第64話 夜闇にゆだねて 2
そののち二日間は、学院が休みだった。ステラは課題と子どもたちの相手に追われ、その合間に三回ほど医務室に顔を出した。いずれのときも、レクシオは最初、ぼんやりしていて、すぐに彼女には気づかなかった。ミントおばさんに聞いたところ、彼女が部屋を
「ここではないどこかを見つめているみたい」
ゆったりと述懐するミントおばさんを見て、ステラはますます眉間のしわを深くした。
そうして、休日はあっという間に終盤へ向かう。
二日目の夜。ステラは夕飯づくりを手伝いながら、子どもたちにも気を配らなければならなかった。
「ステラ。なんか、焦げ臭いよ」
「ええ!? あ、まずい、火止めて! 右から二番目のやつ!」
「あいよー」
気の利く少年が厨房の奥へ駆けていったかと思えば、どこかからそれこそ火のついたような泣き声が聞こえる。
「何なに、どうしたの」
「ジョージとルードがあっちで喧嘩してる」
「うわあ。こんなときに限ってやってくれるわね、こんにゃろう」
ぼやきながらも厨房から出たステラは、並べる皿の柄でもめたらしい少年たちの間に入る。なんとか決着がつきそうになったとき、夕飯づくりを主導していたミントおばさんが、のんびりと出てきた。
「さあさ、ご飯にするわよ~。ジョージもルードもほら、お顔ふいて、食べましょう」
怒鳴りあったのと泣いたのとで顔をぐしゃぐしゃにしている二人が、うなずいて厨房の方へ歩いていった。彼らを見送って安堵の息を吐いていたステラの隣に、慈母のごとき院長先生がやってくる。
「お疲れ様。ステラ」
「休みの日っていつもこんな感じだよね」
「あら、昔のあなたも似たようなものだったじゃない」
「……まあ、否定はしないけど」
ステラの場合、なまじ武術の心得があるだけに、喧嘩のときはもっと激しかったはずだ。そう考えると、先ほどのような口げんかはかわいく見える。確かに、自分が子どもたちに文句を言う筋合いはないかもしれない――思ったステラは、肩をすくめた。
他の子どもたちに料理を並べることを指示して、ミントおばさんはステラを振り返る。ふだんの笑顔のままで、まるでお使いの内容を伝えるように、口を開いた。
「そうだ。レクシオのことなんだけど、明日から学院に復帰することになってるわ。よろしくね」
一瞬聞き流しかけた。しかし、直後にその意味に気づく。ステラはぎょっと目をみはった。
「え? もう?」
思わず問い返すと、ミントおばさんはにこにこしたまま首肯した。こういうときの彼女は考えが読めない。ステラはまじまじと院長先生を見上げる。
「大丈夫なの?」
「怪我もだいぶん治ってきたし、栄養状態も今は良好。だから、必要な講義を受けるだけなら支障はないと思うわ。ただ、精神面がかなり不安定だから、当面はここから通うことになるわね」
最後の一言で、ステラは肩の力を抜いた。ここから通うなら、少しは心配事が減る。そう思い、改めてミントおばさんを見れば、笑みの中に不安の影がのぞいていることに気づいた。
――きっと、レクシオ自身が早めに復帰することを望んだのだろう。彼は学院の座学も実技も好きだし、おそらくは単位のことも気にしている。ミントおばさんがぎりぎりまで譲歩して、この形になったのだ。
そうなれば、ステラのやることは決まっている。ここに住んでいて、彼を知っているステラにしかできないことをやるのだ。
「わかった。レクのことは任せて」
ステラが、少女にしてはたくましい胸を叩くと、ミントおばさんは今度こそ顔をほころばせた。
あたりが闇に包まれ、子どもたちも一通り寝静まった頃。ステラは重い水差しを抱えて、せっせと階段をのぼっていた。
休日ほど彼女の寝る時間は遅くなる。気分が高揚した子どもたちを寝かしつけているうちに、時間が過ぎ去ってしまうのだ。あくまで学生である彼女になるべく負担をかけないように、とミントおばさんも頑張ってくれてはいるが、それにも限界というものはある。ここに住まわせてもらっている以上しかたがない。ステラ自身はそう割り切っていた。
今は、二階の医務室の水差しを交換してくれと頼まれて、そこへ向かっているところだった。おそらくこれが今日最後の仕事になる。
前の水差しを取りにいったとき、レクシオは眠っていた。今もきっと眠っているだろう。ステラはなるべく音を立てないように廊下を歩き、慎重に医務室の扉を開けた。闇の中、
忍び足で薄青い闇の中を進んでいたステラは、はっと息をのむ。医務室の窓近くに、人影が凝っているのを見つけたのだ。火の光のおかげで、その正体はすぐにわかった。
「レク、起きてたの?」
声をかける。と、少年はステラを振り返った。一瞬恐ろしいものを見るような目をされたが、その色はすぐに弱々しい笑顔の下に隠れる。
「……ああ。ちょっと、目が覚めちまったもんで」
「……そっか」
ステラは相槌を打ち、水差しを彼の近くに置く。そのときにちらりと振り返って、幼馴染の顔をうかがった。血色が悪く、目が少し落ちくぼんで見える。昼間よりは理性らしきものが感じられるが、それもまだぼんやりしていた。
ステラは体を起こす。用事は済んだ。後は彼に声をかけて、部屋を出ればいいだけだ。だが、彼女は、このまま立ち去る気になれなかった。
「あのさ、レク」
だから、口を開く。
「デルタ――魔導の一族のこと、ミオンから聞いたんだ。レクの家もそうだろう、っていう話もしてくれた」
レクシオが顔を上げた。ステラも、彼の方を振り返った。しばらくぶりに目が合う。光を反射した緑の瞳が潤んで見えたのは、ステラの気のせいだろうか。
「そうか。あの子、言ったのか」
白い掛布の上に、ぽつりと声が落ちる。その内容は、遠回しにミオンの話を肯定するものだった。無色の雫からは、なんの感情も読み取れない。ステラはふと、焦りのようなものを覚えて、顔の前で手を振った。
「ミオンを責めないであげてほしいの。レクを助けたくて、その一心で打ち明けてくれただけだと思うから」
「最初から責める気はないさ。こんな事態になるまで隠してた俺が悪い。同族同士ならどんなに魔力を隠していても気づく。それがわかっていながら、俺はミオンにすら、自分のことを話さなかったんだ」
少年は不器用に笑う。少女はそれを見つめて、かすかに震える手をにぎった。
――ずっと、勇気を持てなかった。幼馴染の内面に踏み込む勇気を。けれど、もう言い訳していられない。それではだめなのだ。彼に何かを与えたいというのなら、まずはステラが、
「本当に、魔導の一族なんだ。レクたちは」
「……そーだよ。ルーウェン解体を逃れた哀れな異端者だ。って言っても、その頃のことなんて、大して覚えてないけどな」
レクシオは、彼にしてははっきりと答えた。言葉の端々に自虐的な棘が見えるものの、彼がここまで明確に自分のことを話すのは久しぶりだった。
自分で訊いたにもかかわらず、ステラが返答に困っていると、レクシオは口の端をいびつに持ち上げる。
「『解体』騒ぎのときに母親が死んでな。親父と二人だけで街を出た後は、人目を忍んで旅を続けていた。けど、ある事件がきっかけで俺は親父と別れて、なにもわからないまま人の多そうなところに向かった。それが帝都だったんだ」
淡々と、しかし流れるように、レクシオは話を続ける。ステラは、しばし黙ってその話に耳を傾けることにした。一言も聞き逃してはならないような気がしたから。
「帝都へ着くまでも、着いてからも色々あった。当時はまだ、デルタと帝国のもめごとの記憶も新しい頃だったから。そうと気づかれりゃ追い払われたし、殴られもした。ひどいときは、声をかけただけで警察に突き出されそうにもなった。
そんな中でミントおばさんに出会えたのは、本当に幸運だったと思う。あの人は、エルデと聞いただけで俺の素性に気づいたのに、ここに置いてくれたんだ。俺のことを誰にも言わない、っていう子どもじみた約束も、今日までずっと守ってくれた。どんなに言葉を尽くしても表せないくらい、感謝してるよ」
ミントおばさんは、すべてを知っていたのだ。けれど、レクシオとの約束があったから、誰にも言わなかった。ステラや『調査団』のみんなにさえも。ずっと心に秘密を押し込んで、今日まで守ってきた。そして、それはレクシオ自身も一緒だったのだ。
「で、しばらくしてからクレメンツ帝国学院に通うことになったわけ。正直、書類選考の時点で落とされると思ってたんだがな。ミオンのことといい、あの学院はちょっと変わってる」
「ミオンも、書類上には全部書いたって言ってたらしいよ。……もしかして、『武術科』に入ったのは」
「ん。生徒に対して素性を隠すためと、あとは護身の方法を身に着けるためだな。『魔導科』だと絶対どこかでぼろが出るし、『理工学科』や『教育学科』は俺には合わない。そうなると、もう、入れる学科なんてのは限られてくるだろ」
ステラはうなずいた。その後には、沈黙が訪れる。
レクシオの顔色はなおも悪い。額にうっすらと汗をにじませ、わずかだが顔をしかめている。
明日から学院に復帰の予定なのに、ここで体調を崩すのはまずい。そう思ったステラは「そろそろ寝る?」と訊いたが、幼馴染は強くかぶりを振った。
前よりも細くなった指が、白い掛布を強くにぎった。しわの寄った布は、人に代わって悲鳴を上げているように見える。
「ミオンは、強いな」
レクシオは、震える声で呟いて、下を向く。
「俺は、みんなに言えなかった。たったこれだけのことが言えなかった」
ステラは思わず口を開きかけて、けれども思いとどまった。
たったこれだけなものか。その重さを幼い子どもが抱えるのが、どれほど大変なことか。そう言いたくなったが、喉元まで出かかった言葉を彼女は懸命にのみこんだ。その代わり、レクシオをじっと見すえる。ひとときも目を逸らすまい、とばかりに。
うつむいたままの少年は、懺悔のように、言葉を絞り出す。
「ステラや、ナタリーや、ジャック……みんなと会えて、仲良くなれて、一緒に
でも――それだけは、どうしてもできなかった。頭が真っ白になって、言葉が出てこなくなるんだ」
肩が震える。ステラはその様子を静かに見ていた。
「魔導の一族だと知られたら、今度こそ逃げられるんじゃないかって考えると、たまらなく怖かった。みんな、そんな奴じゃないって知ってるのにな。いつまで経っても不安は消えなかった。ここで拒絶されたら、今度こそ――」
レクシオが、顔を上げる。息を吸う。その拍子に、雫が彼の顔をつたって落ちた。
「今度こそ、生きていけなくなる、って思ったから」
ステラは唇をかんだ。彼の一声が、まっすぐ胸に入ってくる。同時に、喉の方からなにかがこみ上げてきて、目のまわりがかっと熱くなった。
振り向いたレクシオが、ステラを見上げて少し驚いた顔をする。よほど戸惑ったのか、体ごとこちらを向いた。
「なんでステラが泣いてんだよ。おまえの話じゃないでしょ」
「……あたしは、別に」
反射的に言い返して、ステラは思いっきり頬をぬぐった。寝間着の袖が濡れたことも気にせず、寝台の方に歩み寄る。上体を前に出して、そのままレクシオの背中に腕を回した。
「あんたが泣いてるの見たら、釣られちゃっただけだよ」
息をのむ音がした。彼の顔は見えないが、困惑していることだけは伝わってくる。
「俺、は――」
レクシオは反論しかけたが、それが尻すぼみに消えた。まるで、今まで己に起きていたことを自覚していなかったかのように。やっと、気づいたかのように。
じんわりと伝わってくるぬくもりに身をゆだねて、ステラはそっと目を閉じる。そういえば、昔はよく彼に飛びついたり抱き着いたりしていたものだ。そういうことをしなくなったのは、手をつなぐことすらためらうようになったのは、いつからだったろうか。
そっと手を広げて、少年の背中をなでる。ステラがそうしたのと、レクシオが体を震わせたのとは、ほとんど同時だった。
「やめてくれ」
か細い懇願が、ステラの耳に届いた。彼女は小さく首を振る。
「やめてくれ。頼むから。そういうこと、しないでくれ。優しくされたら、また、俺」
切々と訴えるような、それでいて泣き叫ぶような言葉。それをレクシオは繰り返す。
なぜそういうことを言うのか、ステラには不思議だった。――いや、本当は、その理由も察しがついているのかもしれない。レクシオが誰にも言わない、もう一つのこと。きっと、それに関わっている。
だからステラは、また首を振った。
「甘えて、いいと思うよ。むしろ、あんた、今まで甘えなさすぎだったんだよ」
だって、彼に甘えているのは、逃げているのは自分も同じなんだ。
彼の甘えをステラが否定する資格はない。むしろ、甘えてほしいから、頼ってほしいから――彼女は、それを伝える。
「レクが本当のことを言ったって、助けてって訴えたって、みんなは絶対にいなくならないよ。むしろ、すごく喜ぶと思う。だって、あたしが今、嬉しいもん。レクが自分のことを話してくれたことが。――万が一、みんながレクのまわりからいなくなっても、あたしはずっとそばにいるよ。何があっても、誰を敵に回しても」
押し殺した嗚咽を聞いていないふりをして、ステラはささやき続けた。今まで伝えられなかった気持ちを、一個一個、音にしていく。
「だから、もう安心していいんだよ。気を張らなくていいんだよ。居場所はちゃんとあるから。――ここが、レクの帰る場所だから」
気づけば、嗚咽はすすり泣きに変わっていた。それもどんどん高まって、ステラが両手に少し力を込めたときには、レクシオは火がついたみたいに泣いていた。
そんな声を聞くのは初めてだった。こんな心に触れるのは初めてだった。
もう大丈夫。せめて、あと一年早く、そう言ってあげられればよかった。そうしたら、彼は数日の苦痛を味わわずに済んだかもしれないのだ。
けれど、過去を振り返ってもしかたがない。起きたことは取り消せない。一度刻まれた傷は、容易には癒えない。
ならば今から、もう一度歩み寄るしかないだろう。一秒でも早く傷を癒せるように。小さな悲鳴を聞き逃さないように。
少年は長いこと泣き続けた。何度も何度も、ごめんなさい、と叫びながら。ステラは目を閉じ、彼を抱きしめたまま、その声を全部受け止めた。
――守って、支えるんだ。今度こそ。
痛ましくも穏やかな時間の中で、ステラは静かに決意する。それを口に出すことは、きっと当分ないだろう。
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