第72話 非日常への招待状

 手紙の差出人の名は、ラキアス・イルフォード。ステラの実兄だ。


 家を飛び出して以降、直接連絡を取り合うことはなかった。その兄から、どうして今頃手紙などが届くのか。妹は恐々としていた。


 ――ステラが悲鳴を上げた少し後、ミントおばさんが帰ってきた。完全に動転していたステラにとってはありがたいことである。院内の仕事や夕食をどうにか済ませて、急ぎの課題を終わらせた後、ステラは自室に駆け込んだ。


 改めて封筒を見つめた彼女は、死地に赴くような気持ちでそれを開く。厚みのある、上質な便箋の表面には、流麗な文字が走っていた。


 間違いない。兄の字だ。長いこと見ていなかったはずなのに、ステラはそう確信した。深呼吸して、目を通す。


 ラキアスからの手紙は、決して難解な内容ではなかった。形式的な時候の挨拶に続いて、ステラがいない間の家の様子が端的に綴られている。そして最後の方には、こう書かれていた。


『冬の大祭が近づいてきた。この街は慌ただしくなってきたよ。ステラ、一度シュトラーゼに戻ってきてはいかがだろうか。そろそろ両親に諸々の報告をした方がいいと思うし、家の者もおまえの様子を気にかけている。……』


「つまり、いい加減家に顔出せ、ってことよね」


 便箋から目を離すと、ステラは盛大にため息をつく。幼い頃の記憶の中にある兄の笑顔が、ぼんやりと浮かんですぐに消えた。


 彼の言いたいことはよくわかる。ステラ自身、両親の墓参りをほとんどしていないことに、引け目を感じてもいた。同時に、そういった理性的な思考の奥で、灰色の靄が渦巻いている。


 今回の場合、どちらにどう従うのが正解なのだろう。時が経つごとに、思考が深まるごとに、その思考がこんがらがってくる。ステラは頭を抱え、再び大きく息を吐いた。



     ※



 翌日。帝国学院のちょっと変わった同好会グループ『クレメンツ怪奇現象調査団』の面々は、大いに戸惑うこととなった。


「あ、あの……ステラさん、大丈夫ですか?」


 学院食堂、その一角。ステラは、ナイフとフォークを手にしたまま、机とにらみあっていた。上の空という言葉がよく似合うその姿を見かねてか、対面で昼食をとっていたミオンがおずおずと声をかけてくる。ステラはそこで顔を上げると、慌てて笑みをかおにかぶせた。


「あ、ごめん。大丈夫大丈夫」


 口早に答えると、ステラは食事の皿に意識を戻す。食器を扱う手つきがぎこちないことを頭の隅では自覚していたが、それはすぐ別の思考に圧迫されてしまった。


 隣で羊肉を切り分けたナタリーが、眉間にしわを寄せる。


「ちょっと、どうしたの? ステラ、今日なんか変じゃない?」

「今日は朝からずっとこんな感じ」

「そうなんですよ。理由を聞いても教えてくださらない……というより、会話にならないんです……」


『魔導科』の友人の疑問に答えたのは、ステラと同じ『武術科』剣術専攻の二人だった。レクシオとミオンの言葉に、残る三人が互いの顔を見合わせる。


 ステラに視線を戻したジャックが、食器を置いた。


「ステラ、何があったんだい? 悩みがあるなら、できる範囲で教えてほしい。僕らでよければ聞くよ」


 明るい声を受けたステラは、その場で硬直する。団長のまっすぐな言葉が、今はまぶしすぎて、申し訳ない。状況はまるで違うが、彼に対して引け目を感じたオスカーの気持ちが、おぼろげにわかるような気さえした。


 ステラもとうとう食器を置いて、頭を抱える。根菜のスープの湯気が、血色の悪い手をほんのり温めた。


「えーっと。悩み、というかその、実は」


 ステラは観念した。ラキアスからの手紙の件を打ち明けることにしたのだ。自分自身の問題なので、あまり『調査団』に甘えたくはなかった。そう思っていたから、昼までは頑張って黙っていたのである。が、このままでは黙っていた方が心配をかけるかもしれない。


 整合性の欠片もない切り出しで、昨日の放課後のことを語った。ひととおり話を聞いた四人は、なんともいえぬ表情で沈黙する。一方でただ一人、レクシオだけは笑って肩をすくめていた。


「なるほどねえ。おまえをここまでの抜け殻状態にする親族、ちょっと見てみたいわ」

「抜け殻とはなんだ」

「抜け殻じゃねーか実際」


 大仰に両手を挙げたレクシオに向け、ステラは拳を突き出す。軽々とかわされた。


 ステラは眉を寄せ、ため息をついた。安堵と同じくらい鋭い熱が胸を刺す。幼馴染がわざと軽口を叩いていることに、気づいたからだ。


 彼女の複雑な心境をよそに、『調査団』の面子もいつもの調子をじょじょに取り戻したようで、それぞれに苦笑している。二人が応酬を繰り広げたおかげだろう。白いパンをつまんだトニーが、それを飲み込んでからステラに視線を向けた。


「でもよ。確か、お兄さんと仲悪いってわけじゃないんだろ。手紙の内容も優しそうだし」

「うん。まあ。あたしとしては気まずさもあるけど、不仲ってわけじゃない」


 ステラはあっさりうなずいて、根菜のスープに口をつける。少し冷めていた。舌を湿らせたのち、ため息とともに続きを吐き出す。


「苦手なのは、どちらかというとおじい様の方でね……」

「ステラの祖父君というと、イルフォード家の先代当主だよね。今は当主代理だったかな」

「うん。隠居なさってたんだけど、両親が亡くなってからは、その代理を務めてくださってる」


 答えてから、少女はまた眉を寄せた。透明な大根を放り込むように口へ運び、しばらくの間咀嚼する。無事飲み込んだ後に、深くため息をついた。


「そのおじい様が、まあ厳しいお方で……家出娘がのこのこ顔出しに行ったら、何を言われることやら……」

「ああ、なるほどね。なんとなくわかった」


 青ざめてぷるぷる震えるステラを見て、ナタリーが呆れたようにかぶりを振る。


 他の四人の反応は様々だった。ナタリーと同じように呆れている人、何やら考え込んでいる人、引きつった笑みを浮かべている人。いずれにせよ確かなのは、食堂の一角がなんとも言えぬ生ぬるい空気に覆われたことだ。


 また、憂鬱の波が戻ってくる。ステラは頭を抱え、うめいた。


 いかつい祖父の顔。声を潜めて話す喪服姿の人々。兄の、痛ましい微笑。家の話をすると、いつも思い出す光景だ。


 両親の急死は、ほかのことはほとんど覚えていないような年頃の出来事だった。なのに、断片的な映像はしつこいくらい頭に残り続けている。


 祖父は大の苦手だ。兄や家人に対して、負い目もある。だが、実家に顔を出すことをためらう一番の理由は、薄暗い思い出の地に足を踏み入れるのが怖いから――なのかもしれない。


「どうしようかなあ」


 口ではそう言いつつも、結局行くしかないことは理解していた。今も彼女がイルフォード家の令嬢であるという事実は、揺るがない。その事実を背負っている以上、家を回すための最低限の務めは果たすべきである。


 だから、こうして悩んでいるのは、ただの悪あがきだ。


「ねえ、ステラ。実家に行くのは、必ずステラ一人でないといけないのかな」


 着地点が見えない少女の思考を止めたのは、妙に陽気な一声だった。ステラは、え、とささやいて頭を上げる。繊細な美貌にそぐわぬ明るい笑みを浮かべる少年を、呆然と見返した。


「例えば、友人がついてくるとか、そういう事態をご家族が好ましく思わないということは、あるかい?」

「い、いや。そんなことはさすがにないと思うけど……」


 戸惑いつつもそこまで答えて、ステラは目を瞬いた。思わずジャックの顔を凝視する。


「ひょっとして、一緒にうちまで行くつもりでいる?」

「それもいいかな、と考えていたところだよ。シュトラーゼで調べてみたいこともあるしね。もちろん、ステラが嫌なら無理にとはいわないけれど」


 ステラは勢いよく首を振る。身を乗り出して、ジャックの手を包むように握った。


「嫌だなんてとんでもない! 一緒に来てくれるなら、すっごく心強いよ!」

「本当かい? それならよかったよ。今度の休みに、両親に相談してみよう」


 朗らかに笑う団長に釣られるようにして、ほかの団員もふっと顔をほころばせた。スープを平らげたトニーが、悪戯っぽく口の端を持ち上げる。


「面白そうだな。俺もついていこうかなー」

「えっ、私も行きたい! シュトラーゼって冬場は雪がすごいんでしょ、見てみたい!」

「北極星の一門のおひざ元で見たいのが、雪かよ」


 肩をすくめた猫目の少年に、ナタリーは自分にとって雪景色がいかに希少なものかを語りはじめる。かしましいやり取りに、ステラたちもおかしくなって、声を立てて笑った。


「いっそ『クレメンツ怪奇現象調査団』全員で出かけてもいいかもしれないね。冬の同好会グループ合宿だ」

「わあ、素敵ですね!」


 ミオンが頬を紅潮させて応じている。彼女の、見るからに高揚しているという表情を見るのはこれが初めてだった。ステラは驚きつつも、団長に視線を投げかける。


「でも、同好会グループ活動となると、何らかの怪奇現象の調査っていうことにしないといけないでしょ? ネタはあるの?」

「それなら心配ないよ。言ったろう、調べてみたいことがある、って」


 ジャックは得意げに片目をつぶる。それから、全員を見渡した。


「みんな、シュトラーゼの冬の大祭と女神像についての逸話を知っているかい?」


 団長が問いかける。トニーだけは「ああ、あれか」と手を打っていたが、ほかの面子はそれぞれの顔を見合わせていた。戸惑う団員たちに『調査団』最古参の二人が解説をしてくれた。


 シュトラーゼでは、年越しの一週間ほど前に大規模なお祭りが催される。それに合わせて行われるのが、「女神像」の一般公開だ。


 シュトラーゼの聖堂には、女神ラフィアを模したたいそう立派な像がある。これは普段、教会関係者以外は見られないようになっているのだが、大祭の日だけは公開されるのだ。


 ここまでは、ステラもよく知っている話である。ジャックたちが熱を込めて語ったのは、この後だ。


 大祭の日、女神像周辺で奇妙な現象が観測されることがあるらしい。どこからか歌声が聞こえたり、魔導術を使ってもいないのに光球が舞ったり、人影のようなものが見えたり――といった具合だ。毎年のことではないが、年によっては五件以上そういった情報が上がることもある。


「これはまさしく、僕たち『クレメンツ怪奇現象調査団』が調べるべき案件だろう?」

「た、確かにそうね」


 声を弾ませるジャックに、ナタリーが応じる。顔も声色も引きつっているが、彼女の幽霊嫌いを知っている団員は、今さらそれを指摘しはしなかった。白いパンの大きなひとかけを頬張っていたトニーが、彼女を見やってにやりと笑う。


「この間みたいな幽霊かもしれないし、そうじゃないかもしれない。そうじゃなかったとしても、俺たちとしては見過ごせないっしょ」


 言葉の終わり、猫目はちらりとステラを捉えた。ステラも力強くうなずく。


 故郷にいた頃は、さして関心を払わなかった女神像。だが今は、妙に引きつけられる。感情的にも、立場的にも。


「確かに、それを調べるなら全員で行った方がいいな。何が起きるかわかんねえし」


 レクシオが、伸びをする。彼のこの一言で、六人の冬期休暇の予定がひとつ、決まったようなものだった。


 他の予定を確認しだす友人たちを見て、ステラは口もとをほころばせる。さっきまであんなに悩んでいたのが嘘のように、心の中が穏やかになっていた。


 自分もさっそく、実家に問い合わせた方がいいだろう。頭の中に予定を書き込みながら、ステラは何気なく幼馴染の方を見る。彼は飄々とした口調で、トニーやミオンと何か話し合っていた。


 ステラは首をかしげる。


 違和感を覚えていた。それは、例えば壁に小さなシミが増えた程度の違いなのかもしれない。だが――幼馴染の笑顔は確かに、冷たくこわばっていた。

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