第三章 正義と悪の境界
第56話 罪科の証
レクシオは、灰色の無機質な机に自分の影が落ちるさまを見下ろして、短く息を吐く。疲労と憂鬱をわずかな嘲笑で溶かした息であった。
鈍い痛みを訴える肩をほぐしながら、レクシオは改めて部屋を見渡す。三人が入るのがやっとという広さ、そこには無駄に重そうな机が一台と、たびたび悲鳴を上げる椅子が二脚だけ。少年の頭上高くに開いた四角い窓には、鉄の柵が嵌め込まれている。それが、なおのことものものしい雰囲気をかもし出していた。
最初こそ心身ともに寒気を覚えた聴取室とやらにも、数回通えば慣れてしまう。レクシオは机にできた傷の数や壁の染みの特徴をすっかり記憶してしまっていた。無益な問答の間、それを心の中で数えるくらいしか楽しみがなかったせいもある。
突然、けたたましい金属音がした。扉の厳重な鍵が開けられたらしい。椅子の背もたれにもたれかかっていたレクシオは、うんざりしつつも身を起こす。同時、扉が無遠慮に開けられて、軍服と腕章を身につけた男が入ってきた。ぎょろりとした目、丸い顔にたっぷりと
「昨日の続きといきましょうかね、エルデさん」
暗くもったりとした声で、男――取調官は言う。レクシオは手首の痣を隠すように腕を組むと、無言でうなずいた。胸中で大きなため息をつきながら。
初日のうちは、よかったのだ。レクシオに同行を求めてきたメンデス少佐が相手だったから。メンデス少佐の聴取は淡々としていたが、ゆえにしつこく同じことを訊き返されたり、余計な揺さぶりをかけられたりすることもなかった。レクシオも特に動じることなく、知っている事実だけを述べた。
今の取調官に変わってから、雰囲気は一変する。彼はどうも、彼らの言う『デルタ一族』が心底気に食わないらしい。最初から横柄な態度で口を開き、レクシオが少しでも自分の思いと違うことを言うと、脅迫を口にし、胸倉や腕を強くつかんだ。今のところ殴られたことはないが、何の慰めにもならない。
今回の聴取の空気も、最悪というほかになかった。しかも、内容は昨日までに訊かれたこととほぼ同じだ。それに対してレクシオは、まったく同じ答えを返すようにしていた。いら立ちを表に出さないようにするのは、さすがの彼でも苦労する。
――むしろ、「寝室」と聴取室の行き来だけで未だに済んでいることが奇跡なのかもしれない。幼い頃に聞いた不穏な噂の数々を思って、レクシオは己の心をなだめようとする。それでも、取調官に対してささやかな反抗をせずにはおれなかった。
「前にも言いましたが、俺はこれ以上のことは知りませんよ。ヴィントと行動していたのは小さい頃のほんの一時期だけです。本気であの人を捕まえたいのなら、幼児の言葉をあてにするのはおすすめしません」
感情を極限まで殺して言った。それでも取調官は、太い眉をわかりやすく動かした。彼はしばらく書類をにらんで、何やら考え込んでいるふうだったが、それが済むと両肘を机について、軽く身を乗り出した。
「なぜ我々がヴィントを追っているかわかりますかね、エルデさん」
「殺人容疑がかかっているからでしょう」
彼の唐突な質問に、少年は端的に答える。『デルタ』だからだろう、と口走らなかった自分を褒めてやりたかった。
取調官は、大げさにうなずく。
「その通り。殺人犯だからです。けれど、彼はただの殺人犯ではない。だから警察のみならず、我々憲兵隊までもが捜索を続けているのです」
憲兵隊の皮をかぶった特殊部隊ではなく? という言葉が喉元まで出かかったが、レクシオはすんでのところでのみこんだ。彼が我慢の限界を試している間に、取調官は何枚か書類をめくる。何やらびっしりと文字が書かれた紙のところで手を止めて、彼は茂みのような髭を震わせた。
「これですな。ほう、もう十二年も前のことになりますか」
「……十二年?」
「息子さんはあまり記憶にはないでしょうがね」
レクシオがぽつりと数字を
「ヴィント・エルデには、イルフォード夫妻殺害の容疑がかかっているのですよ」
息をのむ。鼓動が急に速くなった。
目を閉じる。動揺の音が相手に聞こえていないことを祈るしかなかった。
「イルフォード家はさすがにご存知ですよね? 帝国屈指の名家であるうえに、そのご令嬢が学院に在籍していらっしゃるはずだ」
心音を割るようにして、取調官の声が響く。鬱陶しい。聞きたくない。だが、そう思われていることを悟られてはならない。
「軍事の面でも安全保障の面でも、ディオルグ卿は帝国に多大な貢献をなさっていましたからな。さすがに我々としても黙っているわけにはいかないのですよ」
レクシオは、細く深く息を吸って、唇をかんだ。
「……そうですね。俺も、イルフォード家のことは存じています」
冷えびえとした声が、凍てついた灰色の机に跳ね返る。保て、崩すな、そう心の中で何度も念じて、レクシオは取調官の方を見た。
「ですが、言われた通り、俺にはその頃の記憶があまりないので。ヴィントが当主ご夫妻を殺害したかどうかも、断言はできかねます」
椅子が軋んだ。取調官が、急に顔を近づけてくる。ぎょろりとした目は民話の中の四つ頭の怪物みたいにレクシオをにらんでくる。その怪物は、確か子どもや若者ばかりを食らうのだったか。
「本当に、何も覚えていらっしゃらないので?」
レクシオは口をつぐむ。にじむ汗を感じながら、動揺を自覚しながらも、相手の目を見続けた。
髭が動く。生ぬるい息が少年の鼻先を漂った。
「調べたところによると、あなたはご令嬢と多少親交がおありのようだ。自分の親がご学友の親を殺したと知った今の気分は、いかがですかな?」
聞くな。動くな。崩すな。
呪文のように繰り返し、レクシオは幾度かまばたきをする。――そうして、笑顔を作った。
「別に何も」
今度はレクシオの方から、相手に顔を寄せる。それもまた、ささやかな反抗であった。ひげ面にさざ波のような動揺が走るのをながめながら、レクシオは表面上穏やかに続けた。
「イルフォード嬢とは、学院で一時的に学びを共にしているというだけです。それ以上でも、それ以下でもありません」
何かがひび割れる音を聞く。ひびの中から顔をのぞかせた何かが、けたけたと笑っている。それはあるいは、レクシオ自身なのかもしれなかった。
事情聴取は昼休憩を挟んで行われた。レクシオが
扉の閉まる重々しい音を背後に聞いて、レクシオはやっと肩の力を抜く。こわばって使い物にならない足を動かして、何とか寝台に辿り着いた。うつぶせに倒れ込む。寝心地は最悪だが、
夕食が運ばれてくるまではあと三十分ほどある。時計はこの部屋にないが、感覚でわかることだ。
頭に触れる。頭皮がひりひりと痛んだ。昼間、取調官に髪をつかまれたところが、まだ痛みを訴えているらしい。いつもならこのていどの痛みは気にしないのだが、今日はやけに主張が激しかった。
そうでなくても、今日はなんだか気分が悪い。ものを食べられる気がしなかった。しかし、食べなければ体がもたない。万が一、体を壊しでもしたら、いよいよ「用済み」とみなされる可能性がある。それだけはなんとしても避けなければとは思うが、それでも体は重かった。横向きになろうと思いかけて、やめる。
レクシオは、ぼんやりした目を灰色の壁に向けた。
腕を持ち上げ、自分の目の前に掲げる。右腕の痣のそばで、武骨な鉄の輪が光った。よく見ると、不気味な色をした構成式が回転を続けている。装備した者の魔力を封じる魔導術だ。
――これを破って、すべてを壊してしまおうか。ふいに、そんな衝動に駆られた。
この程度の術は、魔導の一族の前では意味を為さない。レクシオが本気で魔力を動かせば、構成式の一片も残らず砕け散ることだろう。すべてを砕いて、壊して――そうして自分ごと焼き尽くしてしまえばいいのだ。
激情は、溶岩流のごとく駆け上がる。なのに、体は鈍いままだ。腕が突然重さを増し、
やかましい解錠の音が響くまで、ずっとそうしていた。
※
『しばらくここにいろよ』
優しい声がする。
『おまえの父ちゃんはいつもあんな感じなのか? レクも大変だなあ』
優しい人たちだった。
得体の知れない親子を迎え入れてくれた。
その優しさを奪ったのもまた、親子だった。
父がなぜ、二人を手にかけたかはわからない。だが、推測はできる。
息子のため――幼い息子を守るために、そうした。彼が人を殺す理由はいつもそうだったから。
尋ねたことはない。最後まで、尋ねられなかった。
けれど、推測が当たっているならば――あの二人を本当の意味で殺したのは、彼女の両親を奪ったのは、レクシオ自身なのだ。
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