第65話 再出発の日

 やわらかい光が瞼をなでる。それから少しして、騒がしい足音が地面を揺らした。その振動で、ステラはぼんやりと覚醒する。子どもたちのことと朝食の準備のことを考えながら、意識をゆっくり上へ上へと向けた。緊急時でもない限りは、こうして目覚めるのがつねだった。


 覚醒のだいたい一分後に目を開ける。いつもより天井が高いことに気がついて、はて、と寝たまま首をかしげた。ただ、視界の端にそびえる影のおかげで、その理由にはすぐに思い至った。あわてず騒がず体を起こすと、ステラは固まってしまった手足と背筋を軽く伸ばす。頭の上で手を組んで伸びをしたとき、隣の寝台をついでに見上げた。ちょうど、その寝台の主が緩慢に体を起こしたところだった。


 ステラは、彼に向って白い歯をこぼす。


「おはよ、レク。ちゃんと眠れた?」

「おはようさん。おかげさまで熟睡ですよ」


 レクシオ・エルデは、昨日より幾分か血色のよい顔で、ほほ笑んだ。



――昨夜。堤防が決壊したように泣いていたレクシオは、落ち着いてしばらくすると、ぼそりと言った。


『ひとつだけ、わがまま言ってもいいかね』


 泣きはらした顔をステラに向け、弱々しくほほ笑んだ彼の「わがまま」をステラは一も二もなく受け入れた。もとより、断る理由など存在しない。


 そのわがままというのが――朝までそばにいてほしい、というものだった。


『夜、一人でいると、いらんことを次々考えちまうんだ。一度寝付けても、悪夢で目が覚める。だからそうならないように、そうなっても大丈夫なように、一緒にいてほしい』


 孤児院に帰ってきてからのレクシオが、いつもぼんやりしていたのは、寝不足のせいもあったのだろう。先日までの自分の姿を重ねて、ステラは得心した。


 そういうわけで、ステラはレクシオの寝台の隣に布団を敷いて寝ることにしたのだった。この部屋にはもう一つ寝台があるのだが、そこはなんとなく、彼から離れすぎているような気がしたので。



 平穏無事に眠りの時間を切り抜けた二人は、連れだって一階に下りた。レクシオの足取りはやはりおぼつかなかったが、医師でもある院長先生の予想よりはしゃんとしていたのだろう。一階で挨拶したとき、ミントおばさんが珍しく目をみはっていた。そこは、さすが『武術科』というところだろうか。照れ臭そうに笑うレクシオを横目で見て、ステラもほほ笑んだ。


 子どもたちは、レクシオの姿を見るなり歓声を上げて駆け寄ってきた。それを適度になだめつつ、ステラは朝食が盛られた皿を並べていく。その間にも、なにか「事故」が起きないか、常に気を配っていた。だが、レクシオはレクシオで子どもたちをあしらうことを鍛錬の一環ととらえたらしい。容赦なく突進してきたジョージを受け止めて笑う姿を見たときには、ステラもさすがに呆れて肩をすくめた。


 騒がしい朝食を終えたら、二人はいよいよ学院に向かう。鞄の中身を点検するステラの横で、レクシオはミントおばさんからいくつかの注意事項を伝えられていたようだった。お互いの準備が済むと、二人は揃って孤児院を出る。思えば、こんなふうに最初からレクシオと通学路を歩いたことは、今までなかったかもしれない。そんなことを考えながら、早朝の帝都を突っ切った。


 学生たちの波を乗り越え、学院内に入ると、二人は記憶の通りに廊下を進んで、階段をのぼる。相当な人混みだから、ほとんどの人はレクシオに気づかず通り過ぎていく。今の二人にとって、それはかえってありがたいことだった。


 だが、逆に目ざとく彼を見つけた者もいた。教室まであと少し、というところになって、背後から軽やかな足音が近づいてくる。その正体を看破したステラは、静かに身構えた。


「うっはー! 幼馴染くんじゃーん!」


 あたり一面に響く歓声を上げながら、赤毛の少女が飛び出してくる。突進してきた彼女がレクシオにぶつかるより先に、ステラはその腕をわしづかみにした。ステラにぶら下がる格好になったブライス・コナーは体を揺らしながら二人を見上げる。


「止められたー! おはよう、ステラ!」

「はい、おはよう。なんであなたはそんなに嬉しそうなのか」

「だって楽しいんだもん」


 ステラが手を放すと、ブライスは危なげなく着地する。ちょうど、その後ろから少年がやってきて、ブライスの襟首をつかんだ。そうかと思えば「気を付け」と低い声で号令し、彼女の制服を整え始める。その少年は、赤毛の少女たちにとっては「部長」だった。


「まったく。朝から何をやってんだ」

「あ、ぶちょーもおはよう! ねえねえ、前見てよ、前」


 今にも踊り出しそうな少女を、オスカーは変なものをながめるような目で見つめていた。しかし、彼女の言う通りに視線を動かすと、瞠目して固まる。しばらく押し黙った後、彼は息を吐きだした。


「体はもういいのか?」

「おかげさまで。その節はどうも、お世話になりました」


 レクシオはおどけたふうに笑ってから、頭を下げる。それを見たオスカーは特になにも言わなかったが、レクシオが顔を上げると同時に小さくうなずいた。


「後で『魔導科』の奴らにも顔を見せてやれよ――レクシオ」


 それだけ言って、彼は三人に背を向ける。彼はそのまま、自分が向かうべき教室の方へ歩き去ってしまった。取り残された少女二人と少年一人は、唖然としたまま互いの顔を見合わせた。


 教室に入ると、数人の生徒が振り向いた。振り向いた全員が一瞬すごく驚いた顔をするのが、なんだかおもしろい。最初こそ乾いた沈黙が広がったが、それはすぐに打ち破られた。


「あれ、レクシオだ」

「今日から復帰なんだな」


 ばらばらと男子生徒が声を上げる。からりとした呼びかけに、レクシオも軽くほほ笑んだ。そのやり取りがきっかけとなって、一気に時が動き出す。ここ数日いなかった生徒のことに気づいた他の生徒たちも、次々とこちらに声をかけてきたのだ。


「よかった」「今回は大変だったね」というようなことを言ってくれる人も多く、その小さな言葉がステラたちの心をやわらげた。


 ステラとレクシオが暗黙のうちに隣り合った席に座ったとき、おさげの少女もやってきた。ステラは何気ないふうを装って、片手を挙げる。


「あ、ミオン。おはよう」

「ステラさん! おはようございます」


 ミオン・ゼーレはぺこりと頭を下げた。おさげ髪を揺らした彼女は、顔を上げ――それと同時に、硬直した。茶色い瞳は間違いなくレクシオをとらえている。見られた方も見られた方で困っていたが、彼は早々に態度を決めたらしい。


「よ、ミオン。久しぶり」


 ステラたちに声をかけるのと何ら変わらない調子で言う。しかし、ミオンの方はなんの反応もしなかった。首をかしげた少年は、彫像と化した少女にひらひらと手を振る。それでもミオンは反応しない。


 かと思えば、ぴったり三秒後に、大きな両目から涙があふれ出した。


「おわっ!?」


 レクシオが奇妙な声を上げてのけぞった。ステラも状況がよくのみこめずに、その場で沈黙してしまう。おそらく幼馴染と同じ心境だが、一方でミオンがそうなる気持ちもよくわかった。


 しばらく無言で涙をこぼしたミオンは、まわりの視線に気づくと、慌てて顔をぬぐう。様々な感情が混ざり合い、ぐちゃぐちゃになってしまったその相貌で、彼女は笑う。今にも溶けてなくなりそうな笑顔だった。


「……あの、おはようございます……レクシオさん」

「お、おお。おはよう」

「それと――おかえりなさい」


 虚を突かれたらしい。今度はレクシオが、二、三回ほどまばたきして固まった。彼はそれでもつかの間の驚きから立ち直ると、悪戯っぽく笑って、返した。


「ん。ただいま」



 お昼までは、何事もなく時間が過ぎた。今のところ実技や演習はないので、教室内に流れる空気は淡白だ。


 最後の講義が終わると、その空気がやわらかく色づいて、ほころぶ。肩の力を抜いた生徒たちがばらばらと立ち上がり、いくつかの集団に固まりながら教室を出て行った。ほとんどの人が、これから食堂に向かうのだ。すでに廊下は、談笑のざわめきで満たされている。


 大きく伸びをしたステラは、心の中で歌をうたいながら立ち上がった。今日のご飯はなんだろう、そんなことを考えるだけで心が弾むから、単純だ。


「レク、お昼食べにいこう!」


 つい、ふだんの調子で声をかけて、振り返る。そこでステラは、違和感を覚えた。レクシオが座ってじっと机をにらんでいる。療養中の、目の焦点が合っていない感じとは違っていた。どちらかというと、なにかをこらえているようだ。


「レク? どうしたの?」

「――ステラ」


 嫌な予感がして、言葉を重ねた。レクシオは彼女の方を見ないまま、口を開く。そして。

「立てない……」


 その姿勢のまま、うめいた。ステラはあっけにとられたが、すぐさま我に返って隣へと身を乗り出す。


「立てないって、どんな感じ? 足震える?」

「いや……震えはないけど、上手く力が入らないっつーか……あと、ちょっとだけ、気持ち悪……」


 状態を聞きだしている間にも、レクシオの顔色がみるみる悪くなっていった。そしてとうとう、机に突っ伏してしまう。


 これは、大人を呼んでくるべきだろう。だが、ステラは自分がここを離れてはまずいような気もしていた。とりあえず少年の背中をさすりつつ、しかめっ面で思考を回す。そうしていると、少し離れたところから声がかかった。


「おう、どした? 体調不良?」


 そう言って近づいてきたのは、剣術専攻の男子生徒だった。ステラはあまり話したことはないが、時々彼とレクシオがよくわからない話題で盛り上がっているのを見かける。


「足に力が入らなくて、気持ち悪いって」

「え? それ、結構やばいやつじゃね?」

「うん……。あの、もしよければ、先生を呼んできてもらえないかな」


 親交の深くない男子生徒にそんなお願いをしたステラは、続けて幾人かの先生の名前を出す。彼は、先生を指定されたことに不思議そうな顔をしたが、すぐにその疑問を引っ込めて、「わかった!」と請け負ってくれた。ステラたちが「作戦」で動き回っていたときのことを、思い出したのかもしれない。


 疾風のごとく廊下へと駆け出していく男子生徒に、ステラはめいっぱい頭を下げた。彼の姿が見えなくなると、ステラは伏せったままのレクシオを顧みる。頭の下からうめき声がした。


「ちくしょう……かっこ悪い……」

「誰に格好つける必要があるのよ。それに、具合が悪くなったら無理するな、ってミントおばさんに言われてるでしょ」


 口では説教くさいことを言いながら、ステラはちょっとほほ笑んで、またレクシオの背中をさする。少年は、ふてくされた子どもみたいなうめき声を漏らした。

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