異世界で絵を描こう

よしや

一章

美術室の影法師

 広大な大地と空を背景に悠然とたたずむドラゴン。

 月夜に戯れる妖精や、森羅万象の化身である精霊たち。

 ユニコーン、グリフォン、ペガサス。ドワーフ、エルフ、人魚に吸血鬼。ゴブリンやオーガやミノタウロス。


 空に浮かぶ島。湖に沈む城。光輝く水晶の洞窟に、歴史を物語る古代神殿。


 描きたいと思うのは空想上の世界の物たちばかり。何度も何度も挑戦しては出来栄えに納得がいかず、がっかりしていた。現実にある物を組み合わせればいいと言うが、そこそこ形になったとしてもあと少し、ほんの一歩何かが足りない気がする。






 私の通っている高校には変わった七不思議が有る。トイレの花子さんや魔の十三階段などありきたりな怪談の他に一つだけ、余所ではあまり聞かないものだ。


 通称『美術室の影法師』―――下校時刻を過ぎて美術室に一人で残っていると自分の影が勝手に動き出し、攫われて異次元に連れて行かれるというお話。異世界では無く異次元と言う所が怪談っぽい。


 文化祭前やコンクールの締め切りが間近になると嫌でも残らざるを得ないのに、とても迷惑な七不思議だ。



 高校卒業も間近の二月の寒い日、美術部員だった私―――黒沢七月なつきはスケッチブックを持って美術室にいた。三年間絵をここで描いていた私が最後の絵の題材として選んだのは、慣れ親しんだ美術室。


 スマホのカメラで撮って家で描けば楽なのかもしれないが、空気と言うか雰囲気と言うか、写真や映像では描けないものを描きたかった。単に絵になるような納得のいく写真を取る技術が無いだけとも言う。


 外が大分暗くなった頃、準備室に繋がる扉を開けて顧問の先生が入ってくる。


「おう、ご苦労さん」

「先生、すみません。あともう少しで仕上がりますので」

「ああ、鍵だけ職員室に持って行ってくれれば良い。きちんと戸締りして、六時までには帰れよー」

「はーい」


 先生はそのまま廊下へ出て行った。無理を言って開けてもらった手前、長時間残ることは出来ない。


 美術部は文化部の中でも人気のある部活動で、いつもなら部室の中はもっと賑やかだ。一年生と二年生は定期テストの前で部活動はしておらず、三年生は自宅学習に入っている。


 いつもならこの時間まで廊下で演奏している吹奏楽部の練習も聞こえず、辺りはしんと静まり返っていた。


 三年間の高校生活に思いを馳せながら、鉛筆のスケッチに水彩絵の具をのせていく。成績をある程度キープしながらも、ただひたすら絵を描いていた。油彩、水彩、風景、人物、静物問わず、頼まれれば行事のしおりのイラストまで。顧問が毎日指導をする熱心な美術教師だったからいろいろなコンクールにも応募して、美術部にありがちな漫研もどきになることは無かった。


 充実していたと胸を張って言える。だからこそ、ここでこうして絵を描くのが最後だと思うと寂しいと思う気持ちでいっぱいだった。


「よしっ、こんなものかな」


 出来上がった絵と部屋の中を見比べる。誰かに見せるつもりは無いので簡単なスケッチだ。


 鍵を職員室に戻すことを念頭に置いて、床に映る自分の影を見ない様にしながら私は帰り支度を始めた。こんな時に頭をよぎるのはやっぱり七不思議の一つだ。いつも一人は平気なのに何を予感していたのか、怯えながら動いていた為に手元が狂う。


「あっとと、やばい、芯折れたかな」


 使っていた鉛筆を床に落としてしまった。慌てて拾おうとした、その手が止まる。


「なに、これ」


 天井にある蛍光灯の光を受けて、しゃがんでいるはずの私の影は立ったままだった。机やいすのそれよりも一段と濃く、日の光を受けた時のようなくっきりとした長い影は、私に向かっておいでおいでをするように手を振っている。私は影に向かって首を振った。


「いやだ、行かないよ」


 そう言うと影は背をかがめた。ほっとしたのも束の間、鉛筆を拾った手首を自分の影から伸びた手が掴んでいる。がっちりと手首を掴んだ影の手に、生きているモノの温度は無かった。


 ひっ、と短い悲鳴を上げたがそれっきり恐怖で声が出なくなってしまって助けを呼ぶことも出来ない。足を踏ん張って抵抗する間もなく、そのまま影の中へと引きずり込まれてしまった。



 真っ黒で真っ暗な世界。光の一筋も射さず自分の指先すら見えなかった。呼吸は普通に出来て、手足を動かすことも出来るけれど固い地面はない。ふわふわと浮ついた感覚で、ばたばた泳いでみるも周りは何の変化もなかった。

 さらに、気の狂いそうになる程の無音の世界。

 引きずり込まれる際の恐怖による動悸が収まって来ると、徐々に冷静になっていた。


 ……困ったな。職員室へ鍵を返さないといけないのに。


 意識だけが、妙にはっきりとしている。帰る間際だったのでお腹が空いていて、ぐぅっと緊張感のない音を出した。


「あー、あー。どなたかいませんかー」


 声も出すことが出来た。けれどまったく響かない籠ったような声に答える者はいない。ずっとここに閉じ込められたままなのかと思うと、死ぬことよりも大好きな絵を描けない事への恐怖が湧き上がってくる。


 卒業後の進路は美術系の学部がある大学に決まっていた。将来は画家、広告等のデザイナー、イラストレーター。何でもいいから絵を描いたり色を載せる仕事に就きたかったのだけれど。


 ―――全部、今までの努力が全部このまま無駄になっちゃうのかな。


「どうせなら異次元じゃなくて異世界へ行きたかったよ。見たことのない景色や生き物を描いてみたかった」


 指先は見えないが幸いにも鉛筆を握っている感覚はまだある。けれど紙も何もないし、こんなに暗い中では自分が描いた線も見えない。空中に向かって動かしてみるけれど、手ごたえは全くなかった。


 ずっと、ずっと。死ぬまでこのまま。もしかしたらまともに死ぬことさえも出来ないかもしれない。一人、誰もいない場所で。


 涙が出てくる。これから絵を描きまくりなキャンパスライフを送って、その先には大好きな絵を描くこと=お仕事な素敵な未来が待っていて、辛くても頑張れる覚悟をしていたのに。


 たかが七不思議なんかに全部台無しにされるんだと思うと、ちょっとやけっぱちになってきた。力いっぱい叫べば神様か何かが拾い上げてくれるかもしれない。


「誰かっ、誰かぁぁぁっっ。神様仏様、誰でもいいから助けて下さーい。お願いします。…………お願いだから……誰か……」


 一人ぼやく声も元気が無くなっていく。絵さえ描けたら誰もいなくても平気で、気が狂う事もないのに。


 異次元と言うだけあって時間の感覚が全くない。影に引きずりこまれてからどのくらいが経ったのか分からない。何の変化も起こらない真っ暗な世界のまま、終いには手や足や私という感覚すらもあやふやになっていく。


 持っていた鉛筆、どこ行ったんだろう。もう何かを触っている感覚も全く無いや。


 異次元に連れて行かれて最後にどうなるのかは知らない。けれど戻れる見込みがないことを悟って、私は両親のことを思った。進学で離れて生活することは覚悟していても死に別れなるなんて予想も出来なかったし、きっと両親も自分たちの方が先だと思っているだろう。「ごめんなさい」と呟いたはずの声は既に自分の耳にすら届かない。


 体と闇との境界線も分からなくなり、なんだかすうっと闇に溶けていく錯覚に陥っていった。自分が涙を流しているのかお腹が空いているのかも分からず、いっそ発狂してしまえばこんなに苦しむこともないかもしれないと不穏な考えが頭を過よぎる。


 時間も空間も越えて永遠に続く闇が足掻く気力も希望も恐怖も徐々に奪っていき、やがて意識と記憶が途切れた。

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