第62話 報い(下)


 ブリッジス家の当主ブライアンは、書斎にある書机から立ちあがり、小窓にかかるカーテンを大きな手で脇にやった。 

 スコットランドの空は、午後六時を過ぎてもいっこうに暗くならない。


「なにごとだ?」


 ノックの音がしたので、大柄な老人はそう返したが、ドアは開かなかった。

 書斎には、よほど近しいものしか入れないことにしている。

 彼の亡き妻を除くと、それが許されているのはローズだけだ。

 息子夫婦や孫のマイケル、ケイトでさえ、彼の書斎に来るのは遠慮している。

 だから、ノックした者が緊急の用件で訪れたと分かるのだ。


 ブライアンは、書斎にしては大きな部屋を横切り、ドアを開ける。

 そこにいたのは、苦無少年を監視させていた初老の執事だった。


「旦那様」


 その声に緊張を聞いたブライアンは、書斎から出てそのドアを閉めると、廊下を横切り向かいの部屋へと入った。

 六畳ほどの空間に、背もたれのある黒い革張りの椅子が一つ置かれただけの部屋は、そこで話されることが外部から盗聴されないよう、電子的だけでなく魔術的にも対策が施されていた。

 老人が椅子へ腰を下ろし足を組むと、立ったままの執事が口を開いた。


「苦無少年は、ケイト様と接触なさいました」


「うむ、予定通りだな」


 ブライアンは、苦無少年をこの国へ誘きよせるため、複数の手段を用意していた。

 ブリッグス家が少年と関係を持つために用意した「餌」の一つがケイトだった。

 彼女が日本で犯した失敗を償わせるためイギリスに呼びもどしたのだが、まさか、少年がそれに釣られてやってくるとは思いもしなかった。 

 塔に閉じこめたケイトを少年が助けることで、二人の関係が深まれば当初の目標は達成されたようなものだ。


「それと……悪い報告があります」


 そう報告する執事の口調は重かった。


「なんだ?」


「マイケル様が、少年になにか仕掛けたようなのです」


「どういうことだ?」


「塔の近くの森で大けがをされ、先ほど病院へ運びこまれました」


「あの馬鹿め! いったい、なにをしおったのだ!」


「医師の話では、大量の血が失われていたそうです。獣のようなものに噛まれた傷跡が体中にあったとのことです」


「噛み痕に失われた血だと!? 苦無の力か? ……いや、違うな。あやつ、まさか禁術に手を出したのか!」


「旦那様、それはいったい――」


「いや、今のは忘れろ。それより、ケイトは塔から出たのだな?」


「はっ、方法は分かりませんが、ケイト様がいらっしゃったお部屋には、見張らせていたドンが閉じこめられていました」


「……うむ、そうか。お前はなんとしてもあの少年を見つけだせ! ケイトが一緒なら、それほど難しくはないはずだ。それと、伊能の娘を二人から引きはなすことも忘れるな」


「畏まりました」


 執事が部屋から出ていくと、ブライアンの顔に笑みが浮かんだ。

 

「ケイトを塔から連れだしたということは、あそこに痕跡が残っているやもしれん。これは千載一遇のチャンスだぞ」


 魔術に対し変質的ともいえるほどの執着を持つ彼は、苦無少年が持つといわれる【力】の一端が調べられると思うと、じっとしていられなかった。

 ブライアンは老人とは思えない俊敏さで椅子から立ちあがると、大股で部屋の外へ出ていった。


 ◇


 老人は家から誰も出ないよう執事に厳命すると、グレイシャー邸の南東にある塔まで一人でやってきた。

 入り口の黒い金属扉をカードキーで開け、塔の中へ入る。

 見張り役のドンは、彼が普段住んでいる小屋に戻しているから、ここには誰もいない。

 石造りの螺旋階段を上がり、ケイトを押しこめていた部屋のドアもカードキーで開く。

 そこで彼は気づいた。

 この部屋のドアは、手を離すと自動的に閉まるようになっている。しかも、内側からはカードキーも使えない。

 

「そうだ、これがあったな」

 

 彼が懐から取りだしたのは、何枚かの古い羊皮紙だった。これは魔術に関する古文書で、市場しじょうに出れば、ひと財産以上の値がつく代物だ。

 彼はそれを折りまげ、閉まらないようドアの下に差しこんだ。

 そして、部屋の中を見まわす。


 殺風景な狭い部屋の中には、ベッドと机があるだけだ。

 ケイトが逃げてから誰にも触らせていないから、魔術が使われているとするとまだ痕跡が残っているはずだ。

 未知の【力】、その欠片かけらを自分だけが手に入れるのだ。

 用意していたワンドを手に、老人は使われた魔術を探知するための呪文を唱えた。


「古の知恵よ、使われしマナの響きを我に聞かせよ。【センスマジック】!」


 部屋の床に、小さな青い光が点々と現れる。

 彼は知るよしもなかったが、それは少女が変化へんげしたカエルが跳ねた痕だった。

 

「なんだこれは!? このようなものが【力】なのか?」


 よろめいた彼のかかとが扉の下に挟んでいた羊皮紙に触れる。

 閉じていた羊皮紙がぱらりと開き、障害物のなくなった金属の扉がゆっくりと閉まった。


 カチリ


 背後でロックされた扉の音を聞き、老人は慌てて振りかえる。


「くっ、しまった!」


 老人は、罵りの声をあげ扉を叩く。

 だが、塔の中はもちろん、この周囲には人がいない。

 電話は、いつも執事に持たせているし、たとえ持っていたとしても、この塔では使えないようしてある。


「誰か! ワシだ! 早くここを開けろ!」


 無駄だと分かっていて叫ぶ老人を、窓から差しこむ月の光が冷たく照らしていた。








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