先輩の『あの』日——僕が覚えていますから
仄かに甘い匂いが、鼻腔を
「………………」
「………………」
沈黙が痛い。静寂が気まずい。何度目だろう、この状況。
——確かに、確かに僕は迷惑をかけてもいいと言った。別に構いませんよと言ったけど。
人生で二度味わえるかという、極限の緊張感をこの身に浴びて、僕は心の中で叫ぶ。
——まさか、先輩に……
そう。今僕は先輩の寝台の上にいる。そしてこの背中の後ろには、先輩がいる。
つまり、僕は今、先輩と一緒の寝台にいるということだ。
——沈黙……圧倒的、沈黙…………ッ。
先輩にあんなことを言った手前、断ることができず、腹を切るような面持ちで寝台の中に入ったのはいいが……何故かそれきり先輩は黙ってしまった。
なので僕も口を開けず、気がつけば沈黙はあまりにも濃密で、重過ぎるものに成長してしまい、もう口を開こうにも開けなくなってしまった。
必要以上の静寂の中、ただ聞こえるのは先輩の小さな吐息の音だけ。それが一体どれだけ気まずいことか、おわかり頂けるだろうか?
——……本当に、どうしよう。
もういっそのこと開き直って、寝てしまおうかと思ったが、こんな状況の最中そんなの無理である。無理に決まっている。
——そうだ。なにか考えよう。全力で頭を働かせて、無理矢理にでもこの状況から気を逸らそう。
そもそもだ。何故、先輩は急にこんなことを僕に頼んできたのだろう。「一緒に寝てくれ」なんて今まで言われたことはなかったし、先輩はそんなことを言う人でもなかった。
何故……だろう……?
——………………。
考えて、考えて————深き思考にへと、僕が没入する、直前だった。
むにゅぅ、という擬音が似合いそうな、感触が僕の背中を襲った。
「……………………??!!?」
人間、心の底から本当に驚くと、嘘みたいに声が出なくなるらしい。僕はそんなこと今までになかったので、あまり信じていなかったが、今身を以て体感した。
—————そうして現在に至る訳だ。いやあ、参ったな本当に。本当に…………!
「せせ、せんぱいっ?」
突如として押し付けられてきた、まるでマシュマロみたいに柔い感触に完全に狼狽し、情けなく上擦る僕の声に、数秒遅れて、
ギュゥ——僕の首に、先輩の腕が回されて、背中のマシュマロがより密着してきた。
——先輩ィィイイイイイッ!!??
もはやショート寸前の僕の頭の中に、小さな声が届く。
「ごめん。今だけ……こうさせて、くれ」
……その声は、震えていた。どうしようもなく、震えていた。
——先輩……?
先ほどから喧しく鼓動する心臓の音に、掻き消されてしまうのではと思うくらいに、消え入りそうな声で先輩が続けてくる。
「俺……怖いんだ」
その先輩の言葉は、予想外だった。僕がそう思う間も、先輩は言葉を零していく
「最初はよくわかんなくて、現実感もなくて……でも、お前が出かけてる間、考えてた」
僕は、なにも言えない。未だこの状況に混乱しているせいなのか、それとも……。
「よくは知らねえけどさ、要は女が子供を産める身体になったってことなんだろ?その、せーりって」
依然震えたままの声で、背中越しにそう僕に訊いてくる先輩。……だ、だいぶ答え難い質問だ。
「…………そ、そうですね。僕も詳しくは知りませんが、その認識で合ってるかと……思います」
「……そっか」
先輩のその声は、震えは若干止まったものの、その代わり——何処か哀しそうに聞こえた。
そのままの声音で、静かに、先輩が言う。
「おかしいよな。俺、男なのに」
首に回された腕に、僅かばかりの力が込められる。
「まだ頭ん中じゃあ、男だって思ってんのに。身体は女」
そしてさらに密着する、先輩の身体。柔らかい——女の子の身体。
「……なあ、クラハ」
先輩は、僕に尋ねてくる。
「今の俺って、
…………その問いかけに対して、僕は答えることができなかった。本当なら、即答すべきことなのに。
馬鹿な僕は、先輩に今かけてやるべき言葉の一つすら、思い浮かばない。
「……先、輩」
それが悔しくて、情けなくて、でもやはり言葉は出てこなくて。そんな自分を許してくれと言わんばかりに、ただの一言を絞り出すようにして呟くことしか、僕はできなかった。
そんな僕に、先輩が続ける。
「……実は、よ。昔の俺ってどういう奴だったか、今の俺は上手く思い出せないんだ」
「え……?」
それは一体どういうことなのか——そういう意味を込めた、僕の呟きに、先輩は腕の力をより少し強めて答える。
「全くって訳じゃない。けど、日が経ってく度に……こうして夜を過ごして朝を迎える度に、だんだん、昔の俺の姿が、ぼやけてく」
……そこで、初めて僕は気づいた。密着している、先輩の身体の震えに。それは、寒気からくる震えではない。それは——
「それがさ………怖いんだよ」
——怯えに、よるものだった。
「なあ、クラハ。知ってるか?女の身体って、信じられないくらいに軽いんだ。いつもふわふわしててさ、いつかどっかに飛んじまうじゃないかって、歩く度に思っちまう」
言葉が続けば続くほど、先輩の腕に力が込められていく。
「…………俺、消えたくねえよ」
——……………………。
一体、どの言葉が正解なんだろう。一体どの選択肢を取ることが、正しいのだろう。
こんなに不安そうな先輩は初めて見た。こんなに怖がってる先輩は初めて見た。
その不安を僕が理解することは叶わない。その怯えを僕が共感することは叶わない。
そんな自分が、どうしても許せなかった。
——……。
正解なんてわからない。最適解なんてわからない。
でも、それでも——僕は、
「ラグナ先輩」
ギュ——胸の前にあった、先輩の手を握った。
「無責任な言葉かもしれません。身勝手な気持ちかもしれません。でも、聞いてください」
できる限り、優しげな声音で。和らげな口調で。僕は言葉を紡ぐ。
「もし、今の先輩が昔の先輩を忘れてしまっても、僕が覚えてます。この先ずっと、覚えていますから」
絶対に離さないように、その小さくなってしまった手を、痛くない程度に握り締めて、続ける。
「だから安心してください。何度だって、僕が教えますよ——昔の先輩を、今の先輩に」
……できれば、顔を合わせながら言いたかったが、そうすると理性が持ちそうにないので、それは断念した。
寝台の中が、再び沈黙に包まれる。だが先ほどと違って、重く苦しいものではない。
そして、こつん、と。僕の首筋に硬く、でも柔らかい感触が伝わる。
「…………あんがと」
もう、その先輩の声に震えはなくなっていた。
しばらくして、背後から先輩の寝息が聞こえ始めた頃、ふと気づいた。
——……あれ?もしかして、朝までこのまま?
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