第114話 つかの間の歓喜

 少し時をさかのぼる。


「黒い獣たちを倒す手段が見つかった。皆は、奴らを私の方へ引きつけてくれ」


 ラキアス・イルフォードの言葉として発された、新たな指令。それは、軍人たちの口と足によって、瞬く間に広場中へ伝わった。


 当然、それは軍人に混じって奮闘している学生たちの耳にも、届いている。


「え、倒せるの? まじで?」


 風雪をかき集めて獣を吹き飛ばしたトニーが、歓声を上げる。彼は、ついでとばかりに旧友のまわりを防壁魔導術で覆った。


 その旧友は、トニーの斜め前で次々に獣たちを殴り飛ばしている。寡黙な少年は、喜びの声を聞いて眉を寄せた。


「倒せるというのなら、具体的な方法を教えていただきたいものだな」

「ラキアス様の方へ獣たちを誘導しろ、という指示しかないようですね。ラキアス様にしかできないこと、でしょうか……?」


 オスカーの隣で呟いたのは、避難誘導から戻ってきたシンシアだ。彼女は難しい顔をしながら、白い指をくいっと曲げる。黒い軍勢に、氷刃の雨が容赦なく降り注いだ。

 濁った悲鳴と氷の音を聞きながら、オスカーがシンシアの方へ視線を動かす。


「それか、同じ場所にいる誰かにしかできない、か」

「ラキアスさんのまわりって、今、誰がいるんだ?」

「確か、現在地は広場の南東あたりだったはずですが――」


 三人は言葉を交わす。もちろん、勢いの衰えない獣たちをさばきながら、だ。いっとう大きな集団を後退させ、一息ついたオスカーが目をみはる。


「南東?」


 低い声が、わずかながら裏返っていた。この少年には珍しいことだ。トニーとシンシアも、つかの間動きを止める。


「それ、さっき光が落ちていった方角じゃないか」


 言われて、二人も瞠目した。


 金色の太い光が聖堂の裏側から立ち昇り、広場のどこかへ落ちていった。もちろん彼らも、非現実的なあの光景を目撃している。


 学生たちは顔を見合わせる。答えはすぐに出た。隠された神話を知る彼らにとって、正解に辿り着くのは、そう難しいことではない。


「――『翼』か!」



     ※



 金色をまとった金属の糸が、獣たちを容赦なく打ち据える。断末魔の叫びを上げた獣たちは、黒いものを吹き上げると、骨も残さず消えた。黒いものは、彼らにとっての血液なのだろうか。煙のようでもあり、すすのようでもあるそれは、彼らの不気味さを際立たせた。


 鋼線は意思を持っているかのようにしなり、向きを変えると、下降してきた鳥に巻き付く。しばし締め上げられた鳥は、嫌な音を立てて弾け飛んだ。


 ひとまず周囲から獣がいなくなると、鋼線はしゅるしゅると縮む。柄に糸を収めたレクシオは、あいた手を額にやって、うめいた。


「大丈夫かい」


 ラキアスが声をかけてくる。乱戦の中にあって、目ざとく変化を見て取ったらしい。レクシオは苦笑して、肩をすくめた。


「ちょっと頭痛がしまして。大丈夫、一瞬でした」

「……それは大丈夫とは言わないよ」


 ラキアスが目をすがめる。非難の色がありありと表れていた。それでも彼は、少し休め、などとは言わない。いや、のだ。こうして会話している今も、黒い群れがこちらへ向かってくるのが見えている。


 わかった上で、レクシオはあえていつものようにほほ笑んだ。鋼線をいつでも出せるように構えつつ、片手で簡素な構成式を組み立てる。


 そばでやり取りを聞いていたミオンが、そっとレクシオの方を見た。


「あの……それってもしかして、『金の魔力』? の影響でしょうか?」

「かもなあ」


 少女のささやきに、少年は頭をかきながら応じる。


「とんでもねえ魔力だもんよ、これ。体の中焼かれてんじゃねーの? って感じする。気を抜いたら、おれの方がのまれそうだ」


 精いっぱいおどけてみせたつもりだが、成功したとはいえないだろう。ミオンとカーターが、同時に顔を歪めたのだから。レクシオは頬を引きつらせたが、それ以上言葉を繋げることはしなかった。代わりに、獣の軍団を見据える。


 ステラはよくこんな魔力に体を慣らせたものだ。浮かんだ思いは、泡のように消えた。思考はまっさらになり、緊張が全身を満たす。


「ま、嘆いてもしょうがねえや」


 少年は指を躍らせて、構成式の最後の一文字を刻む。ひし形を基礎とした簡素な構成式は、黒い群れに向かって滑り、その真上で弾けた。破裂音が響き渡って、地平線に白い飛沫が高々と上がる。術の発動を見届けたレクシオは、飄々として共闘者を振り返った。


「この場では俺にしかできないことなんだから、やるしかねえよ」


 三人は、それぞればつが悪そうな顔でうなずいている。


 再び、低い音が地面を揺らす。同時、甲高い声と羽ばたきの音が空を覆った。獣たちをにらみすえ、「その通りだな」と呟いたラキアスが、剣を構える。ミオンとカーターも、それぞれに臨戦態勢を取った。


 ラキアスと並んで立ったレクシオは、鋼線を少し伸ばす。『金の魔力』を細く、通した。


「その代わり、誘導は任せますからね。皆々様の働き次第で、対処のしやすさが変わりますんで」


 あえて声を張ったレクシオの言葉を聞き、他の三人が視線を交わす。剣を獣に向けた青年と少女が、凄絶な笑みをのぞかせた。


「そのくらいなら――」

「お任せあれ!」


 獣たちが一斉に吠え、鳴き、飛び出す。ミオンとラキアスが同時に駆け出した。彼らは身を低くして群れの死角に回り込み、思い切りのいい攻撃を仕掛ける。


 ラキアスの剣戟に圧された群れが散らばりはじめ、うち数頭がレクシオの方へ逃げてきた。むろん、それを見逃すレクシオではない。おびえている獣たちの足もとに、黄金色の鋼線を叩きこんだ。魔力は火花のごとく爆ぜる。獣たちの脚から黒いものが噴きあがり、悲鳴があたりを包んだ。レクシオはすかさず虚空に構成式を投げかける。集まって硬くなった雪が降り注ぎ、乾いた音を弾けさせる。十頭近くの獣が、文字通り塵と化した。


 別の方向に逃げていた獣たちも、怒ったように少年の方へ駆けてくる。ミオンの剣やカーターの術で誘導されているようだ。今も、逃げようとして横から突きの一撃をお見舞いされた獣が、飛び退って方向転換した。ミオンは半身のままで狂乱する獣たちを見つめ、剣先で虚空をなぞる。黒茶の瞳が淡く輝き、視線の先の獣たちが急に勢いを失った。


 ――他家の『継承術』については、わからないことの方が多い。効力だけでなく、発動の手順や構成式の基本構造すらも、術によって異なっているからだ。レクシオは、ゼーレ家の術の概要を知っていても、それがどのようにして発動されるのかは知らない。目の前で披露されても、何が起きているのかほとんど分析できなかった。


 興味はある。だが、他家の機密に手を出さないくらいの分別ふんべつはあるつもりだし、詮索している暇もない。だから素直に感嘆の吐息だけをこぼして、すぐに獣たちへ意識を戻した。


 うなだれた獣たちに、『金の魔力』を放つ。命令を与えられていない力のかたまりは、獣たちの胴体や頭を容赦なくえぐった。あっという間に、数頭が消え去る。そこから逃れようとした獣たちは、小さな防壁魔導術に阻まれて、反転を余儀なくされる。苛立たしげな獣たちから少し離れた場所で、顔をこわばらせた少年が、構成式を組み続けていた。


 そんな調子で、黒い鳥獣は次々と倒されてゆく。倒せるのは現状、レクシオ一人だ。ゆえに、瞬く間に討伐、とはいかない。けれど、戦場の獣の数は目に見えて減っている。幾人かの軍人が、安堵の息をこぼし、歓声を上げたほどに。


 空に灰色の幕がかかった頃。戦場にまた、前向きな変化があった。


 ミオンの剣が、鹿のような獣の首を捉える。低い声を上げて倒れた鹿は、すぐに起き上がり、逃げ出した。レクシオとはまったく別の方向に。


「あっ」


 少女は焦りをにじませる。しかし、彼女の声が消えるより早く、鹿の顔面に何かが激突した。それをまともに受けた鹿は、凄まじい勢いで後ろに吹っ飛ぶ。その先には――レクシオが立っている。


「のわっ!」


 自分の方に迫ってくる黒い物体を見て、少年はのけぞった。それでも、とっさに魔力を放ち、鹿を消滅させる。本能と日ごろの鍛錬の賜物だった。


 鹿だった黒いもののむこうから、体格のいい少年が駆けてくる。彼は、レクシオとミオンに向けて、小さく頭を下げた。


「すまん。やりすぎた」

「お、オスカーさん! ありがとうございます!」


 ミオンが目を見開いて、少年にお礼を言う。オスカーは、軽く瞠目した後、視線をさ迷わせた。一方のレクシオは、引きつった笑みを浮かべる。


「いや、アレを殴り飛ばすとか……部長の腕力、どうなってんの?」

「加減を間違えた」

「そういう問題でもない気がするけど」


 そんなやり取りをしながらも、オスカーは雪の下から顔を出した黒い鼻面をつかんで、投げる。モグラのようなものが、清々しいほど勢いよく空中に投げ出された。金色をまとった鋼線がそれを捉え、あっさり切り裂く。


「まあ、助かったのは確かだ。ありがとう、オスカー」

「ああ。役に立っているならいい」


 オスカーは淡白に返してから、目を細める。


「それで、『金の翼』はおまえというわけか。レクシオ」

「ご覧の通りで」

「……そうか」


 寡黙な少年は、鋼線を一瞥して眉間にしわを寄せる。案外わかりやすいな、などと思いながら、レクシオは戦場を見渡した。


 ラキアスの指示と人々の努力のおかげで、獣たちは続々と彼の方に集まってきている。それだけでなく、他の学生たちも彼らに気づいて走ってきていた。レクシオたちが徐々に戦場を移動していた、というのもあるだろうが。


「おや、オスカー。レクシオくんも!」


 陽気な声が、黒いもやを切り裂く。ジャック、ナタリー、ブライスの三人が、連れだって駆けてくるところだった。おまけに彼らは、いくらか獣を引き連れてきたらしい。「これ、こっちで合ってんの!?」と涙目で叫んだナタリーに苦笑を向けて、レクシオは鋼線を長く伸ばして、勢いよく振った。


「合ってる合ってる」


 軽い応答と同時に、鋼線が獣――巨大な熊のようだった――の頭を直撃する。真っ二つに割れた獣は、黒いものを派手にまき散らして消えた。あたりがつかの間、薄墨色に染まる。それはすぐ、横殴りの雪に上書きされた。


 沈黙が降りる。吹雪のむこうで、ジャックたちが唖然としていた。三人が三人とも、両目をこぼれんばかりに見開いて、熊のいた場所とレクシオを見比べている。


「熊さん、消えた……?」

「い、い――今の、って」


 かすれ声をこぼしたブライスに続いて、ナタリーがうめく。呆然としている赤毛娘と違い、彼女はしっかりとレクシオの方を見ていた。レクシオは鋼線を少し縮めて、いつかと同じ言葉を舌に載せる。


「どうも、そういうことらしい」


 ナタリーが口を開きかけた。だが、彼女の発言は轟音にかき消される。彼らの視界の端が一瞬、橙色に染まった。直後、大型の獣が吹っ飛んでくる。それは学生たちの前を通り過ぎ、重い音を立てて落ちた。「これは大物だ」などと呟くどこかの令息の声がする。


「オスカー!」


 美しい高音が、『ミステール研究部』部長の名を呼んだ。オスカーは声のした方に目をやると、わずかに眉を上げる。


「シンシア」

「おや、トニーも」


 親友の後ろからひょっこりと顔を出したジャックが、意外そうな顔をする。オスカーからやや遅れて合流した二人は、すすけたように見える空を仰いで、首をかしげた。


「うわっ、なんじゃこりゃ」

「先ほど、ものすごい魔力を感じましたけれど……何かありましたの?」


 少女の問いに、部長はすぐには答えなかった。一瞬、離れたところに目をやる。視線の先にいるラキアスは、獣たちを誘導しながら、合流した軍人たちと何かを話していた。


「……多分、『金の翼』とやらのしわざだ。さっき、そいつがでかい熊の頭を叩き割った」


 ささやいたオスカーは、レクシオを振り返る。湿っぽい視線を受け止めた少年は、曖昧に目を細めた。


 再び気まずい沈黙が落ちる。シンシアがやはり瞠目していて、その横でトニーが帽子をつまんで下げている。しばらくして帽子の端を持ち上げた少年が、レクシオをじっと見た。


「えー……それ、まじ?」

「『金の翼』の件? それとも熊の件?」

「両方」

本当まじ


 レクシオは、ひらりと手を振る。対してトニーは、長く息を吐いた。


「まじか……。最高で最悪の人選してくれたな、ラフィア神」

「――いや」


 彼の言いたいことはわかる。だが、レクシオはかぶりを振った。驚きと疑念の視線を感じながら、鋼線を再び伸ばす。こうもりのような獣の姿を上空に見つけ、それに狙いを定めた。


「今回のは、ラフィア神の選択じゃない」


 得物を振る。金の輝きをまとった糸が、白い空に伸びて、こうもりたちを薙ぎ払う。


「――ステラの選択だ」


 弾け飛び、散る、黒いもの。それを見届けて、レクシオは学友たちを振り返る。絶句した彼らの顔を見渡して――かすみのような微笑を浮かべた。


「ああ。やはり、そうなりましたか」


 突如、どこからか声が響く。


 甲高く、けれど妙に静かな声だ。


 レクシオは顔を上げ、周囲を見渡す。彼や学友だけでなく、軍人やラキアスも驚いたようにしていた。


 ぱん、ぱん、と。ややくぐもった、拍手の音。妙に大きく聞こえるそれは――聖堂の方から響いていた。


「しもべたちの気配が急に減ったものだから、何事かと来てみれば……ずいぶんと愉快な状況になっていますね。なりたての『翼』を少々侮っていたようです」


 寒風が吹き抜ける。獣たちが一斉に退いた。


 レクシオたちは聖堂を仰ぎ見る。壮麗な屋根と塔の前に、小さな人影が浮いていた。


「誰だ? ……セルフィラ神族か?」

「大正解」


 レクシオの鋭いささやきを拾って、声の主は笑った。どこまでも無邪気に、残酷に。


 その人物は、両手を掲げた。すると、彼の頭上に青白い光球が生まれる。人影が、明確な形と色を帯びた。その姿は、おそらく、少年。


 学生のうち何人かが悲鳴を上げ、レクシオは目を細める。現れた少年に、見覚えがあったのだ。


「お久しぶりです、魔法使いのおにいさん」


 繊細な相貌が、宝石のような青い瞳が、いびつにほほ笑む。


「セシル、くん……?」


 ミオン・ゼーレの震え声が、レクシオの耳に届いた。

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