第119話 身の上話と貴石の腕輪 1

 追及されてが出る前に撤退した方がいい。そう判断したレクシオは、逃げるように武器屋を後にした。鈴の音を背中に受けて、深く息を吐く。


 まったく、『翼』も楽じゃあない。レクシオは胸中で呟いて苦笑した。同じ立場に立って初めて、幼馴染の悩みや心労の一片を理解できた気がする。


 背伸びして、深呼吸。そうして気持ちを切り替えたレクシオは、来た道を戻っていった。荒れた道。ねばつく視線。靴をこする土の感触。どれにも動じず、むしろ懐かしさを噛みしめながら、表へ向かって歩いていく。


 その途中、道幅の広い通りから小路へ入ろうとしたとき、ふいに大きな音がした。人の声のようだ。網の目のごとく広がる路地のひとつから響いているらしい。苛立っているのか怒っているのか、激しく何事かをまくし立てている様子がうかがえる。レクシオは、音に釣られて声のした方を振り返った。


 ――そのときだ。


「この裏切り者! 二度と来るんじゃねえ!」


 今までで一番大きな、女性の声が聞こえたのは。


 女性の声だったことに、レクシオはそこで初めて気がついた。荒々しく、それでいてどこか暗い、しゃがれ声。こういう場所では珍しくもないものなのに、なぜかレクシオはその声に気を引かれる。しかし、ほどなくして我に返ると、強く首を振った。


 このあたりの住人が揉めているのだろう。部外者のレクシオが首を突っ込んだところで、何にもならない。むしろ、彼自身の身が危うくなる。


「……帰るか」


 少年は呟いて、小路につま先を向けた。



 伸びる道は、変わらず暗い。昼にもならぬ頃だろうに、そこだけ夕方のようだ。レクシオは臆することもなく歩いていたが、途中でまた足を止める。後ろから、足音が近づいてきていることに気づいたのだ。しかも、聞き覚えがある。


「あれ? レクじゃんか」


 ほどなくして、少年の声が彼を呼んだ。レクシオは振り返って目をみはる。


「トニー」


 そこにいたのは、魔導科生にして『クレメンツ怪奇現象調査団』の古参メンバー・トニーだった。見慣れた外衣コートと帽子を身に着け、いつもの皮肉っぽい笑みを浮かべている。しかし――彼の姿は、明らかにいつもと違った。


「何してんの、こんなとこで」

「いや……それ俺の台詞なんですけど」

「俺はほら、昔の仲間のところに顔出しに行ってただけよー」


 トニーは、愕然としたレクシオの質問に答えながら歩み寄ってくる。体が弾んだ拍子に、帽子や衣の裾から尖った破片がぱらぱらと落ちた。陶器だろうか。


 そういえば、トニーはもともと路上生活者だった。


 思い出したレクシオは、頭をかいて、一度前を向きなおす。


「俺は……武器を修理に出してきた帰り」

「武器? あっちって、武器屋か鍛冶屋あったっけ?」


 猫のような両目を瞬いたトニーに、レクシオは苦笑を向ける。「一軒だけあるんだよ、武器屋」と答えたのち、その目を細めた。


「トニーは、お仲間と喧嘩でもしたのか? 頬腫れてるし」


 レクシオが右の頬をつつくと、トニーはきょとんとしてそれに倣う。自分の頬が赤くなって少し膨れていることに、そこで気がついたようだ。うげっ、と濁った声を上げる。


「えー……さっきまでこんなじゃなかったのに」

「後から腫れたり痛みが出たりするもんでしょうよ、そういうの」


 げっそりとした呟きに、レクシオは呆れてため息をつく。トニーは、うええ、と情けない声を上げた。


「このまま寮に帰るのやだなあ。伯母さんに伝わったら面倒なことになる」


 伯母、という言葉を聞いて、レクシオは目を瞬く。やや遅れて、唐突に理解した。おそらくはその伯母がトニーの身元保証人なのだ。レクシオにとってのミントおばさんと同じである。


 短い間思考したのち、レクシオはトニーの腕をとる。すぐ近くで、猫目が大きく見開かれた。


「しかたねえな」

「ん? なんだい、レクシオ」

「いいから。ついてきなさい」


 レクシオは、首をかしげるトニーを連れて、跳ぶように歩いていった。



 表と裏を繋ぐ小路を進む。その途中、レクシオはある建物の前で足を止めた。三階建ての集合住宅。淡い黄色の壁と小さな窓が印象的だ。今は廃屋となっており、人の気配は微塵も感じられない。


 レクシオは集合住宅の正面扉を強引に押し開けると、トニーの手を引いて中へ踏み込んだ。扉が軋む耳障りな音は、聞かなかったことにする。


「お、おいレク。こんなところに何の用事だよ」


 トニーの震える声が、真っ暗な玄関広間エントランスに反響する。


 レクシオは、両目を見開いた友人をこともなげに振り返った。


「俺と親父が帝都に潜伏してた頃に寝泊りしてた場所だ。ここなら人も来ないだろ」


 まだあって助かった、と呟いたレクシオは、空間の中央あたりでトニーを手招く。放置されたままの長椅子にみずからの外衣コートを敷くと、彼の肩を叩いた。


「ほれほれ、座りなさい」

「なんなのさ」

「いいから」


 レクシオが穏やかに言葉を重ねると、トニーはようやく長椅子に座った。ぶつくさと文句を言いながら、ではあったが。


 レクシオはそんなトニーの横でしゃがむと、虚空である構成式を編み上げる。それが済むと、友人の腫れた頬に手をかざした。


「はい、動かないでくださいねー」


 そんな、気の抜けた呼びかけの後、構成式が弾ける。トニーがわずかに瞠目した。腫れた個所に光が集まり、広がる。火花のように散った光が完全に消える頃には、少年の頬の赤みもすっかり引いていた。


 感覚の変化からそれを察したのだろう。こわごわと頬を触ったトニーが、レクシオを振り仰ぐ。


「……びっくりした。レクシオって医療系の魔導術も使えるのか?」

「とんでもない。そっちは専門外だ。今のはただ腫れと痛みを抑えただけ。だから、寮に戻ったらちゃんと診てもらえよ」


 腰に手を当てたレクシオがそう言うと、トニーは「あー」と情けない声を上げた。けれど、ほどなくして目もとを緩める。


「でも、見た目が派手じゃなくなっただけいいや。ありがとうな」

「どういたしまして」


 レクシオも笑い返した。が、すぐに表情を改める。


「で? 昔の仲間と何があったんだよ」


 問うた後で、「ま、話したくなけりゃ詮索はしないけど」と軽く付け足した。しかしトニーは、苦笑してかぶりを振る。


「これはあいつらにやられたわけじゃないよー」

「ん? じゃあ誰に――」

「俺を産んだ人」


 トニーは笑顔で、けれどぴしゃりと答える。レクシオはしきりにまばたきして、友人を見つめ返した。一瞬、言葉の意味が呑み込めなかったのだ。


 ややあって、音が言語として頭に入ってくる。


 彼を産んだ人――それは一般的に、彼の「母親」と呼ぶのではないか。


「あの人に顔見せる予定はなかったんだけど、ばったり出くわしちゃってさあ。一方的に怒鳴られて殴られちまった。とんだ災難、ってやつだ」


 笑い含みの声が語る。それが、レクシオにはひどくむなしく聞こえた。


 少し前、裏通りで聞いた女性の声を思い出したのは、偶然ではないだろう。裏切り者、と誰かを罵る低い声。あれは、きっと――


「トニー」

「ん?」

「もしかして、ちょっと前に裏通りにいたか?」


 確信を抱きながらも、レクシオは問いを舌に乗せる。トニーはきょとんとしていたが、やがてその相貌にほろ苦い微笑が広がる。


「あー……ひょっとして、聞いちゃった? 裏切り者ーって叫び声」


 案の定だ。レクシオがうなずくと、トニーは右手をひらりと振る。


「すまんかったね。嫌な気分になっただろ」

「いや……」


 曖昧に答えたレクシオは、「やっぱり行けばよかった」とこぼす。無意識のことだった。耳のいいトニーは、その小声をばっちり拾ったらしい。彼の方を見て、首を振った。


「レクの判断は正しいさ。あんな場所で怒鳴り声のもとに行こうもんなら、何されるかわからない。そんな危険なことしちゃだめよ。病み上がりなら、なおのこと」


 返る声はやわらかい。それでもレクシオが黙っていると、トニーは笑顔で自分の頬をつついた。先ほどまで腫れていた箇所だ。


「ここ、治してくれただろ。わざわざ人目を避けてさ。それだけで十分以上にありがたいよ」


 それを聞いて、ようやくレクシオも相好を崩した。


「なら、よかった」

「うんうん。それでいいのよ」


 トニーは勢いをつけて立ち上がる。下に敷いていた外衣を回収して軽く丸めると、レクシオに差し出した。


「さ、行こうぜ。昔の君らにゃ悪いけど、こんなところに長居したらかびが生えそうだ」


 レクシオは苦笑して外衣を受け取った。

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