真価④



「でも、カナリアこそが、累様を満たして差し上げます」



 禍々しく膨れ上がる黒い霧。

 それは急速に収縮して、一つの塊になろうとしていた。


 あまりにも、あまりにも大きい異形の姿に、束の間、呆然と見つめていた累だったが、慌ててカナリアに鋭い視線を飛ばす。


「知っていたのかっ。この男に、ノクスロスが巣食っていたことを!」


 この男は離反者……つまり魔法士だ。

 魔法士に潜むノクスロスなんて、タイムリー過ぎる。どう考えても、今追っている依頼の対象に違いないだろう。

 このノクスロスは、累にすら察知出来ないほど完璧に、魔力の檻の中で潜んでいたのだ。紺碧師団の手に余るのも致し方ない。


 しかし、その檻となっていた魔力は、もうない。

 累が、喰ったからだ。


 【止まり木】であるカナリアは、そんな累の特異性を知っていたはずだ。傷つけられれば瞬時に回復し、その代償に魔力を使うこと。穢れのない空間で魔力が飢えれば、誰かの魔力を喰らってでも飢えを満たすことを。


 ということは、全てを承知の上で、累の耳を噛んだに違いないのだ。


 ……累が、引き金を引くように、と。


「カナリアは、教えて差し上げただけですわ。魔力を強化する、一番簡単な方法を」

「なにを……」

「……魔力の餌は、穢れ……。——原始オリジナルである累様がそうなのですから、複製レプリカもそうでしょう?」

「…………っ!」


 確かに、魔力は穢れを糧に、その力を蓄える。


 戦いを続ける最前線の魔法士が、月日を経て強くなるのは、経験を積んでいるからだけではない。殲滅させたノクスロスを、自身の魔力が微量ながら捕食しているからなのだ。

 だが、そのさじ加減は難しい。

 穢れをその身に受けすぎると、浄化しきれない澱みが、肉体を蝕む。……


 だから、こんな禁忌の手法を広めてはならないというのに。


「喜んで身に取り込んでおりましたよ……?」


 そう嗤うカナリアの姿が、室内を揺らめく黒い霧の中に紛れていく。


「カナリア……っ!」

「穢れを一箇所に集めておけば、周囲の人間も安心でございましょ? 一帯は聖域にも近しい空間となり、不意の襲撃に怯えることもございません。……時期が来れば、大きく育ったノクスロスを、こうして累様にお捧げすることも出来る……」

「待てっ! 学生たちにも声を掛けたのか!? ヘルベルトは……っ!?」

「さぁ……カナリアは存じ上げないこと……あの男たちの思想には感心いたしましたが、どうやら頭が足りないようでした……」

「逃げるなっ、カナリア……っ! …………カナリアっ!?」


 累の叫びも虚しく、白い顔貌が、すぅ……と闇に溶けていった。ノクスロスが完全に変体する前に、どこかへ逃げたのだろう。


 残されたのは、禍々しく増殖し続ける穢れの塊……。

 人型が4足歩行をするかのような、細く揺らめく漆黒の異形へと、変貌を続けていた。


 その様に、累の肌が粟立つ。

 ……しかしそれは恐怖からではない。


 累の魔力が、御馳走を前にして、歓喜に騒いでいるのだ。



「くそ……っ!」


 立ち上がった累は、鋭い眼差しで周囲を確認した。

 少し前に聞こえたのが、事実ニイナの叫び声なら、向こうもノクスロスの発生を察知しているかもしれない。

 そうであるなら、非常に面倒だ。

 今ここで累が殲滅しようにも、その為には累の魔力が、この一帯を完全に支配してしまう。誰の力なのか、少し辿れば簡単にわかってしまうだろう。

 せっかく、先ほど上手く3人を誤魔化せたというのに、ここでバレては意味がない。マヌケも良いところだ。


 しかし、悩んだのも一瞬。走り寄ってくる3つの魔力の影に、遅かった事を悟る。


「——累っ!!」


 飛び込むように扉から入ってきたのは、堂本だ。相当走ったのか、団服が乱れている。


「累くんっ!」

「無事かっ!?」


 続いて走り寄ってきたニイナと和久も、ノクスロスと相対するように立つ累の姿に、驚愕と安堵の声をあげた。


 素早く累の前に立った3人は、自分たちが倒した離反者一味を視界に収めつつ、あらためて目の前の脅威に視線をやった。


「……っこんなタイミングで出るなんてっ」


 腰を落として戦闘態勢になった和久が悪態をつく。

 それに対して堂本は、黒い霧に飲み込まれたまま倒れている離反者に目を眇め、そしてかぶりを振った。


「喰われてるわけじゃないな……あの男……。累は見てたか? 発生の瞬間を」


 目線は異形に固定したまま問う堂本。

 その姿を冷然と見つめた累は、静かに答えた。


「はい、……発生源は、彼でした」

「宿主型かっ! 離反者が宿主っつーと、先日通達が出たばっかの難敵じゃねーか……っ」


 強く睨みつけながら吐き捨てる堂本の言葉に、和久とニイナが顔色を変えた。


「宿主型……!?」

「そんなの滅多に発生しないはずじゃ……」


 2人の視線の先には、濃すぎる黒い穢れに、体の殆どを覆われた離反者が倒れていた。足や腕の一部がなんとなくわかる程度だったが、喰われていない証拠に、ノクスロスは未だ身体の構成を終えていなかった。

 太く細く、濃く薄く、揺らめきながら形を変えて、その異形を成して行く。


 構えたまま拳を何度も握り直し、その姿に見入る和久。動揺したのか一歩下がったニイナは、蒼白な顔をしていたが、髪の乱れを直して呼吸を整えていた。2人とも気合を入れ直しているらしい。


 しかし、


「ダメだな……一旦引くぞ」


 離反者に捕まっていた時にさえ見せなかった焦りの色を滲ませて、撤退を指示する堂本。

 扉を指差すそれに、珍しくも反発したのはニイナだった。


「どうしてですか!? そこにノクスロスが発生してるのに……っ」

「俺たちだけで敵う相手じゃない……!」

「でも何もせず逃げるなんて、出来ませんっ! 彼だって離反者とはいえ、このまま放って置いちゃ……っ。他にも離反者一味を倒したままですし、少し離れた場所には民家もあるし……っ!」

「ダメだ! そもそも、ノクスロスとの戦いにおいての最小行動人数は、部隊単位だ。お前達がいるからと言って、団員が俺ひとりなんて、無茶が過ぎる」

「だからって……っ!」

「何も放置しようってんじゃない。増援を待つ間の退避だ」

「……でも……っ」


 堂本の正論すぎる剣幕に、言葉を詰まらせたニイナ。

 和久が、その背中を軽く叩いて、抑えるように、と促す。上位の指示に従う事は、基本的で絶対のルールなのだ。指示系統を乱す事は、任務の失敗に直結する。


 少しの間、髪紐に付いた小さなチャームをもてあそんだニイナは、唇を噛んで同意を示し……たのだが、


「——ひぃっ……」

「…………!?」


 突如割り込んできた男の声に、全員が慌てて振り向いた。


 立っていたのは、中肉中背の1人の男。累の双眸に、魔力の影は映っていない。恐らく、離反者に加担していた人間だ。


「……っ何をしにきたっ! 離れてろと言ったろ!」


 大きく腕を振り、立ちはだかるようにして怒鳴りつけた堂本。

 その剣幕に一瞬怯んだ男だったが、チラリと奥の一角に目をやると勢い込んで口を開いた。


「……こ、こっちにだって大事なもんがあんだよっ!! 持って逃げるぐらい、いいだろっ。ちょっとそこをどけよ!」

「状況が分からないのか!? ノクスロスの標的になるだけだぞっ!」

「〜〜お、お前たちのせいじゃないのか!? こんなタイミングで、こんな場所に……っ! ここはずっとノクスロスの被害がない、とても平穏な地だったんだっ。俺たちが信仰深く禍羽根を祀って、陛下の御為に活動していたからこそ——」

「治安を乱す行為になんの正義があるかっ! 意見があるなら筋を通せ!」

「うるせぇなっ! だったらさっさとやっつけてくれよっ!」


 堂本の容赦ない言葉に苛立ちを露わにした男は、制止を振り切って祭壇の奥に置かれた聖遺物へと駆け寄った。


「お、おい待てっ……!」

「これは俺たちが集めた聖遺物なん、だから——……」


 男が聖遺物を手に取った、その時。


 満足げなその表情が、驚愕に歪んだ。


 今まで周囲の穢れを取り込み続けていたノクスロスが、突如首を巡らせたのだ。——男に向けて。


「っ逃げて!!」

「おい、ニイナッ!」


 ノクスロスが獲物を定めた気配に、いち早く動き出したのはニイナだった。

 恐怖に立ち竦む男を庇おうと、ノクスロスとの間にその細身を晒したのだ。


 意図に気付いた和久が、素早くフォローに走り出したが、魔手を伸ばし始めたノクスロスを留める事など出来ない。

 漆黒の断片を撒き散らしながら、長い腕を大きく振りかぶったノクスロス。


 ニイナと和久が、同時に防御の魔法を紡ごうとするが、累の目には到底間に合わないことが明らかだった。

 援護するように放った堂本の攻撃魔法も、あの巨大な腕に干渉出来るほどの威力じゃない。


「ふたりとも……っ」

「累、出るなっ!」


 ふたりを助けようと動き出した累は、しかし、それを止める堂本に引き倒された。

 地面に手をつきながらも、瞬時に堂本の魔法に自身の魔力を上掛けする。


「うわぁぁぁああああああ!」

「…………ぐっ……」

「……きゃあっ……!」


 累が増幅させた堂本の魔法は、確かにノクスロスの攻撃を逸らすことに成功した。

 しかし、空振りしたノクスロスが体勢を崩し、その余波を食らった3人が吹き飛ばされてしまう。


 広くない室内だ。すぐに壁に叩きつけられた3人は、そのまま気を失ってしまった。


「っ、なんて威力だ……っ」


 伏せた姿勢のまま、愕然と目の前の光景を見つめる堂本。


 攻撃が直撃したわけでもないのに、魔法士見習いが2人とも、防御もままならず昏倒したのだ。普通に出現するノクスロスとは、一線を画する難敵なのは間違いない。


 禍々しい姿の黒い獣が、恐ろしいほどの破壊力とともに、その貪欲な欲望を剥き出しにしようとしている……。

 そんな時であっても冷静に立ち上がった累は、3人に大きな怪我が無いことを確認してから口を開いた。


「……魔法士を宿主にしていたからですね。魔力の檻の中で、存分に力を蓄えていたのでしょう。……そして今、宿主の抜け殻をその身に取り込んでいます」

「…………どういう事だ…………っ!?」


 累の言葉に促された堂本は、低い唸り声をあげるノクスロスの、その足元に倒れ伏していた離反者を見て絶句した。


 先ほどまで、退廃的で気だるそうな雰囲気をした男ではあったが、30代の健全な肉体をしていた。というのに、今はその面影すらなく、老人のように枯れた手足で、完全に干上がった死体になっていたのだ。


「な、なぜだ……宿主型といえど、ノクスロスが解放されただけで、こんな事になるなんて……」

「魔力で縛り付けたノクスロスと、ほぼ共生状態になっていたんです。ノクスロスが宿主を切り捨てた瞬間に、彼の生命もろとも全て、ノクスロスが奪っていった。……じきに、肉体も全て取り込まれます」

「…………そんな……!」


 血の気の引いた顔で、離反者の成れの果てを見つめる堂本。

 その視線の先で、枯れ果てた指先が、黒い霧になって瓦解し始めた。


 サラサラと、風化するかのように、穢れを振りまきながら消えていく遺体。


 流れ出た黒い粒子は、吸い込まれるかの如く、ノクスロスへと取り込まれ続けている……。


「宿主を喰い尽くせば、次の獲物を求めて再び暴れ始めます。逃げられる前に手を打たなければ……」

「……っ、なぜ、そんな詳しく知っている? そこまでの知識……どこで手に入れた……。いや、それよりもさっきだって、俺の魔法を……」


 眉間にしわを寄せ、累を見つめてくるその瞳には、何かを疑うような眼差しが含まれていた。


 ……それはそうだろう。

 自分が構成した魔力以上のものが、その魔法に乗ってきたのだ。魔法の構成に割り入ってくるなんて、通常では考えられない神業の上に、肥大化したノクスロスに対抗しうる強さを、的確に捉えていたのだ。


 ただの魔法学校の生徒だなんて、ここまでくると弁明のしようがない。

 しかし、この状況ではもう、仕方がなかった。


 軽く視線を下げ、諦めとともに覚悟を決める吐息を零す累。


 ——何よりも優先すべきは、この世界の秩序と安寧。


 そのために、ココにいるのだから。


「堂本さん。今から少しの間、目を瞑っておいて頂けますか」


 そう告げて、伏せていた瞳を開いた。


 濃い影を作っていた睫毛の隙間から、全ての視線を従える真紅の皇輝が、その真価を晒す。



 ——その瞬間。



 堂本は魅入られたように、膝を折っていた……。

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