終章 黄の月(フラーウス)の夕方に

第21話 夕日の下に影二つ

 もう、だめかもしれない。


 武道場の床に突っ伏したステラは、本気でそう思った。頭が熱い。体が重い。指先がぴりぴりして、動かせない。


「おーい、ステラー。生きてるー?」


 耳もとで間延びした声をかけられる。ステラはそれにも、すぐには返答できなかった。むり、もうむり、と何度か心の中で繰り返した後、ようやく声をしぼり出す。


「死んでます」

「なんとか生きてるね。よかった、よかった。これなら大丈夫」


 鬼か。


 出会って以降初めて、ステラはナタリー・エンシアをそう評した。声に出したわけではないから、ナタリー本人は友人からの評価など知る由もない。ステラの体を二、三度つついたのち、死人のごとき顔をのぞきこんできた。


「水飲む?」

「飲む……」


 答えて、ステラはようやく起き上がることを試みた。その動作はぎこちなく、ナタリーに支えてもらわなければ再び床に転がっていたところである。頭を起こした彼女に、ジャック・レフェーブルが水筒を差し出してきた。


「ありがとう……」

「こぼさないように気をつけて。今、手が動きにくいだろう」

「うん」


 慎重に水筒を持ち上げる。生ぬるい水を口に含むと、ようやく頭がさえてきた。ジャックに水筒を返したステラは、武道場の床に両足を投げ出す。


「魔導士はみんなこんな経験するの? なんなの? 修行僧なの?」

「いや、大抵の魔導士は幼いうちから訓練をして、少しずつ魔力を操れるようになっていくんだ。だから、ステラほど過酷ではないと思うよ」


 やけっぱちなステラの言葉にも、ジャックはきちんと答えてくれる。今は、団長の少しずれた優しさですら身にしみた。


 そんなステラの胸中など露知らず、ジャックは水筒を鞄に戻している。鞄の口を閉めると、大真面目に顎をなでた。


「後天的に魔力を得た人が、ある程度歳をとってから訓練をする――そういう事例は、僕も聞いたことがないな。知り合いの魔導士に似た境遇の人がいれば、何か参考になるかもと思ったのだけれど……」

「私だって聞いたことないわよ。だいたい、そんな人『翼』以外にいる?」


 ナタリーが腕を組む。魔導科生二人は、そのまま考え込んでしまった。


 今日、三人が武道場にいるのは、ステラの魔力制御のためである。


 女神に選ばれた人間は魔力を授かる――その言い伝えはまことであったらしい。『選定』の夜を境に、ステラは馴染みのない魔力に振り回されつづけていた。


 魔力を持たない人間はいない。しかし、その保有量には差がある。ステラの魔力は生まれたときからごく微少で、そもそも魔導士として期待されることすらなかった。


 そんな人間が、いきなり女神から授かった魔力などを持ったらどうなるか。要はマグカップに大海を丸ごと注ぐようなものである。結果は悲惨なもので、まず翌日にいきなり熱を出して寝込んだ。それが治ってもなんとなく体調の悪い状態が続き、常に野生の獣のように気が立っていた。孤児院の掃除中に魔力そのものが暴走しかかったこともある。銀の光が花火のように弾けだしたときには、心底肝が冷えた。


 話を聞いた魔導科生三人は、「放っておいてはまずい」との意見で一致したらしい。ステラはこの日の放課後、彼らによって武道場へと連行された。その後、トニーが私用で離脱し、一時間経過したのが現在である。


「ただ、僕が思うに――」


 はりのある声を聞いて、ステラは我に返る。ジャックの切れ長の目が、彼女をまっすぐに見ていた。


「ステラは持っていた魔力が少ないだけで、器にはもっと余裕があるのではないかな。でないと、魔力の入る隙間がそもそもないだろう」

「ええ……マグカップじゃないってこと……?」

 うむ、とジャックはうなずいた。

「『銀の魔力』だったかな。その魔力は、僕らの目から見ても強力だ。それを身に宿して生きているということは――マナゼスの三分の一くらいは、あるんじゃないかな」

「ほ、本当かなあ」


 ステラは頬をひくつかせた。

 マナゼスというのは、帝国の西にある大海の名だ。大量の水、広い場所の代名詞にもなっている。それをたとえに持ちだされれば、ひるみもするし疑念も生まれた。


 しかめっ面をしていると、いきなり背中を叩かれる。ナタリーが満面の笑みを浮かべていた。


「まあ、容量がいくらあると言っても、今まで魔力自体がほぼなかったのは確かだし。訓練は焦らない方がいいと思う。今日はこのくらいにしよう」


 友人の言葉に、ステラはうなずいた。安心していたのは、言うまでもない。


 しかしそこで、彼女はあることに気づく。武道場にいたはずのもう一人の気配が、いつの間にか消えているではないか。隅々まで見渡してみるが、やはり影も形もない。


「あれ、レクは? 確か『横で一緒に素振りでもしとく』って言ってなかったっけ」

「ああ、うん。実際素振りしてたけど、途中で用事を思い出したって言って出てったよ。ステラ、聞いてなかった?」

「……聞こえてなかった」


 ナタリーがこともなげに言うものだから、ステラは呆気にとられてしまった。少し、寂しさもある。友人は「そっかあ」とうなずいた。


「まあ、魔導術の話なんか聞いても、レクにはつまらないだろうしねえ」

「レクシオくんは根っからの武術科生だからね」


 ナタリーとジャックの言葉に、ステラはぼんやりとうなずく。うかつなことを言わないためには、そうするしかなかった。



     ※



 武器倉庫に練習用の剣を戻したレクシオ・エルデは、学院の裏門から帝都へ出た。裏門の警備員に学生証を見せておいたから、問題はないはずだ。


 元々は、ステラの魔力制御練習に最後まで付き合うつもりだった。終わった後に話したいことが山ほどあったので、なおさらだ。だが、あの日以来感じなかった気配を拾ってしまっては、そちらを優先しないわけにはいかなかった。今を逃せば、次の機会がいつになるやら、わからないのだから。


 ひと気のない路地を堂々と歩く。ここは、「善良な帝都民」は近づこうとしない区画だが、レクシオにとっては馴染みの場所だった。薄暗い通りも、建築法を無視した高い建物も、漂う生ごみの臭いも、すべてが懐かしい。自分から見て二つ先の角を曲がれば何があるのか、よく知っている。『彼』が行きそうな場所であることも想像がついた。


 二つ先の角。そこを曲がる前に、足を止めた。無人の民家の屋根の上。佇む人影を見つけた。レクシオはかぶりを振って、鋼線を取り出す。硬くしたそれを、古びてひん曲がった水道管に巻き付ける。ぐいん、と鋼線を伸ばしたその勢いで民家の壁を蹴り、あっという間に屋上へ辿り着いた。


 平たい屋根の上で、鋼線を回収して、仕舞う。一息つく間も持たず、人影に向き合った。


「――親父」


 そう呼ぶのはいつぶりだろうか。


 呼び声に揺さぶられたかのように、黒い肩が震えた。彼はやっと――やっと、レクシオを振り返る。


 よく似ている、と故郷にいた頃から言われ続けていた。実際、瞳の色も髪の色も同じで、レクシオの目つきはどちらかといえば父寄りだ。父の、レクシオと違うところといえば、髪のくせが弱いのと、いつもむっつりしていることくらいだろうか。


 ヴィント・エルデは、そっくりの緑の目でレクシオを見つめた。けれど、何も言わずに顔を背けた。


 レクシオは肩をすくめる。予想はしていた。が、予想ほどは堪えなかった。


「十数年ぶりに息子が会いにきたのに、だんまりかい? 冷たいなあ」


 冷たくなったのは自分の方かもしれない。レクシオは、心の底で己を嗤った。


「……俺を追ってくるとは、思っていなかった」


 低い声。父の声。あの頃より歳を重ねた気配はあるが、記憶とほとんど変わらない。レクシオは、波立つ心をなだめて、目を細めた。


「人殺しは見限られた、とでも思ったか? あいにく、あんたの息子はそこまで繊細じゃないんだよ」

「しばらく会わない間に、口は達者になったな。気をつけろよ、過ぎた沈黙と虚飾は、心をむしばむ」

「親父が言うと説得力があるな。肝に銘じておくよ」


 表情を動かさず、レクシオは応じた。そして――本題を切り出す。


「なあ、親父。なんで、あのギーメルとかいう奴らを追いかけている?」


 ヴィントは黙したままだ。レクシオは、努めて静かに言葉を重ねる。


「神様なんかに関わって、どうするつもりだ?」


 静寂は揺るがない。工事でもしているのか、遠くで重いものが崩れるみたいな音がする。


「あんた、一族の神様すら大して信じてなかっただろうに。それとも、無神論者からラフェイリアス教に鞍替えしたのか?」


 むだなことを言うのは、レクシオの本意ではなかった。だが、ここまでしないと今の父親は言葉すらくれないのではないか――そんな、恐怖にも似た予感があった。


 ヴィントはそんな息子を一瞥して、ようやっと沈黙を破る。


「知ってどうする」


 声は、闇より重い。


「おまえはただの人間だ。『翼』ですらない。それが、神の世界などを知って、何をするというのだ」

「親父だって、ただの人間だろ」


 レクシオは即座に言い返す。初めてヴィントの目もとが動いた。ほんのわずか、ではあったが。


「俺はどうもしない。ただ、親父の意図を知りたいだけだ。心配なだけだよ。家族を心配するのって、そんなにおかしいことか?」

「……まだ、家族と呼ぶか、俺を」

「当然だろう。あんたが家族じゃなくなったら、俺は天涯孤独になっちまうからな」


 おどけたつもりだったが、言葉自体は冗談になっていないかもしれない。――彼らにはもう、本当にお互いしか残されていないのだから。


 ヴィントは何も言わなかった。黙したまま、今度こそ完全に、レクシオに背を向けた。屋根から屋根へ、飛び移る。


 レクシオは動かない。止めようとは思わない。代わりに、ずっと見送った。影が完全に見えなくなるまで、微動だにしなかった。


 赤い空の中に父の姿が消えたのを確かめると、レクシオは長くため息をこぼして――目を閉じた。



(Ⅰ 神話の再開・終)

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