先輩の『あの』日——それは長い夜の幕開けで

 一しきり壁に向かって頭突きを繰り返した後、僕は自宅にへと帰った。


 未だに額が痛むが、回復魔法を使ったので傷などは塞がっている。いやあ、使えるようになっておいて助かった。


 いくらか冷静になった頭で、僕は取り敢えず買った食材類をテーブルに置いて、それから階段に向かう。


 ゆっくりと階段を上って、そして元は僕の寝室であり、今は先輩の寝室となっている部屋の前にまでやって来た。


 一旦息を整えてから、これまたゆっくりと慎重に、扉を軽く数回ノックする。


「…………入って、いいぞ」


 少し遅れて、扉の向こうから先輩の声が聞こえてきた。薬のおかげか、若干元気を取り戻せているように思える。


「わかりました。じゃあ、入りますよ?先輩」


 言って、入室の許可を貰った僕は扉のノブを握り、捻った。


 大した抵抗もなく開いた扉を抜けて、部屋の中にへと入る。部屋は薄暗く、また少し違和感を感じるほどに静かだった。


「先輩、具合はどうですか?」


 寝台ベッドの方にまで歩いて、僕はそう尋ねる。すると毛布を頭まで被った先輩が、ちょこんと顔を出した。


「…………少し、マシにはなった」


 そう言う先輩の顔は、確かにまだほんのりと赤みを帯びていたが、その琥珀色の瞳からは確かな活力を感じる。


 取り敢えず、僕はホッと心の中で安堵した。


「ならよかったです。……先輩、今日は朝から無理をさせて、本当にすみませんでした」


 謝罪をし、頭を下げた僕に、先輩は慌てるように声をかけてくる。


「お、お前が謝る必要なんかねえよ。……俺が、つまんない意地、張ってただけだし……」


「でも」


 それでも謝罪を続けようとする僕に、先輩はこう言ってくる。


「お前はなんにも悪くねえ。だから謝る必要もねえの——わかったか?」


 そう言いながら、普段よりは弱々しいが、向日葵が咲いたような笑顔を浮かべた。


 ——……この人には、敵わないな………。


 その笑顔に見事に打ち負かされた僕は、代わりに微笑を返す。


「わかりました——じゃあ、一つだけ訊きたい

 ことがあるんですが、いいですか?先輩」


「訊きたい、こと……?別に、いいけど……」


 訝しむように見つめてくる先輩に、僕は誤魔化さず、はっきりと訊いた。


「どうして、体調を崩してないって、嘘いてたんですか?」


 先輩は、すぐには答えなかった。困ったように瞳を少しだけ僕から逸らして、それから数秒経って再び僕の方に合わせた。


「め、迷惑……かけたくなかったんだよ。お前に、さ……」


 ……先輩がそう答えるだろうことは、大方予想はできていた。この人は、そういう人なのだから。


 ——全くもう……。


 呆れるような、嬉しいような。そんなよくわからない感情が僕の心を浸す。

 小さく嘆息しながら、僕は先輩に言う。


「別に構いませんよ。それに先輩言ってたじゃないですか」


「え…?」


 苦笑を交えて、きょとんとしている先輩に、僕は続けた。


「僕に無茶苦茶迷惑かけるって。嫌ってなるほど苦労かけるって」


 すると、先輩は一瞬呆気に取られたように沈黙して、それからあたふたしながら口を開く。


「い、いやっ、あれは、そのっ……こ、言葉の綾っていうかなんていうか……!」


「先輩、言葉の綾なんて言葉知ってたんですね。意外です」


「は!?それくらい俺だって知ってるっての!馬鹿にすんな!」


 頬を膨らませ、先輩は怒るが、やはり外見のせいで迫力など欠片もなく、可愛らしさが圧倒的に勝る。


「…………ふ、ふふ」


 そんな先輩に、僕は堪え切れずに軽く吹き出してしまう。するとさらに怒ったように先輩が声を上げた。


「わ、笑ってんじゃねえ!このアホ!」


 ——可愛いなあ………はは。


 なんというか、全く人畜無害な愛くるしい小動物を見ているみたいだ。依然吹き出しつつも、取り敢えず僕は謝罪を挟む。


「すみません。我慢してたんですけど、つい」


「むう………」


 むくれながらも、それ以上先輩がなにか言うことはなかった。そんな先輩に、僕は伝える。


「では僕は夕食を作りますので。できたら先輩の分を部屋に運びますよ」


「………おう」


 未だ釈然としない面持ちではあったが、それで先輩は頷いて再び毛布の中にへと潜った。


 ——さて、じゃあ僕は下に戻るとしますかね。


 そう思い、踵を返す——直前だった。




 ギュ——唐突に、服の裾を掴まれた。




「……先輩?」


 見てみれば、毛布から伸びた手が裾を掴んでおり、少し経って遠慮がちに先輩が毛布からその顔を覗かせた。


「……………………」


 じっと、先輩が僕の顔を見上げる。その宝石のように綺麗な、琥珀色の瞳が僕の顔を捉える。


 奇妙な沈黙を挟み、そして。




「……ク、クラハ」




 その声はどうしようもない不安に満ちていて。まるで夜に怯える子供のように、微かに震えていた。


「い、今から……お前にかけてもいいか?…………迷惑」

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