第132話 影を落とす者

「ある、人物……?」


 シンシアが、柳眉をしかめて最前の言葉を反芻する。ステラはそれを一瞥したのち、アデレードに目を向けた。


「一体、どこのどなたなんですか?」


 ステラが問うと、アデレードはほほ笑んで「聞いていただけます?」と声を弾ませた。その切り返しに、ステラたち四人は顔をしかめる。ここで「はい」と言わなければ詳細は教えない、ということなのだろう。


 苦々しさを覚えつつも、ステラは首を縦に振った。アデレードの微笑が深くなるのを見て、喉元の苦みも濃さを増す。けれど、自分たちには元より話を聞く以外の選択肢は存在しない。しかたがないのだ、と言い聞かせ、ステラは続く言葉を待つ。


 そんな中、皇女のほほ笑みがふっと消えた。


「私たちが正体を暴きたい人物……それは、この国の副宰相です」


 静寂の中に落とされた冷たい言葉は、しばし六人の間を漂う。


 ステラとシンシアが息をのんだ一方、レクシオとトニーは首をかしげて互いを見ていた。


「副宰相……って、なんです?」

「文字通り、宰相様の補佐役ですわ。業務の分担や補助はもちろん、なんらかの理由で宰相様が不在のときは、その代理も務めるそうです」


 恐る恐る問うたトニーに、アデレードではなくシンシアが答える。皇族の二人は、その通り、とばかりにうなずいた。


「ご存知ないのも仕方ありません。一般の方にはあまり馴染みのない役職ですから」

「そもそも、比較的新しい役職ですからね。設置されたのが三十年前、『彼女』がその役職に就いたのが二十年前、でしたか」


 今までよりかたい微笑を浮かべるアデレード。その隣で、アーサーが合いの手のように呟く。彼の言葉を聞き、レクシオが目を丸くした。


「その副宰相さんって、女性なんですか」

「女性……そうだな、あれをただの女性と言っていいのなら」


 明らかに何かをにおわせる返答に、レクシオだけでなく、ステラたちも顔をしかめる。


 そのとき、個室の扉が叩かれた。アデレードが「どうぞ」と応対すると、先刻とは違う店員が二人入ってきて、注文したものを机上に並べはじめる。学生たちがお礼を言って飲み物を受け取ると、彼らはほほ笑んで頭を下げた。


 最後に軽食――平たい生地に焼いた野菜や卵、燻製肉ベーコンを乗せたもの――を置くと、店員たちは再び去っていった。


 ひとまず、ステラは頼んだお茶を一口飲む。芳ばしさの中に、ふわりと柑橘の香りが広がった。


 ほかの面々も、飲み物で喉を潤していたらしい。ステラが顔を上げるのと、アデレードがカップをソーサーに置くのが、ほぼ同時だった。


 全員が一息ついたところで、その皇女がおもむろに口を開く。


「……『彼女』は突然宮殿に現れました。今の宰相のお知り合いだそうで、彼のはからいで皇帝陛下と面会することになったそうです。その知識の深さを陛下に気に入られ、『彼女』は副宰相の地位を与えられました」


 アデレードは、つかの間手元のカップを見下ろす。険しい顔の姉を、アーサーが無言で一瞥した。


 ぽつり、ぽつりと皇女が話を繋ぐ。ためらっているというよりは、言葉を選んでいるふうだ。


「『彼女』は、当時からやや危うさを感じる方でした。自分と異なる考え方を持つ者にひどく厳しいのもそうですし、人々の不安や怒りを煽り立てて利用するようなところもありました。陛下は……父は、そういう部分を気に入っているようですが……。

 私たちは多少なりとも警戒していましたが、『彼女』がいることで政務は円滑になりましたし、それまでやや冷え込んでいたラフェイリアス教会との関係も改善しましたから、『彼女』の危うさを指摘する者は誰もいませんでした」


「――それが、間違いだったのです」アデレードの声が震える。その一言には、血を吐くような凄みがあった。


「彼女の言動は、時が経つほどに苛烈なものになっていきました。それだけでなく、宰相を差し置いて父に直接意見することも増えていきました。父の移民や少数民族に対する政策が厳しくなってきたのも、同じ頃です。その極めつけが……『ルーウェン解体』でした」


 悲鳴をのみこんだのは、誰だっただろう。一瞬、全員の視線が一人に集中した。その『解体』の当事者だった少年に。


 彼は無言だった。だが、表情には驚愕と衝撃がありありと表れていた。唇を噛むほどに引き結んで、ようやく感情を堪えているといった様子だ。ステラは机の下で手を滑らせ、そっと彼の手に重ねた。彼は少し目を見開き、それから細く息を吐く。


「ルーウェンの解体は、『彼女』が父に進言したのです。『魔導の一族』はもはや危険因子だ。できる限り排除しなければならない。万が一誰かが生き残っても再度徒党を組まぬよう、そんな気も起きぬよう、徹底的に――。そのように、言っていたそうです」


 アデレードの碧眼が、揺らぐ。明らかにレクシオから視線が逸れた。だが、彼女はすぐに姿勢を正すと、再びまっすぐに四人を見据えた。


「父は彼女の進言を受け入れ、『解体』を実行しました。定期監察を装ってルーウェンに軍人を派遣し、町に火を放ち、住民を殺すよう命じました。一人たりとも逃がすな、とも命じたそうですが、あの混乱の現場でそれは不可能でしょう。実際、軍人たちの目をかいくぐって逃げ延びた人はそれなりの数いたようです。ですが、彼らはこの帝国内で身を守ることに必死で、再びどこかで集結したという話は聞きません。『彼女』の思惑通りです」


 今まで決して外部に漏れぬようにと秘されていたであろう、『ルーウェン解体』の詳細。それをアデレードは、淡々と四人の前で明かした。生き残りがこの場にいるからか、それとも何か別の意図があるのか、ステラにはわからない。


 話の切れ間に、ステラは視線を巡らせる。『解体』の話を初めて聞くであろう二人は、愕然と目をみはっていた。シンシアなどは両手で口もとを覆い、青ざめた顔をアデレードに向けている。


 そのアデレードが、再び唇を震わせた。


「ですから父も、『魔導の一族』はもう脅威にならないと見たのでしょう。『解体』から三か月後、逃げ延びた者を不当に拘束することはない、手を下さないというお触れを出しました」


 実際のところ、今も彼らへの弾圧と執拗な追跡は続いている。だからミオンたちは長らく逃亡生活をしていたのだし、レクシオは一度捕まった。


 もしかしたら、あのときに憲兵隊特別調査室が――アーサーが動けたのは、皇女の言うお触れのおかげもあるのかもしれない。そんなことを考えたステラは、つと顔を上げた。


「あ、れ……?」


 一瞬、引っかかりを覚えた気がする。思考の縁を、鋭いものがかすめていったような。けれど、それが形を持つ前に、声が響いた。ステラの意識は否応なくそちらに引きつけられる。


「――今回、俺たちに協力をお願いしてきたのは、だからですか? 『解体』の件と副宰相さんが繋がっているから?」


 ぞっとするほど平板で、低い声だった。


 レクシオが、緑の瞳をじっと皇族たちに向けている。口では問いかけながらも「そうではないだろう」と横顔が語っている。


 アデレードもまた、かぶりを振った。


「いいえ。それも理由のひとつではありますが、一番の理由ではありません。重要なのはここからです」


 冷え切った言葉に呼応するように、今度はアーサーが口を開いた。


「我々は以前から『彼女』を危険視していた。が、『解体』の件を受けて、危機感と不信感はますます高まった。そこで、密かに『彼女』のことを調査したのだ。その結果……妙なことがわかった。

『彼女』の出生地や経歴が、いくら調べてもわからないのだよ。まずもって、官僚の名簿やその他書類に記載されていた情報が偽造だった。では本当のところはどうなのか、と探ってみても、それらしい情報が出てこない」


 声が途切れて、空気が揺れる。その瞬間、アーサーの両目に鋭い光が走った。


「さらに、『彼女』は副宰相になってからの二十年、ほとんど見た目が変わっていない。……いや、それどころではない。もっと前から今と同じ姿なのだそうだ。これは宰相から聞いた話だから、それなりに信憑性があるだろう」


 ステラたちは思わず顔を見合わせた。背中に氷柱を差し込まれたような、嫌な感覚を覚える。


「宮殿に勤めている魔導士にそれとなく話を聞いてみたが、『彼女』が魔導術を使っているというわけでもないようだ。となれば、我々には『彼女』が何者なのか見当がつかない。そこで、私は調査の方向性を変えてみることにした。――宮殿で何も見つからないのならば、ラフェイリアス教会を調べてみよう、と」


 あっ、とトニーが猫目を見開く。


「それで、アーノルドさんにお願いして教会を調べたんですか?」

「そういうことだ。ラフェイリアス教は排他的なところがあるからな、我々が把握していない神秘が眠っているやもしれない、と考えたのだよ」


 アーサーは得意げに片目をつぶる。しかし、少年のような表情はすぐに影をひそめた。


「もちろん、無断で教会を調べることの危険性は理解していた。事が露見すれば、再び彼らとの関係が悪化するかもしれない。だから、我々にとってはある種の博打だった。焦らず、踏み込みすぎず、慎重に調査を進め――そして、私は賭けに勝った。そう言っていいだろう」

「調査の結果、『奇妙な存在』と『女神の代行者』に行き着いたから……ですね」


 ステラが鋭く切り返すと、アーサーは静かに首肯する。


「そうだ。ラフェイリアス教の中でしか伝わっていない女神の話と、教会周辺で蠢動する『奇妙な存在』のことを知ったとき、私は『彼女』が『奇妙な存在』かそれに近しい者ではないかと疑った。それならば、見た目が変わらないことや経歴がないことの説明がつく。

だが、今の段階ではあくまで憶測にすぎない。憶測を確かな情報にするため、揺るぎない証拠を得たいのだ。だからおぬしらに協力をお願いしたい。シュトラーゼで異形の獣と戦い、人ならざる存在をあぶりだしたおぬしらに」


 ステラはそこで、はっと息をのんだ。冬の大祭にはアーノルド捜査官の『上官』、つまりアーサーが出席していた。そのことを今さら思い出したのである。


 あの戦いのとき、来賓の人々は聖堂に避難していたと聞いている。それならば、アーサーは戦いの現場を見ていないだろう。けれど彼は知っている。あのとき、軍人たちに混じって、十人の学生が戦っていたことを。


 ステラはいつかのように、心の中で数を数える。それから顔を上げた。ほぼ同時、シンシアが静かに挙手をする。


「……いくつか、確認したいことがございます」

「我々に答えられることなら答えよう」

「ありがとうございます。では、第一に――副宰相様の見た目の特徴を教えていただけますか? 髪色や背丈など、目につくところだけで構いません」


 高貴なる姉弟は顔を見合わせる。それから、「確かにそれは大事な情報だ」と、アーサーが肩をすくめた。


「髪色は黒だ。黒髪を長く――そうだな、背中の半分あたりまで伸ばしている。そしてかなりの長身だ。……姉上よりも高いですよね?」

「そうね。宮殿内の女性の中では、一番高いのではないかしら」


 アデレードが小首をかしげて弟の問いに答える。そうしていると、あどけない少女のようであった。


「あとは、そうだな……目立つところといえば、いつも赤い口紅をつけているように見えること、くらいか。服装は制服姿しか知らないから」

「……なるほど」


 うなずきながら聞いていたシンシアが、正面に視線を投げかける。いつの間にか手帳とペンを取り出していたレクシオが、無言で書きつけを取っていた。どこに隠し持っていたんだ、と見つめるステラをよそに、レクシオはひと通り書き終わったらしい。彼が顔を上げて「よし」と言うと、シンシアが皇子と皇女に向き直る。


「わかりました。ありがとうございます」

「当然の情報提供をしたまでだ。それで、確認したいことの二つ目は?」

「はい。先刻アーサー殿下は、副宰相様が『奇妙な存在』である証拠を得たい、と仰りましたが……すでに何か、手がかりがあるのですか?」

「ある」


 きっぱりと断言したアーサーは、未だ香りを立ち昇らせるカップを手に取る。珈琲コーヒーを口にしたのち、目を丸くしている少女を静かに見つめ返した。


「『彼女』は日中、ある決まった時間になると宮殿から姿を消す。そしてここひと月ほどは、同じ場所へ足を運んでいる。……本来、副宰相が業務で訪れることなどない場所だ。そこを探れば何かが出てくる可能性が高い、と思っている」


 シンシアが眉をひそめる。


「決まった場所、ですか……」

「現時点ではここまでしか教えられない。おぬしらのためにも、な」


 少女の眉間のしわが深くなった。しかし、答えたアーサーの表情も真剣そのものだ。こちらを試している、というだけでもないのだろう。


 ステラたち四人は再び視線を交差させる。熟考と、逡巡、そして長い無音のやり取りの果てに、彼らはひとつの結論を出す。


 学友の目配せを受けたステラが、細く深呼吸をして、アデレードたちに向き合った。


「……私たちだけで決められることではありません。少しだけ考えさせていただけますか」

「もちろん、構いませんよ。ほかのご友人がたとも話し合う必要がありますでしょう」


 アデレードがほほ笑んで、よどみなく答える。きっと、ステラたちがこう言うことも織り込み済みだったのだろう。


 ――いや、きっと予想していたのは両殿下だけではない。ステラは、感嘆と安堵が入り混じった吐息をこぼす。


 ステラが「ありがとうございます」と頭を下げれば、皇女はゆるゆるとかぶりを振った。


「今回の件は、きっと危険が伴うでしょう。私たちも、大切な民、ひいては学生のあなた方に無理強いはしたくありません。断っていただいても大丈夫です。ですから、よく話し合って、よく考えて、答えを出してください」


 そう語るアデレードは、なんともいえぬ顔をする。ほほ笑んでいるようにも、泣いているようにも見えた。


 きっと、これは彼女の本音なのだろう。ステラは、そんなふうに思った。

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