第127話 皇子の伝言
第一皇子にして帝位継承順第二位の皇族、アーサー。姉アデレードの陰に隠れ、決して表舞台に出てこない、謎多き皇子。そのご本人が現れたとあって、クレメンツ帝国学院の生徒たちは呆然としていた。しかし、彼と副団長の会話を聞いているうちに、驚きから覚める者も出てくる。そういった者たちは、敬うべき相手に慌てて敬礼をした。ステラもその一人である。ただし彼女は、額につけた手の下から鋭く皇子を観察していた。
突如現れたアーサーは、そんな少年少女を順繰りに見て、やわらかく微笑する。
「そう畏まらなくてもよい、学生諸君。せっかくの職場見学だろう。楽にしてくれ」
彼はそう言うと、副団長に目配せする。
「一度、中へ入ろうか。演習場の隅で騒いでは、騎士たちの邪魔になってしまう」
「仰る通りです」
いささか緊張した様子で応じた副団長は、改めて学生たちと先生を振り返る。そして「お待たせしました。本部の中に戻りましょう」とほほ笑んだ。その顔が今までよりこわばってしまうのは、無理からぬことだろう。少年少女も先ほどまでよりしぼんだ声で返事をし、副団長の後に続いた。
ステラも、一度肩を上げ下げしてから、彼らに続く。案内役の副団長、そのさらに前にいる皇子――いや、少佐の背中を見て、目を細めた。
レクシオはどう思っているんだろう。ふと気になって、振り返る。しかし、幼馴染の横顔からは驚きや動揺の色は見えない。それどころか、やれやれ、といわんばかりにかぶりを振っていた。
「レク」
ステラは思わずささやきかける。新緑の瞳が、ちらと動いた。
「アーサー殿下のこと、知ってたの? ……もしかして、宮廷騎士団を選んだのって……」
「ああ」
レクシオは静かにうなずき、正面を向きなおす。
「アーノルド捜査官の実質的な上官、アーサー・オルディアン少佐。その人とアーサー殿下が同一人物かどうか、それを確かめたかった。だから、皇室に少しでも近づけそうな宮廷騎士団を見学先にした」
集団の先頭の方から、金属の軋む音がする。ここに出てくるときにも聞いた、本部の扉の音だ。
レクシオは、一度言葉を切ると、ステラを振り返る。珍しく、両方の眉が下がっていた。
「悪い、ステラ。おまえは真剣に進路のこと考えてるのにな」
「ううん」
ステラはかぶりを振る。一片の迷いもなく、幼馴染を見つめた。
「レクだって真剣でしょ。それに、アーノルドさんと関わりがある話なら、あたしたちにとっては進路と同じくらいか、それ以上に重要だよ」
憲兵隊専任捜査官、セドリック・アーノルド。彼はラフェイリアス教の隠された神話とセルフィラ神族を探っていた。その情報を得るためシュトラーゼでヴィントに接触し、そこからステラたちに辿り着いた。
一連の行動の大元は、彼の『上官』の命令だ。『上官』の正体、またその思惑次第で、アーノルドはこれから敵にも味方にもなりうる。ステラもそのことは理解していた。『上官』のことも、ずっと気にかかっていた。その正体が第一皇子アーサーなのは意外だったが、思っていたほど動揺はしていない。むしろ、少し安心している。素性がわかっただけでも判断材料にはなるし、人となりはこれからいくらでも探りようがあるからだ。
きっと、レクシオも似たようなことを考えているのだろう。ステラが笑いかけると、彼は頬をかいて、少しだけ口の端を持ち上げる。
「ありがとな」
そして、本部内に踏み込む直前、ぽつりとそれだけ呟いた。
「さて。改めて自己紹介をさせていただこう。――現皇帝の第三子、第一皇子のアーサーだ。憲兵隊特別調査室にて、アーサー・オルディアンの名で軍務も行っている」
ステラたち見学者は、先ほどの応接室より少し広い部屋に通された。
全員が部屋の中心の長椅子に座り、大きな卓を挟んで向かい合ったところで、アーサーはそのように切り出す。それに対して学生たちは黙礼を返すが、ほとんどの者の動作はややぎこちない。平然と返礼できたのは、冷静さを取り戻した一部の者たちだけである。――おそらく、ステラやレクシオも「一部の者」に含まれているだろう。ステラは周囲にさりげなく視線を巡らせ、ひっそりと苦笑した。
アーサーも学生たちの緊張を察したのだろう。陽だまりを思わせる微笑を浮かべ「驚かせて申し訳ない」と続けた。その声は明るく弾んでいる。自分たちに接触してきたときと違う雰囲気に戸惑って、ステラは何度もまばたきをした。
「このたびは、宮廷騎士団を見学先に選んでくれてありがとう。嬉しく、また誇らしく思う。ここに集う者たちは、みな帝国きっての精鋭だ。そこな副団長も含めてな」
晴天の瞳が横へ動き、かたわらに立つ副団長を一瞥する。彼は、今までと大差ない穏やかな表情で一礼した。
「彼らの立ち居振る舞いから学べることも多かろう。ここで見聞きしたことのすべてを、進路選択に限らず、君たちの糧にしていってほしい。
――将来、私や姉上が君たちの手を借りる立場になることもあるだろう。また、共に仕事をする仲間となることもあるやもしれぬ。そのときを楽しみにしているよ」
そう締めくくったアーサーはおもむろに立ち上がり、学生一人ひとりに声をかけはじめた。人によっては名を尋ねられ、それぞれ違う言葉を向けられる。これまでの言動から何かを見抜いているのか、驚くほど的確にその人の性格や感情を突いてきていた。
やがて、アーサーがレクシオの前に立つ。右隣に座っているステラは、思わず目を細めた。晴天と新緑が互いを映す。その瞬間、それまでとは違う感情のやり取りが行われた気がした。
果たして、この少佐は何を言い出すか。ステラは身構えたが、アーサーが舌に乗せたのは思いのほか平凡な言葉だった。
「君は宮廷騎士団志望なのかな」
平凡、しかしほかの生徒には決して向けられなかった問いだ。ぴくりと眉を動かしたステラの横で、レクシオはいつものように笑った。
「いえ。まだ明確な希望先がないんです。今回の見学先は、先生に提案してもらったところを選びました」
「そうか」
アーサーの横顔から、真情はうかがえない。晴れた空に似た碧眼が、優しい、あるいは鈍い光を湛えた。
「『武術科』だからといって、必ず軍や騎士団に進まねばならないという規則も存在しないだろう。焦らず、よく考えて決めるといい」
「……はい」
レクシオは、軽く目を見開き、うなずいた。そして、差し出されたアーサーの手を軽く握る。握手の後、レクシオは何食わぬ顔で着席した。そして――若き少佐の目が、ステラに向く。
「おや、あなたは……確か、ステラ・イルフォード嬢だったな」
「はい。お初にお目にかかります、オルディアン少佐」
白々しく首をかしげたアーサーに、ステラは軽く礼をする。決して嘘は言っていない。『アーサー・オルディアン少佐』に会うのは、これが初めてだ。その少佐もまた平然として礼を返す。そして、穏やかな口調で切り出した。
「あの事件以降、イルフォード家は長らく慌ただしかったな。あなたも大変だっただろう」
「はい。その……それなりに」
声と微笑に、苦味がにじむ。なるべく淡々と答えようと心がけていたのだが、両親の件を持ち出されると上手くいかない。
アーサーの方はあくまで静かにうなずいた。碧眼に明確な感情は見えない。ただ、何事かを探っているような雰囲気は感じ取れた。――もしかしたら、それすらも演技かもしれないが。
「お父上の跡を継ぎたいのか」
「……そういう気持ちも、あります」
「そうか」
アーサーの目が、すっと細くなった。ほんの短い間だけ、机に視線が落ちる。ステラは、目だけでそれを追った。白い手袋に覆われた指が、二度、天板を叩く。
「気張りすぎないようにな。ニーナルア湖の白鳥のように、とはいかないまでも、時には力を抜くことも必要だろう」
人差し指が、音もなく
「ありがとうございます。肝に銘じておきます」
そのまま一礼して、音を立てぬよう長椅子に座る。アーサーは何事もなかったかのようにステラの前を去り、次の生徒に視線を移した。緊張した様子の女子生徒に、先刻と変わらぬ態度で話しかけている。その姿を見ながら、ステラは先ほど見た『文字』を頭の中で書き起こす。
『
――そのときに会おう、ということだろう。あと知りたいのは集合場所だ。ステラは少し目を細めたが、直後に顔から力を抜いて、横を見る。視線を感じた気がしたのだ。
案の定、レクシオと目が合った。
「ニーナルア湖ってどこにあるっけ」
彼は唐突にそんな問いをささやいてくる。ステラは目をしばたたいたが、すぐに幼馴染の言いたいことを察した。
「帝国領の北東部。帝都からはかなり離れてるわね」
「北東……そっちのことは全然知らないな」
「あたしもよ」
「とりあえず寒そうだ」
そんなやり取りののち、二人は揃って口を閉ざした。それ以降、アーサーの声がけが終わるまで、どちらも言葉を発さなかった。けれど、思考は沈黙の中で目まぐるしく回転する。
いくつかの単語を頭の中で並べ立てて、いくつかの記憶を辿ったステラは、何も得るものがないと気づくとため息をついた。思考を打ち切って幼馴染の方を見る。彼も、肩をすくめてかぶりを振った。
――これは、ほかの団員にも相談した方がよさそうだ。
ステラは口の端をいびつに持ち上げ、黙ったまま前を向いた。
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