第123話 これまでと、これから

 しん、とその場が静まり返る。資料室をほのかに照らす火の音だけが、しばらく響いた。エドワーズは目を見開き、レクシオは口もとを覆ってしかめっ面で机をにらむ。ステラは息をのんで、恐る恐る左手を挙げた。


「え、えっと……セルフィラ神は、今はいない……んですよね?」


 問いながら、だんだんと恥ずかしくなってくる。言葉の終わりはややしぼんでしまった。けれど、神官は彼女を馬鹿にすることもなく、「はい」と応じる。


「一度ラフィア神に敗れたのち、セルフィラ神は自らの手勢を率いて再び世界に現れました。これが『選定』が始まるきっかけとなった出来事です。その後、『翼』とラフィア神がセルフィラ陣営は幾度もぶつかりあい、最終的には再びセルフィラ神側が敗北しました。二度目の敗戦後、セルフィラ神は『天へと逃れ、彼方へ去った』とだけ伝わっております。具体的にどこへ逃れたかまでは、我々にはわかりません」


 その『どこか遠くに逃れた神様』をこの地上に連れてくるというわけか。遅れて言葉の重みを悟ったステラは、眉間にしわを寄せる。彼女の向かいで、エドワーズがこわごわと神官を振り返った。


「そのようなことが可能なのでしょうか……いったい、どうやって……?」

「あくまで私の推測ですが……。エドワーズ神父、あなたは『銀の選定』のとき、『開道かいどうの儀』を執り行われたでしょう」


 エドワーズが目をしばたたく。ステラも、神官の言葉の意味がわからず、目を泳がせた。それに気づいたのか、レクシオが「『銀の選定』のときの、お祈りだな。その場にいた」と軽く説明してくれる。


「確かに、あのときの儀式の宣言は私が行いましたが……」

「彼らは、それと近しいことをしようとしているのではないでしょうか」


 静かな神官の言葉に、エドワーズはつかの間固まる。それから、瞠目した。


「まさか、『道』を作ると?」

「神を呼び出す方法は、それしか考えられますまい」


 神官が、険しい表情でさらに言葉を繋ぐ。


「『選定』のときに作る道は、ラフィア神の意志と魔力の一部をこの世界に伝えるためだけのもの。しかし、セルフィラ神族が作ろうとしている道は、それよりずっと太くて強いものでしょう。それこそ、セルフィラ神の存在そのものを降臨させられるほどの」

「そんな道が作れるものでしょうか」

「我々にはわかりかねます。おそらく、セルフィラ神族たちも知らないのでしょう。役目以外での地上への干渉は、本来禁じられていたはずですから」

「方法を探している最中、ということですか」


 エドワーズがうめくように言うと、神官も重々しくうなずく。


 ステラは唖然として大人たちの話を聞いていた。話が壮大すぎて、頭がついていかない。自分とレクシオがラフィアの『翼』というだけでも一大事で、それもようやく吞み込んだところだというのに。


 目に見えない渦が、どんどん、どんどん大きくなって、自分たちを捕えようとしてくる。このまま渦にのまれて、どこかへ流されていってしまうのではないか。そんな茫漠とした恐怖に駆られ、ステラは自身の体を抱いた。


「『翼』を始末するのも、その活動の一環ってことですね」


 隣から響いた、からりとした声が、少女の不穏な空想を断ち切る。ステラは顔を上げた。


「奴らの目的がフィンレイさんの仰る通りなら、それこそラフィア神の代理人なんて邪魔者でしかないでしょうから」


 レクシオは少し脱力して椅子に座り、机に腕を置いて身を乗り出している。まるで、学院の食堂で語らっているかのようだ。


 聖職者二人は、苦々しく口を閉じていた。しかし、レクシオは気にする様子もなくステラを振り返る。


「なんにせよ、セルフィラ神族の目的の目星がついただけでもありがたいことです。な、ステラ」

「え? あ、うん……そうね」


 ステラはどぎまぎしながらもうなずいた。そこで、自分の体からふっと力が抜けたことに気づいて苦笑する。力が抜けたということは、それだけ緊張していたということだ。


「ただ、私たちはお二人が仰る『道』についてよく知らないので、まずはそこを勉強しなければいけませんね」


 ステラがぎこちなくほほ笑むと、エドワーズが「それなら」と手を挙げた。


「別の機会に私が少しご説明しましょうか。このあたりは、聖職者や神官の基礎知識でもありますし」

「お、お願いします。みんなで聞きにきます」


 ステラは少し前のめりになって神父の提案を受け入れる。カーターあたりはすでに知っていそうだが、情報は共有しておくに越したことはない。


「承知しました」


 エドワーズが、恭しく――おどけたような雰囲気も醸し出しながら――頭を下げる。そんな彼を見ながら、今度はレクシオが口を開いた。


「あと、セルフィラ神族の目的について、もうちょっとはっきりさせたいっすね。一番手っ取り早いのは、奴らに接触することだけど」

「そうね……直接問いただしたところで教えてくれるかはわからないけど、変に裏から探るよりはいいかも」


 片翼の言葉にステラはあっさり同意を示したが、対面の大人二人はぎょっと目を剥いた。


「な、なりません!」


 フィンレイ神官が即座に声を上げ、青ざめた顔を二人に向ける。焦りと否定を向けられた当人たちは、きょとんとして目を瞬いた。神官は彼らの反応を見ると、深呼吸する。顔面蒼白なのに変わりはないが、どっしりとした雰囲気は戻ってきた。彼は、咳払いして、厳しい目を二人に向ける。


「御自ら邪神のもとに出向かれるなど、危険すぎます。私は反対です」

「え……ですけど、俺たちって女神の代理人なんでしょう? むしろそういうことはすすんでやるべきでは?」

「女神の代理人だからこそ、でございます。『翼』のお役目は何も、邪神と戦うことだけではありません」


「そういうものか」と書かれた顔を二人が見合わせていると、フィンレイ神官は顔をしわくちゃにして、ため息をこぼした。隣で若い神父が苦笑している。


「エドワーズ神父も何か仰ってください」

「私に何かを言う権利はありませんよ。『銀の選定』のとき、みなさんに『守り』をお願いしてしまった身ですし」


 エドワーズはいつものようにほほ笑んで、そんなことを言う。神官の眉間のしわがいっそう深くなった。


 ステラとレクシオは、合わせ鏡のように首をかしげあう。二人の困惑を察したのか、結局はエドワーズが軽く咳払いした。


「まあ、お二人から何かしなくてもセルフィラ神族はやってくるでしょうし……今は、休息と情報共有に専念なさるのがよいと思いますよ」


 それもそうだ。神官は釈然としない様子であったが、『翼』の二人はあっさりと彼の言葉を受け入れた。



     ※



「『翼』のお役目、かあ。そういえば、きちんと考えたことなかったな」


 教会からの帰り道。ひと気のない路地の中で、ステラはふと呟く。少し前の神官の言葉を思い出していたのだった。


「とにかく人間離れしたやばい奴らが襲ってくるもんだから、彼らと戦わなきゃ、自分とみんなを守らなきゃ、って。そればっかりだった」

「ご安心を。正直、俺も同じように考えてたから」


 隣、というより斜め後ろを歩いているレクシオがのんびりとした調子で返す。


「セルフィラ神族とは、結局戦うことになるだろうしな」


 その声は、薄暗い路地の静寂をかき乱して揺蕩たゆたった。ステラは、ほんの一瞬足を止める。


 戦いと聞いて思い出すのは、ラメドを消滅させたあの瞬間だ。相手の体を貫いた剣。なんの手ごたえもなかった。なかったはずなのに、血の熱と肉の感触が両手に残っているような気がする。あれを繰り返すのか、と考えると、背筋が寒くなった。


 やらなければならないことだ。それはわかっている。『翼』だから、というだけではない。


『アインを……あの子を、解放してやってくれ』


 みずからを「裏切り者」と呼んだ神の、最期の願い。それをステラは受け取った。受け取ったからには、果たさなければならない。アインは怒りと憎悪をもって、ステラに牙を剥くだろう。そのときは、きっと、正面から彼女に剣を向けることになる。


「スーテラー」


 間延びした声が、ステラのすぐ近くで響いた。それは、彼女の意識を強引に今へと引き戻す。扉の開閉の音が小さく聞こえて、どこかから漂ってきた苦い臭いが鼻をついた。炊煙か、石炭か、石畳か。それらすべてが絶妙に混ざり合っている気もした。


 声の方を振り返る。レクシオが真剣な顔でこちらをのぞきこんでいた。時折あやしく光る緑の瞳が、いつもより大きく見える。ステラはどきりとして、息をのんだ。


「な、何」

「なーにを鬱々と考え込んでたんですか」

「う、鬱々とって」


 ステラは慌てて彼から距離を取り、足早に歩き出す。レクシオは動じた様子もなく、変わらぬ歩調でついてきた。足音を聞きながら、ステラは重い口を開く。


「また、になるんだろうなって。考えてたのは、それだけ」

「……そっか」


 応じる声はささやきのようで。けれど、しっかり耳に届いた。


 ステラは、その音に誘われるようにして、言葉を繋いだ。


「彼らは人じゃない。アーノルドさんはそう言ってくれたし、その考え方は間違ってないと思う。戦場では、ある程度割り切ることも必要だから」

「そうだな。先生たちもそう言うよな」


 うなずく。そして、かぶりを振った。


「でも、なんかさ……やだな、って思っちゃったんだ。人でも神でも、殺し合いは、いやだって」


 今度、レクシオは答えない。ステラはふっと嘲笑をひらめかせ、足を前に出す。


「甘いよね、あたし」


 兄や祖父に聞かれたら叱られそうだ。そんなことでは守るべきものを守れない、と。自分でもそう思う。守って支えると、誓ったはずの自分がこんなことでは、先が思いやられる。


「いいんじゃねえの、それで」


 肩を叩かれた。ステラは弾かれたように振り返る。彼女に追いついてきていたレクシオが、肩をすくめてほほ笑んだ。


「俺だって殺し合いは嫌だよ。たとえ神様相手でもさ」

「レク」

「……親父だって、本当は嫌だと思う。きっとディオルグさんだって」


 続いた言葉に、ステラは目をみはる。風雪の先で初めて見た、男の顔を思い出した。冷ややかで、けれど悲しそうな瞳を。


「嫌だって気持ちと、戦場での割り切りは、きっと別物だ。それに……そういう気持ちは、忘れちゃいけないと思う」


 レクシオはステラを見ていた。だが、同時にどこか遠くのことも見ているような気がする。故郷を失い、母親を亡くした日のことか。恩人の死を見たときのことか。もっと別のことなのか。ステラにはわからない。


 わかるのは、レクシオのほほ笑みがいつもより儚く、やわらかいということだけだ。


「だから、ステラはそれでいいさ。おまえよりいくらか切り替えの早い奴が、上手く回すんだろうから」


 彼は己の顔を指さして、そんなふうに締めくくる。ステラが呆然としていると、彼の相貌に悪戯っぽい笑みが戻ってきた。――いつものレクシオだ。


「おまえは一人じゃない。もう、一人にしなくて済むからな。言っただろ?」


 ステラは思わず吹き出した。それから、半歩下がってレクシオの背中を叩く。少し強めに、力を込めて。


「そうだね。……ありがとう」


 レクシオは、よろめきながらも「どういたしまして」と返した。体勢を立て直した彼の横で、ステラは己の頬を軽く叩く。


「あたしも頑張ってみるよ。レクに頼り切りじゃ、格好つかないからね」

「格好つける必要があるのか」

「あるわよ。一応、最高位の聖職者でしょ、あたしたち」


 ステラが頬を膨らませると、レクシオはからりと笑う。


「そんじゃま、ほどほどに頑張れ」


 軽い言葉を放つと同時、彼はうんと伸びをした。


「さーてと。帰ったら魔力の調整でもやるか」

「え、それならあたし付き合うよ」

「付き合うって……おまえの方でもやることあるでしょうに。課題とか家事とか」

「課題は今夜ソッコーで終わらせる! いえのことは、多少ならミントおばさんにお願いできるでしょ」

「そうかい。それなら、お願いしようかね」


 明るい笑い声が路地に弾ける。ステラも釣られて笑った。頭の中で予定を組み立てながら、軽やかに駆け出す。幾重いくえにも重なりあった人の声と馬蹄の響きが、ふわりと二人を包み込んだ。

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