鉛筆と蝋燭

彩 ともや

鉛筆と蝋燭

あれは、星の降る夜のことだったと思う。

一人、夜の侘しい路地を歩いている時だった。

街灯は少なく、どこからか聞こえてくる罵声が私の草臥れたコートを撫でていた。

「おい、そこの。」

古びた煉瓦の壁から声がした。

何の建物か分からない、近代的な建物だ。

声の方を見ると、そこには老人が一人座っていた。

壁が喋るわけはないと思っているので、喋ったのはこの老人だろう。

冷たい地面に、ぼろぼろになりもう布とは呼べない何かになったものを敷いて、その上に胡座をかいていた。

「鉛筆は、いらんか?」

暗くてよく見えなかったが細く、骨ばった手だった。

その、決して幸福ではない手が1本の鉛筆を握り、私の方につき出されていた。

老人の膝先に光る蝋燭がゆらゆらと揺れて、鉛筆の先を黒く濡らしていた。

「鉛筆…ですか。」

「そうじゃ。鉛筆じゃ。」

老人は自信を持ってそう言った。

細い指が、細い鉛筆をしっかりと握っている。

今時、鉛筆を買う人はどのくらいいるだろう?

仕事で鉛筆を使わなければいけない職業は限られる。

きっと文明の進化がもたらした〈シャーペン〉と呼ばれる文房具がものを綴る時の大半を任されるだろう。

それでも、この老人は恥ずかしげも、後ろめたさもなく鉛筆を差し出してきた。

「…いくら、ですか。」

私は老人の顔は見ず、鉛筆の尖った先を見た。

異常に尖った黒い亜鉛は、どうやら老人が自ら削ったらしかった。

でこぼこした木の部分が、微かに蝋燭の火によって見えた。

「1本、50円じゃ。」

1本。

何故かその言葉に、心が震えた。

1ダース、ではなく1本。

その価値を重んじるような言葉に責められた気がした。

財布から平成15年の50円玉を取り出す。

たいした金属光沢も放たない50円玉を、老人に渡した。

「まいどあり。」

そうして渡されたのは1本の鉛筆。

何の変哲もない、ただの茶色い木の鉛筆だ。

もう、残り少ない蝋燭の蝋が、静かに道に落ちて固まっていた。


「おい、そこの。」

後日、また老人が鉛筆を売っていた。

20代前半の若者が、胡散臭そうな目で老人を一瞥した。

「鉛筆は、いらんか?」

以前と同じ、細い手が若者の方へのびる。

チッっとその若者は舌打ちをして、眩しく光るスマホの画面に目を落とした。

「鉛筆は、いらんか?」

それでも老人は声をかけ、手を差し出している。

若者は老人の方を見ずに、スマホの明かりを顔に張り付けて道を歩いていった。

その後ろ姿を老人は眺め、ゆっくりとまた正面を見据えた。

あの若者の後ろ姿は老人の目に、どう映ったのだろう。

風が吹き、立てられた蝋燭の火を揺らす。

頼りない火は以前よりも小さく、老いて見えた。

「おい、そこの。」

私に気づいた老人はまた声をかけてきた。

「鉛筆は、いらんか?」

私は老人のもとに歩いていき、

「先日、買わせていただきましたよ。」

と言った。

「…ああ、そうか。あんたか。」

私はその声が怖かった。

その声には侮蔑と、落胆が込められていたように感じられた。

〈私〉という人間を、品定めされた気がした。

「また、売っていらしたのですか。」

それでも、ここで立ち去ったらいけない気がして、私は老人に話題をふった。

老人は私の方は見なかった。

「ここで、働いているからな。当たり前じゃろが。」

老人は見下すような声を今度は放った。

働いている。

それが言葉として正しいのか、私にはわからなかった。

老人が〈働いている〉とは、思えなかった。

「そうなんですね。」

何と言って良いのか分からなかった。

こんなに乾いた言葉が自分の口から出るなんて、思わなかった。

「あ、鉛筆、買います。」

なんだか申し訳ないような気がして、私は鞄から財布を取り出した。

そして、50円玉を老人の顔の前につき出す。

「…お若いの。お前、俺を馬鹿にしとるな。」

「え?」

突然の発言に耳を疑った。

そんなつもりは毛頭なかった。

「お前は、俺を馬鹿にしとる。貶しとる。可哀想だと思っとる。汚いと思っとる。惨めだと思っとる。」

老人は、私の顔をじっと見つめた。

骸骨に、肌色の布が糊で貼り付けられて、眼球が埋め込まれた見たいな生気を感じない顔だった。

「そんな自分を、美しいと思っとる。」

脅迫、されているみたいだった。

何か、心の中をかき混ぜられているような感覚をおぼえた。

「そんなこと…」

「お前は、俺を、心配している振りをして、自分を正義を行う者に、優しく、良い人にしたいんじゃろ。」

何も、言えなかった。

違うと叫びたかった。

けれど、私の口は情けなく少し開いたまま、何も発さなかった。

「初めて会った時から、感じとった。『ああ、こいつは、駄目だ。』とな。お前は、美しくありたい溝鼠だ。」

「なら、あなたは何なんですか。」

刺のある、言い方だと思う。

でも、私は老人の言葉に腹が立っていた。

何故こんなにも腹が立つ。

今すぐ老人を殴ってやりたい衝動に駆られた。

胸ぐらを掴み、思い切り顔を殴り、違うと叫び、発言を撤回させ、謝らせたかった。

「『私は良い人間だ。』」

老人は言った。

「お前が言いたいのはこれじゃろ。でもな、俺が言いたいのは」

老人は立ち上がり、私を睨み付けた。

曲がった腰をできる限り伸ばそうとしているように思われた。

「俺は『〈人間〉であろうとしている俺』だ。」

蝋燭の火が震えていた。

老人の棒のような体を、淡い光で照らしていた。

老人の眼光が、鋭く、強く、射していた。

「〈人間〉であろうとしている俺?」

「お前とは違う。お前らとは違う。…〈人間〉でありたいんよ。」

老人は座り直すと、

「鉛筆は、いらんか?」

また、通りすがりの人に言っていた。

今日は、よく人が通る。

いや、以前もこんな感じだったのだろうか。

私が、知らなかっただけで。

認識していなかっただけで。

世界は、こんなにも自分に委ねられているものだったのだろうか?

こんなにも受動的だったのだろうか?

「人間は、本当は動物なんじゃ。猿で、犬で、鳥で、ただの動物よ。少し知恵をつけただけの。じゃがの、それが間違いやの。人間は汚い。人間は偽善者。人間は馬鹿。それが事実。じゃから俺は〈人間〉でありたい。誰かと同じ、個性の消えた副産物やなくて、俺という人間を生かし続けたいんじゃよ。」

老人は鉛筆をずっと握っていた。

ふうっと息を吐くと、白い靄が広がって消えていった。

もう、冬が蹂躙していた。

老人はそれでも、薄い服を着て、鉛筆を売っている。

「美しくありたいのも、正義を振りかざしていたいのも、結局は自分のため。それが人間じゃろ。そんな汚い溝鼠、俺は嫌いじゃわ。そんなのは〈人間〉じゃない。お前らは、溝鼠じゃ。」

老人は大きく深呼吸をした。

平たい体が、空気で満たされていった。

「…私は人間だと、やっぱり思います。美しくありたいと思うのが、良い人であろうとするのが、人間だと思います。…それが、良くても、悪くても。」

私は、50円玉を財布の中にしまった。

小銭入れの中からは、ジャリッという硬い音がした。

「…お前は人間か?」

老人は私の方を見つめた。

蝋燭はさらに小さくなっていた。

「はい。人間です。」

私は躊躇わずに答えた。

そして、草臥れたコートを翻し、都会の喧騒に紛れ込む道を歩きだした。

「あ、でも。」

足を止め、振り返る。

言っておきたいことがあった。

「私は、溝鼠の感性を持った人間です。人間で、ありたい人間です。」

微笑んでみせた。

暗くて、きっと老人の目には映らないだろうけれど。

もう、先程までの怒りはない。

ただ、少し軽くなった心と体が、冬の空気には気持ちが良かった。

「鉛筆、有り難うございました。では。」

きっと、もうこの道は通らない。

私はビルの隙間から見える小さな空を見上げた。

前方のネオンの明かりが邪魔で、星はよく見えない。

それでも、空には星と月があり、それが綺麗なものであると感じた。

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