第100話 心のさざなみ

 それからしばらくの間、案内も兼ねて十人で街を歩いた。陽が傾いてきた頃に『研究部』の四人とは別れ、すっかり馴染んだ六人で家に戻る。その頃にはイルフォード家で夕食の支度が始まっていたようで、扉を開けると同時に慌ただしい足音と調理の音が小さく聞こえた。


 夕食の席で、ステラたちはラキアスに『研究部』の四人のことを話した。特に何か意識したわけではなく、流れでそうなっただけである。

 昼間の出来事を知ったラキアスは、爽やかに微笑した。


「おもしろいことがあるんだねえ。これも縁、というやつかな」

「きっかけを作ったのは私なので、なんとも言えないですね……」


 心底愉快そうな兄に向かって、ステラは肩をすくめてみせる。それに対してラキアスは「悪いことではないと思うよ」と言った。確実に面白がっている彼にどう反応していいのかわからなかったので、ステラは「そう思うことにします」とだけ返して、食事に意識を戻す。


 ――その直前の、一瞬。ステラは視界の端に祖父の顔を捉えた。


 祖父の表情は相変わらず硬く、何を思っているのかわからない。ただ、目線などからして、子どもたちや学生たちの会話に意識を向けているのは確かだ。見守っているというよりは、観察や監視と受け取れてしまう視線だが、そういうものに比較的敏感なはずの『調査団』の面々は気にしていない。――というより、滞在しているうちに慣れてしまったようだ。最初は縮こまっていたミオンも、時折話に相槌を打ちながら普通に食事をしている。


 ステラ自身、家にいた頃はかなり委縮していた記憶があるが、今は祖父のことをそこまで怖いとは思わない。いや、怖いものは怖いのだが、いつも怯える必要はない、と考えられるのだ。


 どういう心境の変化だろう。ステラはパンを口に運びながら自分のことに思いをはせた。


 学友たちと兄の話し声が、時折耳に入ってくる。


「いや、お客様が増えたのはよいことだ。今年の冬の大祭も無事に開催できるよう、しっかり準備をしないといけないね」


 ラキアスの朗らかな声を聞き、ステラは咀嚼そしゃくを止める。無意識のうちに、視線がそちらへ向いていた。それに気づいたらしい兄の瞳が、彼女の方を見る。ステラは慌てて微笑を作った。


「……そうですね。せっかくの機会ですし、最後まできっちりお手伝いします」

「やあ、これは頼もしい。よろしく頼むよ、ステラ」

「はい」


 兄と姉のやり取りを聞いたリオンが、顔の前で手を挙げ「ぼくも、お手伝いがんばります!」と声を張る。ラキアスはにこやかにうなずいた。


「頼りにしているよ、リオン」


 兄と弟のやり取りを見つめたステラは、その後、意識して視線を外す。


 大祭のことを考えると、どうしても『金の選定』に行きつく。


 当日、何も起きないなどということは、ほぼありえない。セルフィラ神族が、女神像かステラ自身に何か仕掛けてくる、と思っていいだろう。だが、ラキアスたちはそれを知らない。ステラたちが話していないのだから当然だ。


 兄や祖父に『翼』の話をしなくて済むなら、その方がいい。『翼』のあり方を考えれば、そうなるように努力すべきだ。頭ではわかっていて、努力しようとも思っている。だというのに、ステラの胸は妙にざわついていて――胸騒ぎは、夕食の時間が終わっても収まらなかった。



     ※



 帝国領内のどこかにある、深い深い洞窟。光が当たると、その強さや向きしだいで内部が青にも紫にも見えるこの場所は、今はごくごく淡い紫色に染まっている。そして空間の中心には、誰かが灯したまるい明かりが浮いていた。大きさは大人の手のひらに収まるくらい。決して強くない光はだが、空間を過不足なく照らしだしている。


 ここを根城にする者たちは、基本的に明かりを必要としない。暗闇であっても、問題なく周囲を『視認する』ことができるからだ。

 だが、この洞窟には時折小さな光が灯される。それはある時期からの習慣で、たった一人のためのものだった。


「なんで! なんで、なんでよ!?」


 静寂に包まれていた洞窟に、突如金切り声が響き渡る。無言で座って洞窟の出入り口の方を見ていた大男が、のっそりと振り返った。彼は明かりの先に声の主――朱色の髪を二つに結んだ少女の姿を見出すと、のっそりと頭の向きを戻す。


 大男の反応を知りもしない少女は、ふたつ結びを振り乱しながら、そばにいる男の胸を叩いた。軍人のように体格のいい男は小動こゆるぎもしなかったが、困ったように眉を下げる。


「なんでついてっちゃいけないの! アタシもラメドと一緒がいい! 一緒じゃなきゃやだ!!」

「……アイン」


 ラメドは天を仰いだ後、慎重に少女の名を呼んだ。


「今回の行き先はシュトラーゼだ。おそらく、人間の中でも強くて厄介な者たちがたくさんいる。アインが行くには危険すぎる」

「そんなのカンケーない! 人間なんて、全部アタシが殺せるもん!」


 幼子はかたくなだった。ラメドは困り果てて口をつぐむ。こういうとき、どう言えばこの子の気が済むのかわからない。いや、わかっていたつもりだったが、今回のアインはラメドが見たことないほどの癇癪かんしゃくを起していた。


 今、ここにいるのはラメドとアイン、そして無言を貫くヌンだけだ。レーシュとギーメルは『金の選定』に備えて動き回っており、ダレットは別件で帝都にいる。特に、ダレットがいないのは痛かった。情愛と欲をつかさどっていた彼女は、その性質ゆえか、アインの扱いが上手い。


 そのダレットがいない以上、救いの手も答えも期待できない。短い間に頭を高速回転させたラメドは、なるべく穏やかな語調で少女に語りかける。


「私が心配なんだよ。私は、アインに危ない目に遭ってほしくない」


 アインは弾かれたようにラメドを見上げる。大きな瞳は雨粒のようにうるんで、不安定に揺れていた。


 短い沈黙の後、定まらなかった幼子の表情が徐々にはげしい赤へと染まってゆく。それをながめたラメドは諦めの境地で目を伏せた。


 アインがまた男の胸を叩く。その力は今までで一番強かった。それでも、叩かれた方にとっては砂粒が頬をかすめた程度の衝撃でしかなかったが。


「知らない知らない知らない! もういい! ラメドのバカっ!」


 金切り声でわめいたアインは、目をみはるような力でラメドを押しのけ、外の方へと走っていく。残された神族は柄にもなく呆然としていた。


 少女の足音が遠ざかり、聞こえなくなる頃になって、大きなため息をつく。そして、それと同時に空気が動いた。


「ヌン」


 音もなく立ち上がった大男の名をラメドは呼んだ。ヌンはのっそりと振り返る。無言だったが、ラメドは彼がしようとしていることをおぼろげに察した。ゆえに少しだけ、ヌンに頭を下げる。


「すまない。ありがとう」


 かつて魂のばんをしていた神族は、やはり何も言わなかった。ただ正面に向き直り、重い足取りで歩いてゆく。


 彼の姿が見えなくなるまでそこにいたラメドは、震動が小さくなると、かぶりを振った。


 アインのことも気になるが、今は悠長にしていられない。レーシュは機嫌を損ねるとアイン以上に面倒だ。それに、『選定』まで時間がない。


 迷いを振り切り、ラメドはその場から姿を消す。目的地は、すでに決まって――否、定められていた。

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