第64話 ヒースローにて

 ヒースロー国際空港では、帰国便の出発を待つ切田家の姿があった。

 ロビーの大空間を支える柱は、苦無にスコットランドの森を想いおこさせた。

 すでにスーツケースを預けた彼らの横では、見送りに来たケイトが堀田と二人、恒例となった口喧嘩の花を咲かせていた。 


「あんた、あだ名を変えたほうがいいんじゃない? カエルなら『ぴょんちゃん』だけど、オタマじゃあ、せいぜい『にょろちゃん』ね」


「なによ! あんたなんか、化け物に迫られた時、めそめそ泣いてたくせに!」

 

「言ったわね! このオタマジャクシ!」


「なによ! この蜘蛛娘! ここでやろうっての!?」

 

 二人の間に、薄い紫色をした袖なしドレスがふんわり舞った。


「ローズ姉さま!」

「ローズさん!」


 つば広の白い麦わら帽子を手にしたローズがそこにいた。


「ケイト、お見送りの言葉はもうみなさんに?」


 妹は、姉の質問に質問で返した。


「姉さま! どうしてここに?」


「ふふふ、カワイイあなたのことなら何でも知ってるに決まってるでしょ」


 ローズはわざとらしく笑顔を作り、ウインクして見せた。

 ちょっと引きぎみな笑顔でそれを受けたケイトだが、彼女だけに聞こえるように姉が発した小声を聞き、体をこわばらせた。


「苦無君にさようならは言ったの?」


 堀田との言いあいでは元気だったケイトが、急にシュンとうなだれる。

 

「あんた、急にどうしちゃったのよ! 具合でも悪いの?」


 ケイトの落ちこみ方があまりにもひどかったので、さすがの堀田も遠慮がちにそんな言葉を投げかけた。

 

「ケイトさん、調子が悪いの?」


 それを見た苦無も、ケイトに近づいてくる。

 

「大丈夫よ、この子、苦無君たちと別れるのが寂しいのよ」


「ばっ、馬鹿言わないでよ、姉さん! 私、もう子供じゃないわ!」


「へえ、それなら、なんでカエルのぬいぐるみなんて抱いて寝てるのかな~」


「だっ、だめー、それ言っちゃ! いい、オタマジャクシ! 今のは聞かなかったことになさい!」


「……」


 堀田は、なぜか照れたふうで、耳まで赤くしている。


「まあ、さようならを言ってなくてよかったわ。ケイト、はい、これあなたの」


 ローズはケイトに大型の紙封筒を渡す。

 封筒の中から出てきたのは、パスポートと航空券だった。


「航空券は、おじいさまを閉じこめられた塔から助けてあげたご褒美に、おねだりしたお小遣いで買ったの」


「これ、ファーストクラスってなってる……」


 どうやら、ケイトがブリッジス卿からむしりとった報酬は、かなりの金額だったらしい。


「そうだよ。苦無君やぴょんちゃんと同じ便にしておいたから」


 苦無は昨日夜遅く泊っているホテルでローズからの電話を受けたが、その時、便名と出発時間を尋ねられた理由が分かった。


「姉さん、ありがとう! 大好き!」


 ケイトがローズに抱きつく。

 ローズは少しのあいだ妹にそうさせておいたが、やがて彼女の腕を振りほどくと、苦無の腕にすがりついた。


「えっ!?」


「私の座席は、苦無君の隣なんだよ~」


 ローズの言葉に、ケイトは航空券をもらったときより驚いた。


「ね、姉さんがなんで日本に?」


「ほら、この前は、あなたがケガしたから予定より早くこちらへ呼びもどされたでしょ。その時、世話係として私もこっちに帰ってきたのを忘れたの?」


「だからって、なんで姉さんまで――」


「えーっ? だって、日本って食べものがおいしいじゃない!」


「もういいわ。だけど、飛行機では私が苦無君の隣に座るんだから!」


 ケイトの突っこみには、しかし、ローズではなく堀田が答えた。


「蜘蛛女! シロー君の隣は代わりなさいよね!」


 苦無を巡る、ケイトと堀田のバトルがまた白熱していく。


「苦無が……苦無が美少女二人にモテてる……こっちなんか、結局イギリスでも彼氏できなかったなのに!」


 ひかるが姉らしくない不満をもらす。

 彼女は、いくつかある彼女自身の親衛隊ファンクラブが、ありとあらゆる手管で近よる男どもを排除していることなど知らない。

 さすがに彼らはイギリスまでついてきていないが、それでも彼氏ができなかったのは、両親と一緒にいたため、ひかる一人での行動が少なかったからだ。

  

 にぎやかな四人家族と三人の友人は、やがて国際線のターミナルへ吸いこまれていった。 



 


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