第2話 キレッキレ女子高生

 都会の通勤電車は、殺人的な混みようだ。

 七時ニ十分に最寄りの駅を出るこの電車も、通路に立つと乗客が押す圧力で足が浮くほどだ。

 そのため、私は、なるべくドア近くの位置を確保する。二つ先の駅で降りるにも、その方が都合がよいからだ。

 

 額に落ちてきた長い黒髪を手で払い、扉のガラス窓から外を眺める。梅雨の合間の晴天は、心が浮き立つものだ。

 そんな時、背筋にゾクリと冷たいものが走る。

 今日も来たか。


 予感にたがわず、セーラー服越しに腰骨の辺りに誰かの手が触れたのを感じた。

 それはためらうように彷徨った後、臀部に向けて這いよった。

 振り向きざま、その手をガッシと掴む。

 手の持ち主は、どこか背広が似合わない、太った中年のおじさんだった。

 

「わ、私じゃない!」


 そいつは、私が非難の声を上げる前に、そんなことを言いやがった。


「え、冤罪だ!」


 この時点で、こいつに同情の余地はない。


「盗人猛々しいって言うけど、痴漢もそうなのね」


 自分でも、恐ろしいほど冷たい声が出る。

 まるで、誰か別人の声みたいだ。

 周囲の乗客は、何が起こったか気づきはじめている。

 

「みなさーん、ここに痴漢したのに冤罪だと主張する、とんでもないおっさんがいますよー!」


 大声で叫んでやる。

 この辺で「観客」は私の味方となり、おじさんに刺すような視線を浴びせる。


「はっ、離せっ! 冤罪えんざい、冤罪だー!」


「いい加減なこと言わないで!

 あんたが痴漢したのは間違いないのよ!」


「ち、違う! 俺は、俺はやってない!」


「いい年して、ごまかすんじゃないわよ!」

 

 うん、いい感じ、興奮してきたぞー!


 プチッ


 頭の中で、ハッキリそんな音が聞こえた。

 よしっ、キレたーっ!

 

「きゅぺっ!?」


 中年おやじが、突然そんな声を出し、彼自身の喉を両手で押さえる。

    

「きゅぴ~」


 おやじは、どこから出たか分からないような声を上げ、白目を剥き床に崩れおちた。

 駅に停まった電車の扉が開く。

 私はシューズの底でグリグリとオヤジの顔を踏みつけてから、ゆっくり車外へ出た。

 ふう、ちょっとだけスッキリしたかな。


 ◇


 大和撫子風の女子高生が去った電車の中では、乗客たちが一様に驚いた表情を見せていたが、その内の一人、作業服姿の男が、床に横たわる男に声をかけた。


「お、おい、あ、あんた、それは――」


 床に倒れていた男が、ゆっくり上半身を起こす。

 

「ぐえっ!」


 彼が吐きだしたのは、黒い毛玉のようなものだった。

 まさか、それが伸びた鼻毛でできた毛玉だなどとは、誰も思わないだろう。


「ひいっ! な、なんだこりゃあ」


 痴漢オヤジは、床に落ちた黒い塊を、恐怖にひきつった顔で見降ろしている。

 

「い、いや、そんなことより、あんた、どうしたんだ!?」


 先ほどの男がもう一度問いかける。

 オヤジが、不審そうな顔で作業服の男を見上げる。


「お、俺はやってない」


「いや、そんなことじゃなくてだなあ――」


 そのタイミングで電車が次の駅に停車する。

 痴漢オヤジは、転がるように扉を抜けると、人波をかき分けながらホームを駆けていく。


「あんた、これ――」


 逃げていく男が残していった、もう一つのを指さし、作業服の男が呼びかけているが、電車の扉が閉まってしまった。


 痴漢オヤジはといえば、足早に改札を抜けると、駅のトイレに駆けこんだ。


「くそうっ! まったくひどい目にあったぜ」


 水道の蛇口に両手を差しだし水をすくうと、それで顔を洗う。

 先ほどまで鼻の奥にあった違和感が、少しだけ和らいだ気がした。


「畜生……えっ!? な、なんだこりゃ!?」


 痴漢オヤジが驚いたのも無理はない。

 鏡に映った彼の頭には、毛が一本もなかった。


「ひいっ!」


 あまりのショックに白目を剥いたオヤジが、金属製の流しを抱え込むように気を失う。


「こりゃ、大変だ!」


 それを見た若いサラリーマンが、駅員を探すためトイレから跳びだした。


 


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