第4話 キレッキレお母さん

 郊外の住宅地に、私が住む一軒家がある。

 五年前に、夫のひろしが三十年ローンで購入した。

 比較的安い物件だったのは、駅から遠い上、かつて谷川があったところを埋め立てた醸成地だからだ。

 そのため、坂が多く風通しが悪いこの地区は、梅雨のこの時期、湿気がこもりとても快適とは言えない。

 

 自転車を押し、急な坂をゆっくり登る。ここまで来ると、我が家まであと少しだ。

 ハンドルの前に付けた荷物かごでは、スーパーのタイムセールで買った品物が、膨らんだビニール袋をカサカサ鳴らしている。

 信号機のない四つ角に近づくと、声高に話す声が聞こえてきた。


「おーほほほ、そうなんですのよ! ウチの子は京聖きょうせいですのよ」

「あらまあ、それはご立派ですわ! ウチは、洛陵らくりょうですのよ! おほほほ!」


 おしゃべりで有名な近所の若いママ二人が、甲高い声を交わしている。

 どうやら、子供が有名な私立中学に通うことになったらしい。


「ねえねえ、それより聞いた? あの冴えないおじさんのおうち、娘さんも息子さんも都立ですって」

「まあまあ、それはお気の毒に。でも、しょうがないわよねえ。あそこのご主人、なんて言ったかしら、ええと、あのちんちくりんの――」

「ああ、ひろしさんでしょ」

「そうそう、あの方、お勤めが上場企業じゃないらしいの」

「んまあ、それは公立でも仕方ないわねえ」

「かわいそうにねえ」

「「おほほほほ!」」


 どうやらこの二人、私の家族について話しているらしい。

 でも大丈夫、このくらいのことで、キレちゃだめ。

 堪忍袋の緒というものが本当にあるなら、私が持つそれはすっごく太いんだから。

 ちょっとやそっとの事じゃあキレない、キレな――


 プツッ


 あー、やっぱりダメね。いくら堪忍袋の緒が太くても、家族のことになるとダメなの、私。

 自転車を押し、角を曲がる。

 ブランド物の洋服に身を包んだ若いママ二人が、ギョッとした顔でこちらを見る。

 驚きの表情は、すぐに隠し切れない侮蔑ぶべつのそれに取ってかわった。


「まあまあ、切田きれたさん、ご機嫌よう」

「ご機嫌よう」


 なんだ、その挨拶!

 お前ら貴族様か!

 とにかくスキルはすでに発動している。

 私は二人の顔をまじまじと見てやった。


「こんにちは、ご愁傷様」


 そう言い捨てると、私は軽い足取りで二人の横を通り過ぎる。


 ◇


「なにかしら、あの挨拶! あのお洋服、外出されるときは、もう少し上品なものをお召しになられるといいと思うのだけど」


 切田夫人の姿が消えると、ママの一人がさっそく彼女をネタに話しはじめた。  

 しかし、なぜかもう一人のママがそれに答えない。

 驚いた表情を浮かべた後、それは猜疑心に満ちたものに変わった。

 なぜか?

 

 さっきのセリフ、彼女にはこう聞こえていたのだ。


お洋服、外出されるときは、もう少しマシなものをお召しになるといいと思うんだけど』


 彼女は、少し時間をおいてこう返した。


「ええ、このお洋服なんて、大したものじゃありませんわ」


 ところが、その言葉は、相手にこう聞こえていた。


『ええ、お洋服なんて、大したものじゃありませんわ』


 こうなると、互いに相手が自分に嫌味を言ってるとしか思えない。

 短く挨拶を交わした二人はそそくさと別れた。

 ただ、その挨拶すら、二人にはこう聞こえていた。


『ご愁傷さま』(ご機嫌よう)


 ◇


 それから一週間後の夜、切田家二階にある夫婦の寝室で、次のような会話が交わされていた。


「聖子さん、仲良しで有名だったご近所のママ、なんて言ったっけ、あの二人? とにかく、急に引っ越すことになったそうだよ」


「へえ、二人とも家を建ててからまだ一、二年てとこでしょ。どうしたのかしら?」


「急に実家の方へ帰られることになって、お子さんたちも、通い始めたばかりの有名私立から転校するらしいよ」


「そう? 中学受験って大変なんでしょ? もったいないわねえ」


「お二方とも、ご主人と離婚されるらしいんだ」


「まあ! それは可哀そうね」


「ウチは仲良くしないとね」


「うふふ、私はひろしさん一筋だから大丈夫。それより、浮気なんてしないでね」


「あ、当たり前だよ。君のこと、愛してるんだから」


「知ってるわ」





空耳そらみみ】 

 切田きれた家の母、聖子が持つ異能。特定人物が、聞いた言葉を不都合な言葉に聞きたがえる。一定期間その状態を維持することも可能。

 発動条件は、強い感情の発露。


地獄耳じごくみみ

 意識することで、遠くの音でもはっきり聴きとれる。





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