第113話 人と神

 アーノルドが仕掛けた魔導術の影響だろうか。雪と風の冷たさが、奇妙に遠く感じられる。


 腰に吊った剣の感触を確かめたステラは、慎重に第一歩を踏み出した。


 一歩、一歩、確かめるように、前へ。――そう経たぬうちに、敵の姿を捉える。


 アーノルドいわく、基本的に今、敵がこちらを認識することはできないらしい。が、ラメドはうかがうようにしつつも、確実にステラの方へ歩いてきていた。神様ゆえの感覚が備わっているのかもしれない。


 ステラは動じていなかった。想定の範囲内だ。その場で足を止め、静かに剣を抜く。両手で握って、構えた。


「ステラさん」


 かたわらから、捜査官の声がする。


「そろそろよ。準備はいいかい」


 肝心なところをぼかした言葉。ステラにはそれだけで、十分だった。


「お願いします」


 うなずいて、心を平らにして、答える。


 次の瞬間、。寒さが襲いかかってきて、乱舞する雪が頬を打つ。


 それらを認識すると同時に、ステラは駆け出していた。相手の表情は見ていない。見るのは体の動きだけ。感じるのは気配と殺意だけ。


 身を低くして、できるだけ速く走る。相手の死角に回り込み、石畳を蹴って前へ飛び出した。同時に剣へ魔力を通し、それを勢いよく振りかざす。手ごたえはない。大丈夫、わかっている。突きの一撃をすんでのところでかわしたステラは、あえて前に踏み込んだ。剣を下から跳ね上げて、刃の腹で相手の腕を強く打つ。銀の光が白い火花を散らし、それから雷電のように男の腕を駆け巡る。ラメドは舌打ちをこぼすと、素早く身を引いた。相手の呼吸に合わせるように、ステラも飛びのく。


 距離が開いた。その瞬間、両者のはざまで細かい雪が舞い上がる。ラメドが何かを呟いたのが聞こえたが、それは風のにかき消された。ステラはりきんで息を止め、雪煙の中に突っ込む。


 冷気が全身を切り刻むかのようだ。けれど、その痛みを感じたのも一瞬だけ。ステラの意識は、すぐに敵の方へと向けられた。


 立ち込める白の中、男の瞳がこちらを見る。同時に繰り出された斬撃を二度、ステラは走ってかわした。短く息を吐いた少女は、下から斬り上げるように剣を振る。白銀の軌跡が雪煙を切り裂いた。


 重い手ごたえ。けれど決定打には程遠い。ステラは舌打ちをこらえ、さらに踏み込む。そのとき、視界の端で紫電が爆ぜた。蜘蛛の巣状に迸った雷電は、容赦なく襲いかかる。

 肝が冷えた。それでもステラは、前進を止めなかった。相手の頸めがけて突きを繰り出す。切っ先が到達する寸前でかわされた。白と紫の光が、少女の視界を覆う。


 ステラが紫電にのみこまれる直前、ラメドの頭上から光球が降り注ぐ。雪にまぎれた光の球は、次々に紫電を打ち消し、神族の体すら捉えた。ラメドは両手を使って光球を振り払っている。その指先から白い炎のようなものが吹き出し、それが光球を消し飛ばしているようだ。


 いらだたしげにしているラメドを尻目に、ステラは身をかがめる。回り込むように駆けて、飛びつくように得物を振った。一合、二合、三合と、打ち合いが連続する。交わる剣の隙間で、ステラはふっと目を細める。刃の角度を微妙に変えて、そのまま相手の方へ押し込んだ。ラメドが瞠目する。彼は、押し込まれた刃を、首をひねって避けた。


 ぎりぎりと絡み合っていた刃が、甲高い音を立てて互いを弾く。とっさに地面を蹴ったステラは、肩で息をして相手をにらんだ。


 ほんの一瞬、ラメドの剣の先が腕をかすった気がする。けれど、皮膚に傷がついた気配はない。分厚い服と捜査官の魔導術が、ぎりぎり守ってくれたらしい。危なかった、と胸中で呟いた。

 少女の視線の先で、ラメドがかぶりを振る。


「帝国軍の魔導士か。面倒な奴が来たものだ」


 正確には、帝都警察の魔導士だ。けれど、わざわざ教えてやる義理も必要もない。ステラが無言を返すと、男の小さなまなこが動いた。


 今、ステラのそばにアーノルドの姿はない。まともに捕捉されてはまずいということで、陰から援護をしてもらっている状況だ。だが、ラメドはきっと、彼の居所をある程度正確に察知している。手を出さない――あるいは、出せないだけだ。


 ステラは息をのんだ。視線は動かさない。息遣いも、なるべく変えない。その上で、捜査官の様子をうかがう。


 丁寧に、そして整然と整えられた植木。出入りする人々を見定めるかのような列柱。植木と小さな草花の陰にひっそりと並ぶ石碑。それらは何も、変わらない。変わらないものの上に、しんしんと雪が降り積もる。


 静寂の中にまぎれる音を拾い上げ、己と敵の呼吸を聞く。そしてステラは、魔力の揺らぎを合図として、雪を蹴った。


 真正面から敵に向かう。そんな彼女の動きに合わせて、いくつもの氷の弾丸が追ってきた。それはむろん、ラメドに向けられたものだ。


 斜め上から斜め下へ、切り裂くように得物を振るう。同時、数多の氷が男のもとへ殺到した。


 ラメドは己の剣で氷を次々砕き、ついでとばかりにステラの斬撃をかわす。避けきれなかった氷はまともに受けたが、男は顔色ひとつ変えなかった。揺らぎのない剣戟を『銀の翼』に叩きこむ。


 ステラは凶悪な斬撃をすれすれでかわし、後ろに跳んだ。彼女の背後から、青い炎が鞭のように伸びてくる。ラメドはこれも、いとも容易く叩き切った。距離を取ろうと体をひねったステラをにらみ、大きく一歩、踏み込んでくる。


 その刹那、雪が、ぼこっ、と音を立てた。一瞬前までステラがいた場所――今、ラメドが立っている場所の雪が生き物のように盛り上がり、男の足を覆う。


 ラメドの相貌に、明らかな動揺が走った。同時に、ステラは反転し、踏み込む。


 自分を鼓舞するように叫び、剣に全身全霊の魔力を注ぐ。そして、銀色を帯びたそれを、突き出した。明確に、的確に、相手の胸を狙って。


 衝撃と、嫌な手ごたえ。それを感じてもなお、体に、両腕に力をこめる。魔力が迸り、飛び出し、方々へ伸びていく。その感覚は激しい痺れとともに、ステラのうちへ伝わってきた。


 音が、消える。雪がすべてを塗りつぶしていく。互いしか見えない白の世界で、ステラは歯を食いしばり、ラメドは瞠目したまま全身を震わせた。


 短い、苦悶の声がする。あるいはそれは、声にもならない吐息であったかもしれない。それを聞き、ステラはようやく腕を引いた。剣が、男の胸からずるりと抜ける。深々と突き刺さっていたはずの刃に血はついておらず、肉を貫いた嫌な感触も、ほとんどなかった。

 ステラがそれを不思議に思ったのは、一瞬だけだった。疑問はすぐ、驚愕に上書きされる。剣を下ろし、やっと正面を見たステラは、目と口を開いて眼前の光景に見入った。


 ラメドの体が力を失い、後ろに倒れる。その肉体は淡い光を帯びていて、端から徐々にいっているように見えた。そう、まるで絡まった糸がほどけるかのように、するすると細く肉体が崩れ、光に変わっていっている。


「なんと、まあ」


 ぼやけ、かすれた声が、笑う。

 ともすれば聞き逃しそうなその音で、ステラはやっと我に返った。


「驚いた。人間となりたての『翼』が、ここまでやってくれるとは」

「ラメド……あなた……」


 ステラは思わず、半歩踏み出す。剣を収めることすら忘れていた。そして、陰に身を潜めていたアーノルドが歩み寄ってきたことにも、気づかなかった。

 ラメドはふっと目を細め、二人の人間を見つめる。


「いちいち気にすることはない。これが、神族の消滅だ」


 ステラは何も言えなかった。適切な言葉を見つけることすらできなかった。唇を開閉させつつも黙っている彼女を見て、ラメドが口もとに笑みを刷く。


「おまえは、ラフィアの名のもとに、使命を果たしただけだろう。敵の前で、そんな顔をするものではない」


 ステラは思わず、左手で頬に触れる。しかし、それで自分の表情がわかるはずもない。人肌とは思えぬ冷たさが、手袋越しに伝わってくるだけだった。

 淡い光の中、ラメドが再び口を開く。


「そう、だな……。そんなに気になると言うのなら……裏切り者の厚かましい願いをひとつ、聞いてはくれまいか」

「……願い?」


 ステラはラメドの言葉を反芻する。応答は、なかった。先の言葉を受諾するつもりでステラがうなずくと、ようやくラメドの口が動く。


「アインを……あの子を、解放してやってくれ」


 息をのむ。その音を発したのが自分だということに、ステラは数秒遅れで気が付いた。動揺と混乱をねじ伏せて、震える唇を動かす。


「どういう、こと」

「あの子はな……元々は、人間だったのだ」

「……え?」


 声が重なる。ステラは弾かれたように振り返り、そこでようやくアーノルドに気づいた。彼は見開いた目をラメドに向けていたが、少女の視線に気づくと、その表情のままで彼女を見つめ返す。


 絶句した人間たちをよそに、消えゆく神族は言葉を繋いだ。


「ラフィア信仰のあつい家に、生まれたらしい。だが、教会の兵士どもに両親を殺され、独りになった。私は、そんなあの子に声をかけた。あの子が――神の力を受け入れられる器だと、わかったからだ」


 ステラは最初、男のかすれ声を呆然と聞いていた。しかし、途中で、これが相当昔の話だということに思い至った。現在、教会は兵士や騎士団のたぐいを持っていない。過去、教会の腐敗により当時の聖職者と教会騎士団が暴走したことから、まとまった武力を持たないという決まりを作ったのだ。


「あの子は兵士どもを憎んでいた。同様に、ラフェイリアス教そのものも、憎んでいた。私はその感情に付け込んだ。あの子を町から連れ出し、神の力と『アイン』の名を与え、『セルフィラ神族』の一角として扱った」


 声は時々かすれて、途切れる。けれど、語りは絶えず、続いた。


「あのときは、それが正しいと考えていた。女神に傷つけられた子を救い、復讐の機会を与えるのは、セルフィラ様についた神として正しいことだと。だが……今のあの子を見ていると、とてもそうは思えない」


 肉体が、また、ほどける。ステラが気づいたときには、かりそめの体はもう、半分ほどが光に変わっていた。


「できれば……私自身の手で、神の呪縛から解き放ってやりたかった。だが、それはもう、できない。だから……君が、代わりにやってくれ。穢れてしまった神の力を払えるのは……ラフィア様か、『翼』だけだ……」


 消滅の光が強さを増す。人間たちの視界を覆いつくすほどだ。ステラは反射的に目を細め、それでもラメドから目を離さなかった。


 裏切り者の厚かましい願い。最前の、彼の言葉がステラの脳裏によみがえる。互いの立場を考えれば、それは事実を言い当てたものだろう。けれど、ステラには、人ならざるこの男がこぼした願いが、ひどく切実で痛々しいもののように思えた。


 だから、剣を収める。そして、彼のすぐ前に歩み寄って、膝をつく。光に変じた体に手をやる。指は何にも触れない。そこには手触りも温度もない。それでも、ステラは手を引かなかった。


「……わかった。あなたの願い、このステラ・イルフォードが受け取りましょう」


 ラメドはやわらかく目を細める。ありがとう、と口が動いたように見えたが、そこから音は生まれなかった。

 ほどなくして、再び動いた唇の隙間から、消え入りそうな音がこぼれる。


「あぁ……最後の最後に、こんな『翼』を私のもとへ寄越すとは……ラフィア様……あなたは、ほんとう、に――」


 その音を、ステラが最後まで聞くことは、なかった。その前に、すべてが光に変わってしまったのだ。雪に逆らうようにして昇っていた光が、水しぶきのごとく弾けて、消える。


 後には、何も残らない。残ったのは、勝者たる人間たちと降りしきる雪だけだ。


 ステラは、しばらく呆然としていた。甲高い風の音で我に返ったその後も、自らの指先をまんじりと見つめる。

 何にも触れなかった指。その先に、肉体の温度が残っているような気がしてならない。


「ああ――」


 白い吐息とともにこぼれた声は、自分でもわかるほどに揺れている。


「あたし、殺したんだ」


 吐いた言葉には、何もこもっていないように思えた。同じくらい、心も乾いている。情動も、思考も、すべてが風に吹かれる砂のようで、何一つまとまらない。裏切りの神が遺した「願い」だけが、胸の奥にこびりついている。


「……ステラさん」


 背後から、ためらいがちな声がかかる。ステラはようやく顔を上げ、声の主を振り仰いだ。セドリック・アーノルドが、苦々しそうな、あるいは心細そうな表情で見下ろしてきていた。


「彼は、ヒトの姿をとった神だ。人間じゃあない」

「……そうですね」


 アーノルドの言葉に、ステラは形だけうなずく。


 彼は人間ではなかった。人間ならば、この地上の生き物ならば、跡形も残さず消えることなどありえない。

 ステラは、人を殺したわけではない。彼はそう言いたいのだろう。彼女自身も、頭ではわかっていた。

 だが――


「でも、彼は生きていました。直前まであたしと言葉を交わし、剣を交えていました」


 やったことは、同じだ。

 人殺しと、神殺し。二つの間に、一体どれほどの差があるというのだろう。


 当惑気味に黙り込んだアーノルドに背を向けて、ステラは立ち上がる。だが、両足で雪を踏みしめて軽く頭を上げたところで、視界が歪んでふらついた。


 転びかけたステラの体を、後ろからたくましい腕が支える。一度は沈黙した捜査官が、呆れたような目を少女に向けた。


「まったく、動きすぎだ。毒が完全に抜けたわけではないんだぞ」

「す、すみません……」


 なんとか謝罪をひねり出したステラだが、すぐに力なくうなだれた。緊張が解けたからか、収まっていたはずの眩暈と吐き気が押し寄せてくる。


「ほら、背中に掴まって。おぶっていくから」

「そ、それは……いくらなんでも……あたし、結構重いですよ……?」

「私を誰だと思っているんだね。そんなことは気にしなくていい」


 ステラがしぶしぶ男の両肩に手を添えると、アーノルドは言葉通り抵抗なくステラを背負った。剣の重さも加わって、背負うにはしんどい重量のはずだが、捜査官は涼しい顔である。


 ステラは最初こそ全身をこわばらせていたが、気持ちの悪さに負けて、すぐ彼の背に身をゆだねた。


「あの……ありがとう、ございます……」

「どういたしまして」


 か細いお礼に、アーノルドはほんの少しおどけて返す。繕った明るい声に、ステラはうなずいたつもりだったが、実際そうしたのかはよくわからない。


 濁り水に浮いているような感覚の中で、まとまりのない思考をただ、かき集めていた。


「これが……『翼』であるってこと……なんですね」


 返答はない。ステラには関係なかった。ほとんど音が聞こえないのだから。


「これが、戦うってこと……なんですね」


 ただ、ただ、浮かんだものを言葉に変えて吐き出す。


 うわごとのようなそれに、けれど今度、アーノルドはうなずいた。ステラはそれを見ていない。


「……そうだな」


 静かに返したアーノルドは、少女を背負ったまま、雪をかき分けるように歩いていった。――もうひとつの戦場へ、戻るために。

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