていた。亀裂が走った時は死すら覚悟した。それなのに、この背後に立つ男は飄々とした態度であっという間にこの状況を立て直した。結界を構成する十人分の混沌とした魔力を即座に解析し、自分の味まで付けて再構築して見せたのだ。人一人にこなせることではない。


(このオッさん、本気出したらこの泥沼みたいな戦場ごとぶっ潰せるんじゃないか)


 ギデオンは顎に手をやって少し首を傾げている。青い瞳は真っ直ぐに前を向いていた。


「……そろそろ飽きてきましたなあ。皆さんも家に帰りたいでしょう。よし、こうしましょうか」


 ギデオンは瞼を下ろす。渦巻くマナへ指を伸ばし、望むものを掴む――イメージをする。脇腹や心臓、額の魔力が回路を通じて指へ駆け上ってくる。混沌とした戦場のマナへこれを使って呼びかけるのだ。


「さあ、武器を捨てましょうぞ! 私はもう帰りますゆえな!」


 掴んだ一端は空へ続いている。暗雲垂れ込めるそこへ、ギデオンは魔術を展開した。


 空へ現れたのは「魔術式」だ。

――『武器を棄てよ。膂力は萎え、魔力は枯れる』


 ギデオンはコートの裾を翻し、踵を返す。


「このようなものですかな」


 遠見の法を失った兵士にも、眼下に広がる異様はわかる。力を漲らせた戦士が武器を落とし、知恵を湛えた魔術師がその泉を枯らしている。


「化け物……ッ」


 思わず溢した言葉がギデオンに届いたかは定かでない。前線では撤退が始まっていた。




――以上、ギデオンが王宮から下がる五年前のことである。


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